研究 《side anecdote》
アネクドートは、研究者である。
基本的に神運の四人は、地球では邪険に扱われていたのだが、唯一彼らを歓迎する派閥があった。科学の世界に生きる者達だ。神運の四人、特にアネクドートは重宝されていた。
研究、というよりは実験において、運というものは非常に重要である。様々な条件に左右される結果が、望んだものになるかどうか、理論が正しいと証明できるデータが得られるかどうか、アネクドートはその点において他の追随を許さないのだ。
「んー…」
現在、アネクドートは先程まで質問を受けていた部屋に戻り、自作したベッドで寝転がっていた。無人の机の上では数枚の紙とシャープペンシルがせわしなく動いている。
(ミャージッカ・マグルル…ルルム、女、年齢は推定16歳、種族人間。特筆事項なし。トビリ・ボスト、男、年齢65、種族人間。十聡会のリーダー的存在。メノア・ツッオネッチ、女、年齢25歳、種族人間。そばかすがある。カラ・カドナ、男、年齢203、種族ブラックワーウルフ。魔力の流れを見る目を持っている。ナラ・ショイヘ、男、年齢38、種族人間。頭は多分こいつが一番。ヤイハ・ヤーヌス、女、年齢712(本人曰く)、種族ハイエルフ(本人曰く)。今のところ最も警戒し観察すべき…っと)
そして記憶の整理が終わると、机の上ではボッという音とともに紙が燃え、消失した。
のびーっとけのびをして、深い思考に入る。今日聞いた全ての音、今日見た全ての物、今日嗅いだ全ての匂い、今日食べた全ての味、今日触った全ての物について、考える。
「わかんねーことだらけだな…公用語日本語だし。それにあいつらにも会わなかった。1日もあれば合流できるかと思ってたが、邪魔が入ったのかもしれん」
次に、アネクドートは様々なことを予測する。この世界について、魔法について、ヤイハ・ヤーヌスについて。
「…無論考えていたことだ。こちらの世界にも私と同じように運がいい奴がいるということは。だが、あいつ…本当にこっちの世界の住人か? 口振りや仕草から僅かに出てる…微妙なズレがあった…気になる。まぁ、渡した情報は限られてるからまだいいか…」
そう言いつつ、アネクドートは目を閉じる。
アネクドートがミャージッカに話したこと、すなわちヤイハに渡した情報には、少し嘘が含まれている。最大幸福の原理はより一層複雑で、常識から離れている。
神運の四人は、絶対に死ぬことはない。事故にも事件にも巻き込まれない。それは圧倒的な事実だ。ただし、実際には彼らが死ぬ方法はある。
まず一つは、彼ら以上に運の良い者が彼らを殺すこと。これは、ほぼ有り得ない。
そして、やや現実的であるのは、自殺だ。
もしアネクドートが自らの首を跳ね飛ばしたり、ナイフで頸動脈を切断したり、銃でこめかみを撃ち抜けば、普通に死ぬのだ。ならばなぜそのようなことが起きないのか。それは、自殺しようという能動的かつ強力な負の感情を持たないように現象が起きてているからだ。これを指して、ミソロジーは運を世界に保護される為の力と評した。
それを逆手に取り、最大幸福を発案したのはアネクドートである。他の三人は、教えられるまではそれが何なのかよく分からず使っていた。
『もし、雷が落ちなかったら自殺しちまうだろう』
そう思いながらアネクドートは落雷を起こす。
本当にその覚悟を持って思う。
これは、死が近づけば近づくほど運は効果を発揮するという性質を利用したものであり、最大幸福の原理である。
だからアネクドートはトンネル効果を起こせないし、人を不幸にできない。そんなことに命を懸ける気になれないからだ。
「…よし、始めるか」
そしてアネクドートは目を開ける。およそ10分間の睡眠だった。
「ふう…」
ミャージッカが聡明塔に到着したのは、翌日の午前八時頃だった。その手には報酬として賜った数々の品が入った鞄が握られている。総じて夜型の十聡会は、この時間帯は全員が机に突っ伏しているか転げ落ちて床で寝ている。
(アネクドートさんはどうしてるんだろう)
そう考えつつアネクドートがいるであろう部屋の扉を開ける。その瞬間、部屋から溢れてきた物の山にミャージッカは飲まれた。
「ひゃあーっ!?」
「ん…ミャージッカか?」
部屋の奥からアネクドートの声が聞こえた。物をかき分けつつ、ミャージッカはその姿を確認する。
アネクドートは、ミャージッカが見たこともない器具で何かを記録しているようだ。それは巨大なノートパソコンであるが、ミャージッカには凄まじい物に見えた。
「そ…それは?」
「作った。『自由創造』だよ。構成する物質と構造知ってりゃ作れるからな。んで、魔法についての考察纏めたからちょっとそこの書類読んでくれ」
ひょっと指差した所には、分厚い紙の束が置かれている。規則正しい字や精密なグラフで魔法についての研究が詳細に綴られている。
「す…す、す、凄い! これを一晩で!?」
「いや…それにかけた時間は二時間ぐらいだが、何か新しいことは書いてあるか?」
「全部…新しいことだらけです! 違う属性の魔法を組み合わせるという発想は以前からありましたが、同じ属性の魔法を組み合わせることで新たな属性を作り出すという発想は革新的ですよ…!」
「ふむ、やはりそうなのか。あとこっち、これ見てみ」
そう言って手渡したのは、緑色の丸い水晶だった。その内部には、赤い光が揺らめいている。
「魔封じの水晶…こ、これは風属性の魔法しか閉じ込められない、碧水晶の中に火属性の魔法が…」
「ちょっと調整すりゃあ、こういうこともできるみたいだな。これ、そこの本に書いてあった水晶を参考に内部の構造を変えてみたんだよ」
「…なるほど」
ミャージッカは次に、部屋の隅にある巨大な道具に目がいった。白い円筒状の機器だ。
「あの道具は…」
「電子顕微鏡。まぁ小さいもんを詳細に見る道具だな。サンプルが沢山いるからな…これから集めに行く。ついでに他の色々も調べようと思うからついて来…?」
アネクドートが振り向いたとき、ミャージッカは泣いていた。嗚咽は漏らさず、静かに涙を流している。
しまった、とアネクドートは思った。アネクドートはこれまでも地球にて幾つかの大学に乗り込み、似たようなことをしてしまったことがある。要するに、楽しみにしていたクイズの答えを言われてしまうようなものだ。
(あまりにも食いつきがよかったからぺらぺら喋っちまった……いや、待てよ? あのリアクションは…)
「アネクドート、さん」
「お、おう…」
ずいっとアネクドートにミャージッカが迫る。
「私がこれまで、先生と呼んだ人はいませんでした。先を生きる者、という人に会ったことがなかったのです。魔法学校の教壇に立つ人々は、私が幼い頃に気づいたこと、考えたことを得意げに語ります。そんな人達が哀れで、私は学校を抜けてこうして研究していました」
「そ、そうか…大変、だった、な?」
「ですから、あなたを先生と呼ばせてください」
「ん」
アネクドートは、ここでミャージッカの涙の正体が分かった。感動だ。優れた文学や芸術に出会った時、涙を流した経験が、アネクドートにもある。ミャージッカはアネクドートを一人の人間として、優れたものだと認めたのだ。
「構わない。だが我をそう呼ぶ以上、お前には生徒として色々手伝ってもらうぜ」
「はい、お願いします。あなたからは、何かを学べそうだ」
「くくっ、いいね。プライドとの付き合い方が上手だ」
「あの、それで、これ、受け取ってくれませんか?」
ミャージッカは、持っていた報酬品の中の一つを、アネクドートに渡した。それは、沢山の見たことのない文字が刺繍されたマントだった。
「これは…」
「優れた魔術師に渡される宝具らしいのですが、私は、あなたが着るべきだと思います」
「ほう…なら、受け取っておこう」
そして、アネクドートはそれを羽織り、改めて、ミャージッカを見る。
「よし、そうだな…じゃあとりあえず、ここら辺で一番広くて強い魔物がいるとこに連れてってくれ」
「では…この国の南東部の、スウォーズィ平原に行きましょう。あそこならその条件を満たすはずです」
「よし」
アネクドートはパソコンに刺してあるUSBメモリを抜き取り、ふっと手を部屋全体にかざした。途端に、部屋にあったアネクドートの作り出したものが消えていく。
「い、いいんですか?」
「作れるかどうか試してただけだ。データはここにあるし問題ない」
「そうですか…では、行きましょう」
そして、アネクドート達は窓から出発した。
「…おはようございまーす」
しばらくして、部屋に一人の女性が入ってきた。キョロキョロと部屋を見渡して、アネクドートやミャージッカがいないことを確認する。無論正体は、ヤイハである。
「なかなか気が早いですねー。んーと…」
そう言ってヤイハはすっとアネクドート同様に、部屋に手をかざした。
「『空間再現』」
ヤイハがそう唱えると、消したはずのアネクドートの製作物が一瞬で再現された。書類、ノートパソコン、水晶、電子顕微鏡、ヤイハはその全てを興味深そうに見る。
「葵級魔法…と言えば聞こえはいいですけどねー。ようは『使われちゃ困る魔法』、なんですよ」
ひょいっと足下に落ちている水晶を広い、窓の外の太陽へとかざす。その赤と緑の光を顔に当てながら、ヤイハは空を飛行するアネクドートとミャージッカを見つめ、にこりと微笑む。
「さて、厄介なイレギュラーが紛れ込んでしまいましたねー。どう処分しましょうか」
その表情は、心なしかワクワクしているように見えた。
「『飛行』か。なかなか楽しいな」
「風属性の乙級魔法です。自分以外の物体を飛ばすのは『浮遊』という丙級魔法ですね」
アネクドートが感覚を集中させると、体のどこに力がかかっているのかが分かる。薄い膜が全身を包んで運んでいるようだ。水中にいるような感覚で心地がよい。
「お前があの森から我をカリオイドに運んだ魔法は何なんだ?」
「『空間転移』ですね。一度行ったことのある場所や目に見える場所に一瞬で移動させる魔法です。魔法を唱えた者に触れている者も一緒に移動させることができます」
「ふむ、触れてるものも移動しなけりゃ全裸になるからか。にしても…どこでもすいすい行けるみたいな訳ではないのか」
「いえ、工夫すれば似たようなことは。『遠隔知覚』で行きたいところを見つつ、『空間転移』すれば。かなり魔力を使いますが」
「ほう、今度使ってみるかな」
そんな会話をしつつ、街を抜け二人は平原に出た。薄黄色の地面にまばらに草が生えており、所々で魔物と冒険者が戦っていたり、魔物の群があったりしている。
「ここか?」
「ああ、まぁそうです。ただ、色々な魔物が居るのはさらに奥まったところですね」
「そうか。じゃあちょっと高度下げよう」
その後5分ほど飛行していると、徐々に土の色が褐色になってきた。
(ああ、スウォーズィってそういう…ん?)
「そろそろですね」
「…なぁ、ミャージッカ。ちょっと幾つか質問していいか?」
「あ、はい。勿論です先生!」
生徒っぽく振る舞うミャージッカの健気さに、アネクドートは少しムラっとした。
「スウォーズィってどういう意味だ?」
「え? えーと、浅黒い、でしたっけ?」
「カタカナってなんだ?」
「魔製言語を表記する際に使われる文字です」
「…ませ? まぁいい、英語ってなんだ?」
「エイゴ? …ちょっと分からないです」
「私たちが喋っている言語はその…魔製言語に対してなんと呼ばれている?」
「人語です」
「…なるほどな。魔製言語とは?」
「名前のための言語ですね。古来より名前とは神聖な意味を持つものとされ、魔法名や地名、人名などに使われています」
「そういう感じか。…さて」
アネクドートはそこで一旦会話を打ち切り、思考を打ち切り、自分のいる場所から数十メートル離れたところを見やる。大きな生き物が這いずる音が聞こえたからだ。
「初めてまじまじと魔物を見るな。なかなか大物じゃねえか、オイ」
そこにいたのは、大木のよう太さの胴体に、四つに分かれた首を持った大蛇であった。黒い鱗と灰色の腹が日光を反射し、異様な存在感を持っている。
「…ヒュドラの上位種、グリムヒュドラですね。不死身の魔物です」
「よし、殺ってくる。待ってろ」
「は、はい!」
ずりずりと草原を進むグリムヒュドラの前に、アネクドートが立ちはだかる。近づくとその大きさがより如実に伝わってくる。以前海を泳いでいた際に遭遇したシロナガスクジラをアネクドートは思い出していた。
「不死身ね…どんくらいのものなのか…ん」
「シェェエエアッッ!!」
グリムヒュドラはアネクドートを視界に入れると同時に、びゅんっと首の一つを凄まじい勢いで伸ばしてきた。ドゴッという地面を削る音と共に、土煙が上がる。
「せ、せんせ…あ」
アネクドートはその突っ込んだ首の上に立っていた。
「さて、じゃあ切ってみるか…『裁先端』」
そう唱えた瞬間、白い線のようなものがグリムヒュドラの首を通過し、鮮血が吹き出した。それを浴びないようにひゅっと首を飛び降りる。残された三つの首は、感情のない無機質な目でアネクドートを見つめている。
「切れた。…お」
しかし、ぐむぐむと、切断面が沸騰するように蠢きだし、そして再び蛇の首が現れた。表面が生まれたての生物のようにぬらぬらと光っている。
「ヒュドラ種は首を切断した後に切断面を焼くのが効果的ですよ!」
「よし、じゃあ見てろ。さっきの考察の実践だ」
アネクドートは白い線を作り出し、それを幾重にも重ね始める。3Dプリンターのように徐々に形作られていき、一枚の白い板になっていく。
「名前は…そうだな。『裁先端粗式』だ」
ぎゅんっと弾き飛ばされたように飛んでいく白い板は、ブーメランのような軌道を描きグリムヒュドラの四本の首を次々に跳ねた。再生するかに思われたその首は、そのまま動かなくなり、胴体のみがのたうち回っている。
「…えっと、何をなされたんですか?」
「切断面を見てみろ」
「あ…焦げてます」
「そしてちょっとこれ触ってみな」
促されるまま、ミャージッカは白い板を触ってみる。すると、ざらざらと表面が異様なほどに粗いことが分かる。
「摩擦だ。氷の上の物を引っ張るのと、石の上の物を引っ張るのとじゃ必要な力が違うだろ? あれはまぁ簡単に言うなら…」
と、アネクドートは地面に絵を描いて説明を始めようとする。しかし、ミャージッカが慌ててそれを制した。
「せ、先生まだ生きてますよ!」
「何? 焼いたら死ぬんじゃないのか」
後ろを振り向けば、グリムヒュドラは、焼け焦げた部分を含めた首の一部分を自切している。そして現れた新鮮な面から、首を再生した。
「…殺す方法とか見つかってんのか?」
「…殊位冒険者が倒したことがあるとかないとかいう話を聞いたことがありますが…私は知らないですね…」
「ふーん…まぁ、じゃ、殺してみるか」
グイッとミャージッカを後退させ、アネクドートは再びグリムヒュドラと対峙する。
(再生するってことは、体の中にその分の物質をため込んでんのか?)
「じゃあ再生する奴特有の実験、真っ二つ行ってみっ」
「シャッ!」
グリムヒュドラも待っているだけではない。四本の首を使い次々にアネクドートに襲いかかる。それを躱し、胴体の上にアネクドートは飛び乗った。
「か! 『円形裁断』!」
アネクドートを中心に円形の衝撃波が発生し、グリムヒュドラの体を縦に真っ二つにする。バランスを失ったグリムヒュドラはそのままどちゃりと左右に倒れた。
「さぁどうなる」
すると、切った方の一方の切断面が、ぐむぐむと脈動し始める。どうやら再生を始めているようだ。もう一方の体は、動く様子はない。
「ふむ…半分になっても再生できるのか。プラナリア…とも違うな、片一方だけだ」
アネクドートはさらに、再生の速度が気になった。イモリにせよ、プラナリアにせよ、失った部分を再生させるにそれ相応の時間と栄養を要する。しかしこの目の前の生物は一瞬で再生してみせた。
(これこっちの知識で考えない方がいいな。…待てよ…『自由創造』…まさか、魔法使ってんのか? こいつ)
「ミャージッカ、魔力を除去する魔法はあるか?」
「魔力を集める魔法なら…ありますね」
「ふむ…」
(魔力は命令されて動く。一つの場所に集まるなら一つの場所から離れることもできるはずだ)
「よし、そうだな…『虚無魔力場』。そして、『自由創造』」
そして、グリムヒュドラの周囲から魔力が喪失する。
視覚的な情報は特に変化していないが、大きな変化をグリムヒュドラは感じ取った。しかし、その変化に対応する前に、巨大な鉄の刃が降り注ぐ。
「ギシャァァァアア!!」
初めて、グリムヒュドラが断末魔の声を上げた。体の至る所から鮮血が吹き出し、そこから回復する気配はない。
「ふむふむ、なるほどなるほど。つまりこいつは、一種の魔法現象ってことか」
「どういうことですか?」
「ようするに、こいつの周囲の魔力がこいつの体を補修してんだよ。魔力を肉に変換できる生物ってことだな」
「それは…生命の魔法ですね」
今にも息絶えそうなグリムヒュドラに、アネクドートは近づいていく。まだ、気になることがあるのだ。
(しかもこいつには、ルールがある。生物としての己の生存より、一定のルールを優先している。生物として生存したいのならば、半分にしたら周囲の魔力を使って二体になる筈だ。おそらく、一個体が世界に存在できる量が決まっている)
肉片の一部を手に取り、薄い膜で包んだ。内部には僅かに魔力を存在させている。
「ミャージッカ、一旦帰るぞ。とりあえずこいつを調べ尽くしてみる」
「分かりました!」
殺せないはずのグリムヒュドラの死体、それは異世界で普通に暮らす人々にとって異様な恐怖の発端となるのだが、アネクドートは意に介していなかった。
そして、アネクドートの研究は本格的に開始された。言語学、地質学、薬学、化学、物理学、生物学、哲学など、今のこの世界の学問の水準を調べ、自らの世界の学問と比較し、考察する。ミャージッカを助手として、ミソロジーやフェイブルが来るその日まで、研究は続いていた。
「ふう…」
「お疲れ様です。先生」
「おう…今何日だ?」
「恵雨月の十六日目です。先生がグリムヒュドラの肉を取ってきてから三日経ってますね」
「ほーん…」
アネクドートはちらっと外を見た。外はすっかり暗くなっており、丸い月が夜空を照らしている。
「天文学は…まだだったな」
ギッとアネクドートは椅子から立ち上がり、窓を開く。
「ミャージッカ、月行くぞ」
「えっ…あ、ちょっ!」
ふわり、とアネクドートは自身の体を浮遊させ、夜の街の上空へと飛び出した。慌ててミャージッカはそれを追う。
「月は危険ですよ! 神の製作物です!」
「尚更気になる。まだあまり昇ってないな」
ぎゅんっと加速させ、アネクドートは天に向かう。月は、アネクドートが近づくにつれて、徐々に近くなってきている。
「かなり近い位置にあるな。大きさ自体は我々の月と同じぐらいか?」
現在、アネクドートは国境を越え、アイレス王国内に入っている。月はどんどん大きくなっていく。『飛行』の魔法により発せられる光が、夜空に流星のごとく尾を引いていた。
「…せ、先生」
「どうした」
「何だか、おかしくありませんか? 近づいているような、遠のいているような」
「んん?」
言われて気づいた。月は、少し近づいては遠のき、少し遠のいては近づきを繰り返している。まるでトリック映像を見せられているかのような奇妙な感覚にアネクドートは少し警戒する。
「何だ?」
そして、アネクドートはさらに気がつく。自分の方向感覚が狂い始めていることを、自分の周囲の視界がぼんやりとし始めていることを。
「ミャージッカ、傍に寄ってろ」
「は、はい」
ギュンッとさらに速度を跳ね上げる。しかし、月は近づいてこない。
「は、速いです、先生…」
「何だこれ…ひょっとして… !?」
アネクドートは驚愕した。今自分は、上に向かっているものだと思っていたが、どうやら、落下しているようなのだ。目の前には月がある。
「我が影響される魔法だと…!」
そして、月はまやかしのように消えた。アネクドートの眼前には、地面が広がっている。
「くっ、止まれ、ねぇぞ!」
ガシッとミャージッカを掴み、衝撃が少ないように足から着地した。月に照らされていた地面が、ガラスのように砕け散る。
(氷!?)
さらに、アネクドートは予感がした。懐かしい予感が。
「オイオイオイオイ、どういうことだ、こりゃあ」
アネクドートの視界に、数人の人間や魔物が入ってくる。その中には、丁度会いたいと思っていた面々がいる。
(嵌められたな、これは)
「飛車の前に無理矢理置かれた角行の気分だ」
アネクドートは諦観を混ぜつつ、言った。




