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彼女は私に振り返ったが、私はそこに人間らしい顔を一切見つけることが出来なかった。造形が違っていたわけではない。目も鼻も口も耳も、全て私たちと同じ作りをしていた。しかし全く異なるのだ。彼女は私の方を向いたが、私を見つめてなどいなかった。そもそも彼女の眼にあたる部分には、眼球ではない別の何かが収まっていた。
真っ黒な、しかし影ではない……粘液質の何かが、女の内部で蠢いていた。私がそれを目の当たりにすると同時に、彼女は目といわず口といわず耳といわず、果ては全身の毛穴からでさえ、体内の真っ黒い液体を噴水のように噴き出させて飛び散った。その凄惨な光景は全て克明に私の脳裡に焼きついて離れない。しかしそれを全て記すことは出来ない。思い返すだけでも脳が狂い、前後不覚になるほどの眩暈がして、吐き気が止まらなくなる。
ただ言えることは……噴き出てきた黒い液体は、紛れもなく生物だったということだ。全く理解しがたい、生命活動に必要な器官をなにひとつ備えているとは思えない不定形の軟体生物だった。アメーバを異常に肥大化させたような単細胞生物にも思えたが、それとも違う。むしろ正反対に複雑な、そして想像を絶するような生態を持ち、人間にとって最も害悪となる存在に違いない、邪悪を凝縮化させたような意思を持ち合わせていると思えてならなかった。
ともかく私は逃げ出したのだと思う。悲鳴を上げる余裕などなかった。竦みきった脳に鞭を打ち、足を動かさせて、闇雲に廃墟の中を駆け回った。しかしどこへ行ってもあの不定形生物は姿を現して、私の足を絡め取ろうとしてきた。時には女の時と同じように、人間を利用してきた。奴らは私が同じ人間の姿をしたもの見ると多少なりとも安堵感を得ることがわかっているに違いなく、それ逆手に取ってのことだろう。私は辛うじてそれを回避し、建物へ逃げ込んだ。ここは恐らく図書館なのだろうが、ここに入った途端、あの生物の出現はなくなった。
しかし……それは決して、一時的にでも平穏などではない。そも、私は逃げ延びたのではなかった。誘い込まれたのだ、この中へ。倒れた書架の隙間に、柄の折れた鍬が落ちている。散乱した本の上に、割れた太い黒縁の眼鏡が落ちている。破れた紙の束の中に、藍色のリボンが紛れている。そして壁には……文字が見える。それは明らかに、あの恐るべき悪辣な村落の集会場の中に綴られていた、奇怪で心騒がされる文字に等しかった。
私に出来ることは、あのおぞましい邪悪の生物がなんらかの準備を施し、再び現れ、私に害意を及ぼすまでの間に、私の体験した出来事について可能な限りを書き残す他にない。
もはや今までに培ってきた範囲の現実主義など意味をなさない。私の、さらに言うなれば人間の知り得る現実の範疇を超越している。今ならばわかる。あの空想小説は紛れもなく本物なのだ。優衣や教授の見た夢は、この世界を支配する邪悪が顕現したものに違いない。そして私の追っていたもの、私の戦おうとしていたものの正体、村落で起きた失踪事件、私が聞いた音、影、優衣を殺害したもの、教授の奇行、この地で起きたはずの出来事、不定形の生物――それが今、私や、人間に何をしようとしているのか。
音が聞こえる。粘液質な足音が――




