久遠の森
本日も拙作を御読み頂きまして、誠にありがとうございます。
〔ボニーさーんー、ボニーさーんってば!〕
せわしないグラミィの心話に集中が途切れた。
なによグラミィ。
〔なによじゃありませんよ。もうすっかり陽が落ちてますって。真っ暗になっても戻ってこないから、タキトゥスさんたちまで心配してるんですよ!〕
おう。そりゃ悪かった。海の中だと、明るいも暗いもさっぱりわからないから、つい。
〔そりゃそうでしょうけど。……なんかありましたか、ボニーさん?!〕
…………。
なにか、ってなにさ。
〔すっっっっっごく不機嫌そうですけど〕
別に。
〔ほらそこが変ですってば!ボニーさんにしては口数が少なすぎてびっくりですよ!〕
……口数の多い骸骨がいた方が、普通はびっくりするもんじゃないのかね?
とりあえず。
キリのいいところまで仕上げたら、あたしも勝手に戻るから。あんたは先に領主館に帰って寝てなさい。生身なんだから。
なにせ冬の海は荒れやすい。一度でも大時化になったら、海底の砂なんてあっという間に巻き上げられて、どこへ持ってかれるかわかったもんじゃない。
せめて今むき出しになってるぶんだけでも飛ばないように、石で押さえておかないと、また一からやり直しだ。
〔いやそれちゃくっと省略してください。あたしだけならまだしも、アウデーンスさんまでついてきてるんで〕
うわ。まじかい。
……しょうがない。ふきっさらしのところに二人とも立ちっぱなしにさせとくわけにはいかないもんな。
諦め気分で集めた砂の表面を散らないように石化し、結界越しに海底を蹴る。海面から頭蓋骨が出たところで結界を変形、海面上に平たく成形し直すと、あたしはその反動で海面上にぽんと飛び出た。波に押されて斜めったのはご愛敬だろう。
ぺたぺた海面を歩いて、導流堤をつなげる予定の砂嘴に近づくと、グラミィが火球をこしらえて待っていた。灯火兼熱源代わりに維持できるようになったあたり、グラミィも術式のアレンジは上手になってきたようだ。
「『かような時刻に、アウデーンスどのにこのような所にまでお迎えいただくとは恐縮にございます』とのことにございます」
「いえ、気分を変えるにちょうどよいきっかけでしたので。シルウェステル師のお気になさることではございませぬ」
アウデーンスさんも次期ボヌスヴェルトゥム辺境伯となってからは、一人で出歩くことはしなくなった。というか、できなくなったというのが正しいのかもしれない。
今も護衛がついてきているが、それもいつもアウデーンスさんが気安いつきあいを楽しんでたような、ベーブラ港にたむろってる船乗りさんでは当然、ない。
若い騎士、というか従士の前では、アウデーンスさんもボヌスヴェルトゥム辺境伯家の一人として振る舞う必要があるのだろう。公の場でなくてもあたしたちにかちっとした敬語で接するようになったの、だが。
じつにあわないことこの上ない。レンタルなぱっつぱっつんの七五三衣装に押し込まれた姿を見ているような、微妙にこっちまでいたたまれない気分になるのはどうしたもんか。
……でも、アルボーで初めて顔を合わせた時は、こうだったんだよね。ほんの数分ぐらいだったけど。
領主館の門を入ったところで、あたしたちはアウデーンスさんの私室へと誘われた。これまでさんざんあたしたちにあてがわれていた客室に入り浸っていたのにだ。
どんどん気ままな行動ができなくなってるのも、おそらく港湾伯の跡継ぎ確定が影響しているのだろう。
そこは素直に南無っとこう。
だけど、客室に押しかけられるよりも、今のあたしには都合がいい。
「シルウェステル師。遅くまで熱心に励まれていたようですが、今日はどのようなことをなされておられましたので?」
グラミィに口頭で全部説明してもらうのは……ちょい大変そうだな。
例の砂模型は応接間にあるので、机上にあった略図を借りて説明しようじゃないの。
小石と砂を作り出してさらさらと撒く。グラミィ。補足説明はよろ。
導流堤のラインを決め、浮子と重りをロープで結んだものを海面を歩いて設置した後、あたしはサクスムセッラーミナ男爵領の岩礁地帯から何十本という柱状の岩塊をもらってきた。
導流堤の基部となる海底もオール砂地なので、そのまま上に何かを築いたら、それが楼閣であろうがなかろうが、簡単に崩れるのが目に見えている。
こんな不安定な地盤を固めるには、どかどかと木の杭を打つという工法しかあたしは知らない。
だけど、ボヌスヴェルトゥム辺境伯領じゅうから水に強くて目の詰まった針葉樹を大量に集めるってだけでもちょいと大変だ。生木は乾かさなければ材木にできないし、それを必要に応じて切りそろえる人間はどっから集めろと。いや当てがないわけじゃないけどさ。
何より、森を作るのに木を伐るとか。そんな本末転倒っぽい方法を、森精の二人が嫌がらないわけがない。
そんなわけで、あたしは数メートルある岩塊を、その直径より一回りぐらい小さい穴を結界刃で抉ったところへ、ぐりぐりと押し込むという方法をとっていた。
地盤ができた所へ、うまく凸凹がはまるように、海面の高さにまでを壁状に岩石を顕界し、その間に砂を埋め込んでいく。
ベーブラ港も堆積した土砂に相当やられてはいたが、それはロブル河も同じだ。河口付近で大きく蛇行するようにぐにぐにと流れが渦を巻いてたのは、水脈が暴れているからなのだろう。斜めに孔を開けられたホースが踊りまわりながら水を撒き散らすようなものだ。
浅いところと深いところが極端に入り混じっていた河口を越えないと出入りができないせいもあって、いっそうベーブラ港の使い勝手は悪くなってたようだし。
あたしはその堆積した砂を川や港の中心にあわせ、とりあえず、ずどーんと直線状に削り取った。その砂も導流堤の一部に採用することにして移動したところでして……そうだなー、今んところこんな状態になってますよと。
「シルウェステル師は、まこと偉大な魔術の使い手であられるだけでなく、勤勉でもいらっしゃる」
アウデーンスさんは感心したように言ってくれたが、あたしゃやらなきゃならんことをやってるだけですよ。次期ボヌスヴェルトゥム辺境伯への現状報告も含めて。
で。わざわざあたしを呼び戻すのに出てきたってことは、なんか用があるんでしょうが?
そうストレートにグラミィに伝えてもらうと。……じつに珍しいことにアウデーンスさんはためらった。
だから何よ。あたしゃ面倒な駆け引きとかしている時間はないの。出し惜しみすんのはやめていただきたい。
口に出さないんなら、このまま引き上げるけど?
「……では、お言葉に甘えて伺います。まさかと思うのですが、あの黒髪の星詠む旅人は、シルウェステル師に所縁のある方でしたか?」
〔……へ?〕
そんだけ『所縁』という言葉に力を込められては、グラミィだって感づくわ。
アウデーンスさん。あんた、ペルがシルウェステルさんの隠し子かなんかだと思ってんのかい。
どこをどう見たらそうなる。
「『彼はこのような姿になってから、初めて会った方にございます。かの父にも母にも面識はございません』」
これは掛け値なしに本当のことだ。
てか、シルウェステルさんの評判にかかわるようなことを、うかつに言わないでくれませんかねアウデーンスさん。ペルのことはカシアスのおっちゃん経由で王都に報告済みなんだし。
ちなみに、ペルに関する報告を受けた王サマたちは、速攻、アルボーの治安維持のために駐留してる、ってことになってるバルドゥスのところに、魔術士隊の四人組とコッシニアさんを派遣した。
他国とはいえ、王権と結びつきがないわけでもない森精が集団拉致されたという異常事態を重く見たのだろう。船を相手にするんなら、四人組の火球弾幕もそれなりの示威にはなると思う。悪くない人選だ。
バルドゥスとランシア河を急行した彼らは協力して、例の人攫い一味の、アルボーでの足取りを洗い出した。
それによると、一味らしき一団が例の奴隷商館がぶっつぶれてるのを見て騒いでたとか、そそくさとベーブラへと向かったとかいう話が集まったらしい。
不幸中の幸いというべきか、アルボーに被害らしい被害はほぼなかったようだ。
一味の中に、アルボーに潜伏してるような面子は皆無らしいということ、魔術的な残渣は感知しなかったということが海伝いに港湾伯にも送られてきてたが、それを訊いたときはあたしも胸骨を撫で下ろした。
万が一にでもバックアップ要員とか置かれてたら、こっちの情報が筒抜けになってたおそれがあるもんね。
……ペルといっしょに連れてこられたって森精が、何人か道中で亡くなり、その遺体はグラディウス地方の海中に投棄されたという話だけは、確かめようがなかったが。
話がそれたが、そもそも人間と森精の間に子どもができるのかっていうと……ぶっちゃけあやしいとあたしは見ている。
近縁種とはいえ、子孫が生まれるほどそこまで遺伝子レベルで相似性が高いかは不明だという生物学的な問題もある。
森精が人間との接触をあまり持たない――彼らが積極的に接触を試みる大きな例外が地上の星の存在だ――というのに、そんなことがあるかいな、という疑問もある。
確かにヴィーリやペルの外見はあたしにとっても美しく見えるが、たとえ人間の集団にそれ目的で襲われたとしても、よほどのことがない限り、人外レベルの魔術の使い手である彼らがそうそう手込めに遭うとも思えない、ということもある。
だが、何よりも、森精が人間を愛することはないのだ。
正確に言うと、人間の一個人に対し、彼らが人間同士のように強くて濃くて熱い感情を向けることはないだろうとあたしは思うのだ。ヴィーリやペルと深く接すれば接するほど、彼らと人間との差異をいっそう強く感じるゆえに。
森精はどこまでいっても精神的群体だ。
そのためか、彼らは人間の識別を外見や体臭より魔力に頼る。また、人間の思考や嗜好が個人個人によって千差万別であることを知識としては知っていても、それを人間と同等のレベルで理解しているかというと微妙なんじゃなかろうかと思われるふしがあるのだよね。
たとえば、国などの集団を作る以上、その集団内での人間の意思は、森精とまではいかないが集団的無意識以上のレベルでほぼ統一されているように捉えている――つまり、集団の一個人の行動はその集団の意向を受けたものである、と、森精は解釈する傾向がある――ようなのだ。
クピディターサさんの色仕掛けからこっち、ヴィーリだけじゃなくペルまでも、ボヌスヴェルトゥム辺境伯家の人々はもちろん、使用人さんたちすらずーっと警戒対象にとってたもんなー……。
もちろん、彼ら森精だって、個々の人間に対して何らかの感情をまるっきり抱かないわけではない。だがそれは人間の側から言わせてもらえばひどく希薄で、涼風に撫でられたようなものなんですよ。
ぶっちゃけ、地上の星として彼らに個別認識されてるあたしとグラミィがむしろ特異な存在なのだ。
そもそも彼らの性別は、放出魔力を含めた外見的にも、内面的にも正直よくわからんのだ。あたしがペルを『彼』と認識してるのだって、自己申告あってのこと。
心話?『個性』はわかっても、それが性別に由来するかどうかなんて、わかりませんとも。ええ。
だが、グラミィが否定すればするほどアウデーンスさんは不審そうな表情になった。
「ならば、なぜ、シルウェステル師は彼のことをそこまで気に懸けておられるので?」
決まってんじゃん。
むしろ、今、あたしのしてることを考えれば、気に懸けないでいられるわけがないと思うのだ。
……てか、アウデーンスさんにまで見抜かれてるかね。あたしの動揺しっぱなしってのが。
「『このような身になってから、生命とは凍夜の炎のように何物にも代えがたいものに思われるのです。それは、かの星と共に旅する方々にも同じ事。木々に姿を変えられては、わたくしとて今のようにたやすく語り合うことはかなわなくなりましょう。それが残念でなりませぬ』」
「とは……?」
「『森精の森と、そうでない森の違いをアウデーンスどのはご存じか。森精の森とは、彼らの意思を森全体に宿らせたものなのですよ。肉体の中にあった意思を取り出して。意思を取り出されたその身は……死を迎えるのだとか』」
〔って、ボニーさん。これ本当ですか?!〕
本当、とは言い難いが間違ってもいない。ペルが死ぬつもりなのも、記憶を森というストレージに入れるつもりなのも本当だ。自我を混沌録に記録するための必要条件が、その肉体の死なのかどうかまでは知らないが。
そこをあえて恩着せがましく、ベーブラ港を守るためだけにペルが命を捨てるような言い方をしているのは、次期ボヌスヴェルトゥム辺境伯に対し、森精の森を守るという誓約が代々に引き継ぐべき重いものだということを刻み込むため、というところが大きいのは否定しない。
イムプルススファラリカ伯の御座船に乗っけてもらい、ベーブラに戻ってくる途中のことだ。ヴィーリはユーグラーンスの森にばらまいていた樹杖の枝を、すべて回収してきた。
今は真水に少しずつ海水の量を増やして混ぜたものを与え、その樹杖たちで塩分に対する耐性の高い挿し木を作ろうとしている。
ペルは左上腕に埋め込んだ樹杖の種と、ゆるやかに意思の疎通が図れるようになってきたようだ。若木となりつつある樹杖を媒介に、彼もまたゆっくりと樹になっていく。文字通りの意味で。
ヴィーリも、ペルも、海に森を作り、混沌録にペルの自我を記録する準備を進めている。淡々としたその様子は、肉体の死に対する恐怖というものが森精にはないのだろうかと思うほどだ。
……ペルの身体から樹杖の種を抜く方法を探そうという、ユーグラーンスの森でのあたしの提案は森精の二人に却下された。
けれども、正直なところ。種をなんとかして彼から摘出するのが、ペルを生かすためには、最善の方法に近いのではないかと、今でもあたしは考えている。
時々ペルが顔を顰めているのを見るが、あれは樹杖を急激に成長させている反動だろう。
種から伸びた根が筋肉や血管に絡みつき、刺さると考えただけで、……苦痛があって当然だろそれはと、骨なあたしでさえ思うのだ。自分も腕にヴィーリの樹杖の枝を寄生させているグラミィなんか、顔面しわくちゃにして目をそらしていたりする。
ペルの血肉を吸って養分に変えているあの種を、いっそ砕いてしまったらとも何度か考えた。だがそれはやったが最後、ペルとヴィーリの二人だけではなく、森精すべてを敵に回すことになりかねん。
そもそも、樹杖に依存している森精の精神構造を考えたら、種を砕いた瞬間に、おそらく今度こそペルの精神が死ぬ。肉体を生かすために精神を殺してしまうわけにはいかない。
問題は、ペルの身体に、例の星屑たちのような術式や、もっとひどい何かがしかけてある可能性も捨てきれないことだ。
というか、デッドコピーとはいえ御同類に対してさえ問答無用でしかけられていたのだ。彼らにとっちゃこの世界の存在としか見えないだろうペルに、しかけるためらいはもっとないだろう。
そのことはペル自身も理解している。だからこそ、自我を混沌録へと移して今の身体を完全廃棄するというのも、それまで身体を半身たる樹杖の苗床とすることで、何らかの邪法禁術がしかけられてても不発となるよう、ぎりぎりまで含有魔力を喰らわせ続けるのも、彼らにとっては皇帝サマご一行の計画を狂わせるため、当然取るべき選択肢の一つでしかないのかもしれない。
だけどもあたしは、ペルたちのようにはそう割り切れないでいる。当事者でもないくせに。
ペルが自らを葬ろうとしている、その墓を率先して作っているようなものなのにね。
魂とは何か?自我とは何だ?何をもって自己同一性を維持できるか。
精神と身体をさくっと分ける単純な心身二元論では、答えが出ないことが多すぎる。
たとえばクローン。遺伝子的に全く同一存在であっても、斑模様のクローン猫は完全に同一の模様になることは、まずない。
模様がずれるということは、身体的にクローン結果とクローン元とは不同であるということになる。
そして、クローンは精神的にも当人ではないと認識されることが一般的だ。同じ身体であっても、経験が異なれば発達した精神が違うからというのがその根拠だ。
では、古いSFのように、脳や精神だけ新しい若い身体に入れたとしたら、そこにいるのはクローン元の人間となるのか、それともクローン結果なのか。身体のすべてを入れ替えるのではなく、サイボーグのように身体の一部を機械化した場合、事前と事後で自我は同一であると言い切れるのか?
むこうの世界で、人間は新陳代謝により、全身の構成元素が五年たつと完全に入れ替わってるという話を聞いたことがある。
だけど人間は忘却こそすれ、五年前どころか、物心ついたときから生涯にわたっての記憶を保持している。ということになっている。
その記憶がつながっている以上、人間は過去の自分も自分とみなすことができる。
つまり、構成元素がすべて代謝され、身体の同一性が0%となっていても、人間は記憶の連続性が保持されていれば自己同一性を維持することができているというわけだ。
意外と自己同一性の維持というのは雑なんだと思わなくもないが、人格情報のアップデートさえきちんとできていれば、身体情報との整合性はどっかで取られ続けているのかもしれない。
だが、自己同一性を維持できることと、自我の変容もしくは変質は両立してしまう。
シルウェステルさんのお骨に入っちゃった今のあたしのように――というのはかなり極端だろうが――森に自我を移行した後のペルも、おそらくは自分をペルとして認識できるのだろうと類推はできる。
だけど、それはペルの自前の肉体を失う以上、大きく変質せざるを得ない自我だ。あたしが五感の一部を失い、魔力知覚なんてけったいな感覚を持ったようにだ。
シルウェステルさんのお骨を得た結果として、あたしは人間らしさを一部失った。味覚や痛覚といった感覚、睡眠欲といった肉体から発生する欲求を、肉体を持つ他者との共通点とはできない以上、共感能力はそれまでのものに比べて格段に落ちる。
たとえば、今のあたしは、直感的に『自分が腹が減ったり足が痛かったりするなら、同行している相手も同様に疲労や空腹を感じているのだろう』と感じることができない以上、過去の経験からの想像という段階を経ないと相手の心身状態を推測することはできない。
その一方で、『食事ができないこと』『睡眠がとれないこと』に違和感はあっても、『食べない』『眠らない』状態にはあっさり慣れてしまった。
慣れると言うことは、過去の経験からの推測が下手になるということでもある。『眠れない』ことにメリットを見いだして、夜中に魔術実験とか魔術陣の開発とかしてたりするせいで、ますます『眠る』他者へのあたしの配慮は、薄くなっているかもしれない。
あたしが身体も精神の構成要素であり、逆も真であるとひそかに考える所以である。
これは、人間でも、森精でも同じだろう。
ならば、肉体を失ったペルの自我が、本来の身体を持ったままの状態と同一の経験を蓄積することはできず、またこれからの発達も生身の時とはまるで異なるものになることも、当然と言えるだろう。
だが――
「なにゆえ、そのような。なぜ死を選ぶ真似をなさるのでしょう」
とうにアウデーンスさんが従者を下がらせて、室内にいるのはあたしたちだけだ。
にもかかわらず、彼は小声であたしに訊いた。
そう、生身の人間にとっては、ペルの行動は単なる自殺にしか見えない。とりわけ物理戦闘特化型貴族階級に属するアウデーンスさんたちにとってが、身体とは、ある意味精神とニアリーイコールなものなのだろう。ペルの決断と行動に意味を見いだしがたいのも当然だ。だけど。
「『彼の森精が、そう望んでいるのですよ。わたくしにはどうにもできないのです』」
……あたしはユーグラーンスの森で出会ってからこっち、ずっとペルを見続けてきた。
どうしたいのか訊いたら、いきなり死にたいと言われてどうしようかとも思ったさ。
けれども、彼がその結論に至った思考過程がわかる以上、どこまで行っても傍観者でしかない立場で、いったい何が言えるというのだろう。
そう伝えてもらうと、アウデーンスさんは沈黙した。
手ずから酒を満たした杯をあたしにも差し出すと、自分の杯を二度三度と干す。
……吞まなきゃやってらんないという気持ちはわかるよ。統治者の一族としては得がたいものである森精の加護が、その森精の死と引き換えに与えられるものかもしんないと聞かされればね。
「……シルウェステル師にも、できぬことがおありなのですね」
「『わたくしごときにかなうことなど、ごくわずかなことにございます』」
意思を持たぬ岩塊や砂を動かすことなら、それなりにできなくもない。
だけど、ヴィーリやペルのように、独自の倫理と強い意志のある相手が、それなりの根拠をもって決断したことを翻意させるなど、そうそうできはしない。できるわけもない。
沈黙してしまったアウデーンスさんに慇懃に暇を告げると、あたしとグラミィは退出した。
〔ってちょっと待った。どこ行くんですかボニーさん〕
海。
〔……そこまでワーカホリックでしたっけ?〕
このまま客室に戻ったら、森精の二人がいるでしょ。
今はちょっと、顔を合わせたくないんだ。
〔それは、あたしだってそうですけど……。あんな話聞かされたら〕
苦い顔になったグラミィは、ちらとあたりを見回した。
警戒しなくても周囲に人はいないって。
〔じゃあ聞きますけど。ボニーさん、ほんっとーに打つ手はないんですか?〕
ない。少なくともあたしには、本当に手の骨も打ちようがないのだ。
そもそもあたしがユーグラーンスの森から動けなくなっていた彼らに協力を頼まれたことは二つ。
一つは、ペルが魔喰ライにならないように止めること。
もう一つは、混沌録に自我を落とし込むための、森を手に入れること。
あたしの協力は人間サイドから見れば自殺幇助も同然だと言われたら、その通りでございますよとしか言いようがない。それはわかってる。
だけど、あたしが幇助をやめても、彼らは止まらないだろうね。
〔……アルベルトゥスくんにあれだけ切れてたボニーさんにしては、えらくあっさり言い切りますね。タクススさんがアルボーへ向かうって言い出した時だって、あれだけ心配して止めようとしてたのに〕
アルベルトゥスくんの時は、彼の心が死にかけていたからだ。悪化していた体調よりも先に、罪悪感と諦念に心を食い荒らされるままに放置していた彼の姿に、あたしは激怒した。
これ以上死んでたまるかと、生きてもいない身で裏工作に加わっていたあたしには、あの時のアルベルトゥスくんの態度は、どうしようもなく贅沢な怠惰としか思えなかったからだ。生きていてほしくて叱ったわけじゃない。
タクススさんの場合は、……彼が突っ込んでった危険というのは、突っ込む必要がない危険だったからだ。密偵の誰かは送り込むべき状況だったのかもしれないが、それがタクススさんであるべき必然性は低かったからゆえの制止だった。
だけど、ペルの決断は、自分自身を死すべきと判断したからこそ下されたものなのだ。
避けられない危険というか、すでにぶち当たってしまった危険、なのだよ。
ペル本人が自身を損切りするつもりでいる上に、ヴィーリも同意している。森精にとっては、それがなすべきことなんだろう。
〔そんな……〕
嘆いてもやること、やらねばならないことに変わりはないよ、グラミィ。
なすべき仕事がペルの望みを叶えるために役立つのなら、存分に役立つように、やらねばならぬことをやること。
あたしたちが望みを兼ねるためにしなけりゃならない仕事に、ペルの知識が役立つのなら。
とことん協力してもらい、混沌録経由でも使えるようにさせてもらうこと。
どちらも、ペルが森になるまでがタイムリミットだ。
〔……ボニーさんが、そんな突き放した言い方する人とは思いませんでしたよ〕
なら、あたしは人でなしなんだろうさ。
眠りを殺し、敵であろうと味方であろうと人を殺す、ただの骨なんでしょうよ。
グラミィを振り返ることなく、あたしはそのまま領主館を出て港へと走った。
運河?水の上だろうがなんだろうが、真っ直ぐ突っ切りますとも!
再び海中に沈み、あたしは薄く濁った海水越しに空を見上げた。
ベーブラ港の工事はとっくにあたしが着手済み。アウデーンスさんも諦めて次期ボヌスヴェルトゥム辺境伯としてのお勉強にいそしんでる。国と国とのいくさになることを想定して、タキトゥスさんは大船の建造許可を出したらしい。アールデンスさんはメトゥスさんをこき使い、ボヌスヴェルトゥム辺境伯の勢力圏にあって、最も物流の拠点となりうる場所ということで、スピカ村の立地に目を付け、アダマスピカ女副伯のサンディーカさんへ利用許可を求めた。寄子筆頭のイムプルススファラリカ伯爵がそこまで丁重に協力を求めたことで、サンディーカさんへの注目度も重要性も上昇中。ペリグリーヌスピカ城伯も下手なちょっかいは出せなくなっているようだ。
万事うまくいきだした。そのとおりだ。
だがそれは、ペルが自ら命を断ち、森になる日が近いということでもある。
……ペルの望みは、ぶっちゃけアウデーンスさんやグラミィには言わなくてもいいことだった。
なのに伝えたのは――ただのあたしの、八つ当たりだ。
一人で抱え込むには、重すぎるから。
いずれわかることだから、なんてのは後付けの理屈でしかない。
結界越しの海底は魚もおらず、ひどく静かだ。
睡眠不要は休息不要と同義ではないけれど、用意された客室に戻れはしない。ごく個人的な理由で。
誰にも見られたくない本音は、誰もついてこれない海の中でしか、さらけだすことしかできない。
働けば働くほど、じわじわとやるせなさが胸骨を噛むのは、ペルに生きていてほしいというあたしの本音が、ただのエゴにすぎないということを、あたし自身がよく知っているからだ。
ペルへの一方的な思い入れは、かつて救えなかったあの瞳を、不用意に思い出してしまったがゆえの執着だということを。
むこうの世界にいたときのことだ。あたしはとある難民キャンプで、子どもたちといっしょにしばらく過ごしたことがある。お世話をしたなんて口はばったいこと、とても言えないけれども。
そこで出会ったのは、ペルと同じ瞳をした子だった。
浮かぶのは警戒と猜疑と押し殺した瞋恚。光を吸い込んだまま跳ね返すことなどないのではと思うほど大きく黒かったあの瞳は、絶望なんてたやすいものでは片付けられない闇黒を見たのだろう。
――それが、あの時。ようやく、わずかに笑った。
あたしは、骨の握り拳を結界越しの海底に叩きつけた。
ペルとあの子は違う。そのことはイヤってほどわかってる。
かつて救えなかった子と、今救うことのできない相手を、『自分の手が届かない』というだけで同一視するのは止めろ、自分!
どうしようもできなかったという悔悟に目を眩まされたまま、中途半端に偽善者ぶるな、あたし!
ペルを死なせたくない、その身体を失わせたくないというのは、岡目八目にも筋違いの感情移入甚だしいあたしのエゴのおしつけで、森へ記憶を託したいというのは、ペル本人の望みだ。
冷たい方程式からペル自身が得た解は、同じ森精であるヴィーリが承認した、たったひとつの冴えたやり方。
だからこそ、ペルはヴィーリとともに樹杖の改良に努めている。塩や寒さに強くなるごとに、ほんのりと笑顔を見せるようにもなった。
だからこそ、あたしは彼に久遠の森という呼び名を与え、導流堤構想に海中の森をつけたした。堕ちし星たちに樹杖を奪われた彼に、何かしら力を貸そうと思ったところで、今後のことは何一つ確約できないから。せめて、現時点での彼の望みを叶えるために。
……わかっている。これが、納得し切れていない、あたしの繰り言にすぎないということは。
導流堤は早く完成させないといけない。スクトゥム帝国との戦いに備えるためには。
森は早く整えなければならない。ペルの身体にしかけられた何かが、この世界を汚染しようとする前には。
だけど。
完成してしまったなら、後にくるものを受け止めなくてはいけない。
……認めてしまえ。
ペルが森になるということが骨身すら裂かれるようにつらいのは、受け入れてたまるかと反発しているのは、ペルに対する憐憫の情からくるものだけじゃない。誰よりも自分自身を憐れんでいるからだと!
あたしは結界刃を堆積した土砂に飛ばした。さっきとは比べものにならない大量の土砂が巻き上げられ、もうもうと海中を漂う。
さんざか跡継ぎ問題で大騒ぎしていたボヌスヴェルトゥム辺境伯家の人間を、脆いだの弱いだの好き放題言っていたのに、何のことはない。当事者じゃないからこそ言えてただけじゃないか、あたしは!
いざ我身に返れば、一番弱くて脆くて、今にも崩れそうになっているのはあたしじゃないか!
どうしようもなく、一身上の、この世界ではまったく理解されないだろう事情で、勝手にぐらついているんじゃないか!
冷静無比な血の通わぬ森精の協力者を装うつもりなら、とことんまで貫かねば意味がないというのに。
涙の一滴も流せないことを、こんなところでまだ嘆いている。
そんな自分が、どうしようもなく情けなかった。
骨っ子は結構血の気が多いタチです。 がむしゃらに水中での作業を進めだしたのも八つ当たり半分。
※1/13に誤記報告をいただきました!ありがとうございました!




