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4-9

 ……そこから先は文字ではなく、投げ出されたペンが転がって擦れただけのような点と線が残っているだけだった。

 一輝は愕然としていた。葵の末路を思い、茫然自失で手帳を見下ろし、もはや手足を震わせることも出来ない。体温調整機能は狂い、体表が凍てつく寒さにも関わらず体内は燃え盛るように熱く、発汗機能は完全に壊れて一滴の汗も滴ってはこなかった。呼吸をすることも忘れ、口の中が乾き、舌が感情を味覚としか認識したような、鉄錆に似た吐き気を催す不快な味を脳へ伝え始める。心臓は止まってしまったように無音で、静寂とした建物の中、なにひとつ音が聞こえない。

 いや、ひとつだけあった。足音が聞こえてくる。雨の降った粘土質の土を歩くような、不気味な足音。一輝が総毛立ちながらも振り返れずにいると……それは、不意に後ろから覆い被さってきた。

 一輝が悲鳴を上げなかったのは、声が出なかったために他ならない。青ざめ、全身の血が凍結し、脳が一切の電気的信号を送ることを拒否していた。しかし……背中に圧し掛かってきたのは、不定形の怪物などではなかった。

 自分の身体を見下ろす一輝が目にしたのは、背中から抱き締めるように巻きつけられた人間の腕だった。そして、それは見たことがあった。馴染み深く、探し求めてきたものに他ならない。黒い袖の奥に隠された、しなやかで柔らかい腕。

 それは紛れもなく、葵だった。

 一輝は鼓動が再び刻まれ始めるのを感じた。完全に硬直していた身体がゆっくりと動くようになっていき、血液の流れる脈動が聞こえ、乾いて張り付いた唇の端が少しずつ剥がれる。喉も乾き切り、棘が刺さっているかのような痛みを発していたが、か細くならば声を出すことも出来た。それでようやく、肺の中にある極僅かな空気を搾り出し、背中に抱きついて額を付けているらしい葵に話しかけた。

「葵……だよな」

「…………」

 彼女が頷くのを感じられ、一輝の脳に安堵が滲み出てくる。それは探し続けた葵と、とうとう再会出来たことによるものに他ならない。一輝は自分の呼吸が乱れてくるのを聞いていた。目が泳ぎ、涙が溢れてくるのを頬の感触で自覚する。

 しかしそのいずれも……真実に言えば決して歓喜でも、ましてや安堵でもないことを、一輝は頭の奥底で直感していた。

 だからこそ一輝は、力の入らない手で手帳の一枚をそっと破り、ペンを取った。それが全く無駄な行為であること、空しい抵抗であることもわかっていたが、もはやこうする他に、己に出来ることはないことを理解していた。

 葵がとうとう口を開くのがわかる。そこから発せられるものがどういったもので、どのような意味を持つのか。本当は耳を塞ぎたかったが、そうすることは出来なかった。それよりも書かなければならない。一輝は懸命にペンを走らせていた。どれほどおぞましい、信じがたい、受け入れたくないものであっても、今となっては全てが遅く、認めなければならない――背中に圧し掛かる肌の感触は柔らかいが、骨や筋肉の硬さを一切見せていなかった。身体を抱く腕はしなやかだったが、薄暗い建物の中、袖口から覗く手に見える黒い染みが影か否かを判別する手段はない。

 その腕が身体を締め付けたまま、手帳へと伸びる。そしてそれを手に取ると、糸を引くような、ねちっとした音が聞こえてきた。耳元で声が発される。名前を呼ぶ声。葵の声音。ただし、聞き慣れた凛として美しいものではなく、粘液にまみれたような、酷くぎこちない喋り方で……



     一〇月一二日付けの新聞からの抜粋


   一〇月九日から行方がわからなくなっていた望月葵(一七)が今日、一〇月一〇日から同じく行方不明となっていた稲葉一輝(一六)と共に橋山村近辺の山中で発見された。両名とも主立った外傷もなく、健康状態は良好だったが、いずれも軽度の記憶障害を患っているようであり――

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。


次作は二月中旬から三月初旬頃に投稿開始予定です。

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