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2-1

■2


「一輝は奇妙な音を耳にしたことはありませんか?」

 葵がそう聞いてきたのは、木曜日の朝だった。

 登校を共にするためにと呼び出された一輝が玄関から出てて、すぐのこと。学校へ向けて歩き出そうとするよりも早かった。

「奇妙って?」

 一輝は聞き返しながら、指で登校と促したが、彼女はそれでも歩く気配を見せなかった。

 何かに耐えるように学校指定の青いバッグを抱きかかえ、考え込みながら視線を逸らす。

「私にも、どういった音かと正確に言い表すことは出来ません。ただ、こう……水から上がった爬虫類が歩くような、気味の悪い音なんです」

 それを語るだけですら、葵は悪寒を感じて震えているように見えた。

 だからこそ一輝は、あえて明るく首を横に振った。実際、聞いたこともない。

「実際に爬虫類が歩いてたんじゃないか? 近所でこっそり飼われてたイグアナが逃げ出したとか、トカゲが何匹か群れを成していたとか。あるいは単に、川に落ちた人が歩いてただけって可能性もある」

「……そう、ですね。きっと、そうですよね」

 推測される現実的な原因を口にすると、葵は多少安堵したようだった。

 まだ頬の端が引きつっているものの笑みを見せ、懸命に頷く。

 一輝はその気持ちが再び落ち込む前にと、彼女の横を通り過ぎながら軽く腕を引いてやった。葵は嫌がらず、登校のためにようやく歩き始める。

「新聞のこと、気になってるのか? あんまり抱え込むなら、一度休んでみるっていうのもいいんじゃないか?」

「そんなことは出来ません。個人的な都合で休刊するなど、新聞社にあるまじき行為です」

「まだ社ではないが。記事自体のストックはあるから、発行することは出来ると思うぞ」

「いいえ、大丈夫です。そもそも私は抱え込んでなどいないのですから。こうしている間にもきっと新たな記事のネタを発見して――」

 葵がいつもの強気な性質を取り戻したかに思える口調になり、自信を漲らせる様子を見せた時。

 しかし彼女は突然にそれを止めると、またしても正反対に脆弱な、絶望的な恐怖に縮み上がるような表情を見せて立ち止まった。

 さらには何かに気付いたように、ハッとして振り返る。

 一輝も訝って同じ方向を向くが、そこには車通りのない住宅街の細道が続くばかりだった。吹き始めた寒風に紙切れが舞っている以外、他になんらの異常を見つけることも出来ない。

 それでも葵は変わらず怯え、目を見開いていた。

「どうしたんだ? 何かあったのか?」

「シッ、静かに! ……音が、聞こえませんか? やはり何か、水を叩くような……」

 声を潜めて聞く葵に、首を傾げながらも耳を澄ませる一輝。

 ……しかし彼女が言ったようなものは聞こえず、ただ風が通り過ぎていくばかりだった。

「気のせいじゃないか? 排水溝に何かが落ちたとか」

「…………」

 辻褄を合わせるが、返事はない。

 とはいえ彼女自身も既に何も聞こえなくなっている様子で、耳の横に手を当てて必死に探っても、成果は挙がらなかったらしい。

 肩をすくめて、一輝はまた学校へ向けて歩き出した。変に立ち止まっているより、その方が葵のためにいいと思ったのだが――

「ほら、行こう。早くしないと遅刻するぞ」

「――あ、ま、待って! 待ってください!」

 同調しようとして振り返った葵が、再び声を上げた。

 それも今度は危険が差し迫っていることを示すような悲痛の叫びで、一輝も驚いて立ち止まる。

 今度は何があったのかと聞くと、葵は先ほどよりも強く恐怖し、興奮に息を荒げていた。

 心臓が痛みを伴うほど異常に脈打っているのか、片手で胸を押さえている。喉は震え、唇はゆっくりとしか開かれなかった。

 辛うじて、か細い声が聞こえてくる。

「今、そっちに影が……何か、奇妙な影が……」

「影?」

 葵が指差したのは、今まさに進もうとしていた方角である。

 しかしその先には人の姿どころか、野良犬や野良猫も見つけられなかった。電柱はあるが、人が隠れられるような太さではない。

 一輝は訝り、一応は警戒しながら、電柱の裏を遠巻きに覗き込んだ。

 それに続いて、怯えて一輝の背に隠れて裾を掴む葵も、恐る恐る顔を出す。

 そこには……やはり、何者かが潜んでいるということもなかった。

 念のためにと近付き、電柱を見上げ、逆に視線を下ろして排水溝も確認しても、黒く濁った水が見えるばかりで動物一匹見つからない。

 肩をすくめて、一輝は葵に振り返った。

 未だ警戒しているように瞳を揺らす彼女に、優しく語り掛ける。

「やっぱり、疲れてるんじゃないか? 今日は休んだ方がいいかもしれない」

 背後にはまだ葵の家を望むことが出来た。

 それを視線で示すと葵も振り返り、その提案に逡巡したようだったが。

「いえ、行きます。きっと今のも、何かを見間違えただけで……」

 自分自身に言い聞かせるように呟きながら、彼女は首を横に振った。

 それはどこか、不可解な恐怖心を必死に否定たがっているようにも見える。

「……わかった。無理はするなよ?」

「…………」

 荒くなるばかりの呼吸を、なんとか鎮めようとしつつ頷く葵。彼女は学校へ着くまでの間――いや着いた後も、何度となくうわ言のようにぶつぶつと、己を落ち着かせる言葉を呟き続けていた。

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