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4-6

 そこには――先ほどまで存在していなかったはずの黒い水溜りのような染みがあった。それは紛れもなく、記憶にある、橋山村の集会場で見たものと同じ染みだった。それが全く気付かぬうち、いつの間にか自分の背後に迫っていたのだ。そして今度は橋山村の時とは違い、その姿をハッキリと見ることが出来た。目の口もなく、やはり見た目は単なる液体だったが、明らかに生きて、蠢いていた。海中で腐ったウミウシか、あるいは液状化した気味の悪い虫のような動きで、一輝の足の下に入り込もうとしている。

 さらには、もう片方の足にも同じ感触が走り、一輝が驚愕に周囲を見回すと、そこでは影の落ちる薄暗い地面の下から、じわりじわりとそこかしこに黒い染みが浮き出てきているところだった。そしてそれが全て、一輝に向かって不愉快な粘液質の水音を立てながら近付いてくる。

 自分を取り囲もうとする全く理解出来ない不気味な黒い液体生物の群れに迫られ、一輝はとうとう全てのタガが外れ、狂ったように悲鳴を上げた。狂乱して頭を抱えると、身体を振り乱して叫び散らし……自分の真下から新たな染みがうまれ出ようとするのを見て、転がるように駆け出した。大通りらしき土の道から離れ、廃屋の群の中へ入り込む。染みを逃れ、黒い太陽からも離れようとして闇雲に逃げ惑い、駆け回った。振り返れば屋根のない廃屋の先に未だ空中に浮かぶ巨大な黒い肉塊が見え、そこから再びおぞましい雫が垂れようとしているのを見て、一輝は意味のない怒号や罵声を吐きながら、最も近くにあった建物へ逃げ込んだ。半開きで危うげだったドアの隙間から飛び込み、それを強引に閉め切ると、それでも安心出来ず奥へと転がり込んでいく。室内に慌しい音を響かせて、一輝がようやく足を止めたのは、躓いたからだった。古めかしい板張りの床を倒れ込み、勢いのまま数度錐揉みしてうつ伏せの状態で止まる。痛みにしばし目を閉じ、再び開け、恐る恐る足元を見やると……

 しかしそこには、危惧したようなものは何もなかった。ただ単に壊れた木製の棚の残骸が転がっていて、そこに足を引っ掛けただけのようだった。床を見ても古めかしい床板が張られているだけで、黒い液が染み出てくることもない。

 極度の疲労と脳まで響くような動悸の中で、一輝はもはや再び走り出すことは出来ず、少なくとも今のところは不気味な生物が追って来ないことを確認し、倒れ込んだままの格好でしばし呼吸を整えた。そうして少しの間を経て、どうにか顔を上げ、立ち上がられるほどにまで落ち着いたところで、ここがどういった場所であるのかを調べようと周囲を見回した。

 まず奇妙なことに、そこは他の廃屋と異なり、天井が頭上を覆っていた。壁も剥がされておらず、どういうわけか、あの巨大な肉塊による仕業だろう暴風の大破壊を免れ、建物としての機能が未だに果たされているようだった。そしてそのおかげで、この建物の正体を知ることが出来た。

 どうやら異国の図書館のようだった。面積はさほどでもなく、市民文化センターの中に設けられているものよりはやや広いが、ビルのフロアの一角におさまる程度だろう。ただしその分だけ、西洋風の緩やかな曲線で作られた高い天井を持ち、吹き抜けを利用した実質的な二階建ての構造となっており、体感の広さはかなりのものだった。いくつも設けられた大きな窓は僅かな光を懸命に取り込み、晴れた満月の夜程度には建物内を照らしている……

 しかしそのせいで、間取りから想像されるような優美な姿とはかけ離れた一面を見せ付けられることになった。

 何よりも目に付いたのは、壁だった。剥がれてはいないし、多少の破損はあるが雨風を十分に防ぐだろうと思われる石の壁だが……そこにはびっしりと、全く読むことの出来ない、見たこともない文字が綴られていた。象形文字に似た形状をしており、古代の言語を思わせるが、直感的に地球上の歴史にあるいかなる文字とも別種の存在だと確信してしまう。それはこの文字が赤黒いペンキめいたものを乱雑に塗りたくったように書かれており、心騒がされる鉄のような硬質の悪臭を放っていたからかもしれない。

 文字そのもですら悪魔的な残忍さを秘めているように思えてならず、少なくとも一輝は壁の文字を見た瞬間に、あの巨大な肉塊や黒い液溜りに対するものと同等の恐怖を抱き、息を引きつらせる悲鳴を上げて飛び退き、どの壁にも近寄れなくなるほど身を竦ませたほどだった。建物全体が邪悪な生物の体内であるかのような錯覚に囚われ、落ち着いたはずの呼吸が再び激しく乱れ、体表が凍りつくのと反対に脳と内臓が異常な熱を持って眩暈を引き起こされる。

 一輝はすぐさまこの場から離れなければならず、そうでなければあの液溜りに捕らわれているのと全く変わりないことを直感したが――しかし逃げ出すことなく、それどころか建物の奥へ向かって歩き出したのは、他でもなく、そこに決して見逃すことの出来ない、あるものを見つけたためだった。

 一歩進むたび、壁の文字から発せられるものと木の腐敗臭の混じり合った異臭が鼻をつき、廃墟同然の朽ち果てた内装がよりいっそう明確になっていく。本来は綺麗に整列しているはずの書架は全て倒れ、破壊し尽くされ、床もところどころ穴が空いていた。そうしたぼろぼろになった床板の上には残骸と一緒に本が散乱していた。書架の数や建物の大きさから考えれば全く吊り合わないほど少数であり、さらにはどれも完全な姿ではなく、一部が破り取られたり、ずたずたに切り裂かれたりしている。薄汚れた表紙しか残っていないというものもあった。

 ただ、そうした本の中に混じりながら、折り重なって倒れ、粗末な机のようになった書架の残骸の下に隠れ潜むように、唯一完全な姿を見せる手帳が落ちていた。それは破損が見られないだけではなく、明らかに他のものと雰囲気が異なっており、一輝にとって見慣れたものだった――葵の手帳である。

 それはつまり葵がここに来ていたことを明かしており、一輝は歓喜とも取れる驚愕の声を上げて手帳を拾い上げた。そして葵はどこにいるのか、どこへ行ったのかという手がかりを得るため、すぐにそれを読み始めた。

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