序章
子育てという大仕事を終え、老後をどう過ごすか考えていた男は、いつの間にか随分と皺の増えてしまっていた妻に、ある日突然、「やり残してきたことがないように、冒険でもしてきたら?」と背中を押された。
男は若い頃、探検家として世界中を歩き回っていた頃を思い返した。
危ない目にも沢山あったが、それ以上に喜びや感動に溢れたその道中、恋をした女性と夫婦になり、子供が出来てからはこの地に根を下ろし、父親として生きてきた。
沢山の荷物が詰まったリュックを捨てて、農具一本で家族を養ってきた日々は、それはそれで得がたい日々と思い出でいっぱいだった。
ただ、子供たちがぐんぐんと育っていく姿を見る度に、嬉しさと同時に込み上げてくる言い知れない不安を感じていた。
これを終えたら、終えてしまったら、自分は何になるのだろうかと。
齢六十を迎える男は、妻の言葉に決意した。
そうだ、探検家に、冒険家に戻ろう。
男は妻と子供達に見送られ、人生最後の冒険に出発した。
思っていた以上に衰えていた体に四苦八苦しながらも、それは実に楽しい旅路だった。
若い頃難なく歩いていた道が、歳を取っただけでこれほど過酷な道のりになるのか。
けれど、年老いても冒険はいいものだと、改めて強く感じた。
体は衰えても、心は若かりし頃のままだったことを知る事ができた。
新しい景色を見る度に胸は高鳴り、重くなった足も不思議と軽くなった。
まだいける。まだ歩ける。もっと遠くに。
そうだ、私はまだ頑張れる。
そして男は、一つの遺跡の入口の前に立ち、意を決する。
巨大な門が構えられたその遺跡を、最後の冒険とばかりに覗き込み、胸を躍らせて探索に乗り出した。
古い時代に起きた争いの痕跡を端目に進み、遺跡の番人達に追い回され、息を切らして逃げ回った。
どうにかこうにか振り切って、ふと持ち上げた頭の先にあったものに、男は不思議そうに呟いた。
「何でワシは外に逃げなかったんだろうか。気がつきゃ、こんな奥まで来ちまった」
男は遺跡の奥深くに見つけた巨大な扉に、若い頃から大切にしていた『宝物』を翳してみた。
まさか開くとは思っていなかった扉が開き、足を進め、再び閉じた扉に、番人から逃げ切れたと安堵した。しかし、助けが来なければ自分はここで往生だと、命は諦めていた。
それでも、そこそこ満足のいく人生だったかと、暗がりの中を進みながら、ゆっくりと生涯を振り返った。
男は、辿り着いた奥の部屋で、とある夫婦の遺体に出会う。
枯れ木のようになってしまった二人の薬指には、永遠の愛を誓い合った指輪が嵌められている。
男は無意識に、自分の薬指にも嵌められた、同じ意味を持つ指輪に触れた。
寄り添う二人の姿を見つめていた男は、おもむろに二人の荷物をあさり、一冊のメモ帳を手に取った。
遺書の一つでも書き残そうかと考えていた。その参考にしようと思ったのか、それともただの興味本位だったのか、男はその擦り切れたメモ帳を開いて、最後のページに残された子供たちの名前と思える文字に、目をとめた。
――シン、エマ。
「お前たちの子供の名か? いい名前だ」
男は二人の前に腰を下ろし、語りかけた。
返事はないが、そうであるに違いない。長年父親をやっていた勘が、そう言っている。
子供たちの名前のそばには、二人が住んでいたであろう家の場所が記されていたが、遺言書によく見られる言葉は並んでいなかった。
自分達の無念を伝える後悔の言葉も、友へ残す感謝の言葉も、残した家族の幸せを祈る言葉も、或いは神に縋る言葉も、どこを探しても見当たらなかった。
何故なのか、男は時間を忘れて考えた。
そして、男はいつしか一つの答えを見つけて、もしもこの遺跡から出られたなら、このメモを必ず、子供達のところへ届けてやろうと心に決めた。
出られればの、話であるが。
男は二人の寄り添う姿を切なそうに見つめながら、寂しくなった口を開いた。
「ついさっきまで、番人に殺されるくらいなら餓死した方がマシだと思えていたが、お前さん達の姿を見ていて、番人に殺される方がマシな気がしてきたよ。ワシにも子供がいてな、あっという間に、大きくなった。今頃は、孫でも産まれてるんじゃないかな。お前たちの子供達はどうだ、大きいのか。この子達は、お前たちの帰りをずっと待っているんじゃないか? ワシの子供たちも、妻も、きっとワシの帰りを待っているんだろう・・・・・・」
男は語りかけながら、微かな悲しみが宿った瞳で、二人を見つめた。
「こんな事になってから言うのもなんだが、お前たちも、子供達に会いたいだろう。ワシも――」
家族に会いたいよ。
人生最後の冒険で、男は名も知らない二人の夫婦に、心を重ねた。