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見えたのは、奇妙な点である――全ての家が明かりを点けておらず、息を潜めるか、あるいは死んでいるかのように夜の中に溶け込んでいたのだが、そうした暗闇にたったひとつだけ、ぼんやりとした光が見えたのだ。建物の中から極僅かに、月明かりの方がよほど周囲を照らすことが出来そうなほど微かで、染み出るような光だったが、それは明らかに何者かの存在を示すものだった。村に入った時に見ていないのは、視線の気配を避けるために遠ざかってしまったためか、あるいは一輝が山に入ってから明かりが点けられたためかはわからない。
一輝はそれが村の中心に位置する建物、つまりは橋山村の集会場なのだろうと当たりを付けて、高い石段を急ぎ駆け下りていった。来た道を逆に辿り、山を完全に降りきる頃には慎重な足取りになって、木の陰に隠れながら舗装された道に出る。山の中と同じ、風もなく落ち葉だらけの道を、足音を立てずに進むというのは無茶な要求だったが、一輝は沈殿した不純物をかき混ぜまいとするように、再び視線めいた気配に晒されることがないよう警戒しながら慎重に足を進めていった。
村自体がそれほど広くはなく、山の出口から集会場までも普通に歩けば数分程度という距離にあった。一輝がそこへ辿り着くまでには倍以上の時間がかかってしまったが、それでもそうした慎重さのおかげか、何者に出くわすこともなかったことには安堵した。
そして建物の明かりも消えてはいなかった。見立て通り外灯の類ではなく、雨戸の隙間からほんの僅かだけ漏れ出ている。光は赤く、時折は揺らめいているようもであり、電気の照明ではなく蝋燭などの火によるものだと想像出来た。
一輝は建物の周りを取り囲む低い植木の中から切れ目を探すと、物音を立てないようにそこを通り抜けて、白い壁紙の貼られた集会場の外壁に近付いた。中からは声らしきものが聞こえていたが、正面から門を叩き、葵について尋ねるなどということはしなかった。あくまでも論理的、現実的に考えるならば収穫祭などの村に伝わる因習を行っている最中であると予想出来るため、その邪魔をするわけにはいかない――というのが、一輝が自分自身に対して言い聞かせた理屈ではあった。
しかし一輝の中で、そういったものを超越する漠然とした不安、予感といったものがあるのもまた事実であり、そこから目を逸らすことは出来なかった。
その一因を作っているのは他でもなく、集会場の中から聞こえてくる声だった。なんと言っているか全く聞き取れない、くぐもった声。それもぼそぼそというよりは、口に唾液が溜まっているような、ねちゃねちゃした汚い声である。一輝はその時、葵の手記にあった、声質の変わった小学校教員の話を思い出していた。そして彼がここにいて、なんらかの演説を行っている最中なのかもしれないという考えを巡らせた。
だが一歩、また一歩と壁に近付いていっても言葉は全く理解出来ず……とうとう壁に耳を張り付け、声自体をハッキリと聞くことが出来るようになっても、それは全く変わらなかった。そもそも言語が異なっており、それも聞き馴染んだ英語や、聞きかじったことのある他の国の言語とも違っているのだ。並大抵の人間には到底不可能な、奇怪な発声法によって絞り出されているように思え、あるいは言語以前の、人間外が発する唸り声、吠え声ではないかとさえ思えてしまうほどだった。
そも、一輝が不安や恐怖を抱いているのはそれに始まったことではなく、ただでさえ怪しむべき村であり、だからこそこうして秘密裡に忍び込むようなマネをしているのだが、この不気味な音声を耳にするにあたって、一輝は自分がこれまでに考えてきた以上に――葵の書いた手記を完全な妄想だと決め付けないことを付け加えた上で考えてきた以上に――恐ろしく、途轍もない想像を絶するなんらかの秘密が隠されているのだと直感させられた。
そうして地獄めいた音声の鳴り響くこの建物から一刻も早く、中にいる『何か』に気付かないうちに離れなければならないと感じ、凍りついた背筋と震える足でゆっくりと後ずさったのだが……その瞬間、不意に集会場の中から声が途絶え、明かりが消えた。
それは単純に考えれば、集会が終わっただけと捉えることが出来るだろう。しかしその唐突さには少なからず奇妙なものがあり、同時に強烈な危機感を抱かせるものだった。一輝は聞き耳を立てていたことが気付かれたと直感し、村人たちが不敬者の自分を襲いに来ると考え、もはやその予感に逆らうだけの合理主義的な思考を持ち出せる精神状態にもなく、狼狽して足をもつれさせ、数度地面に指をつきながら転がるように逃げ出した。
そして実際に、植木をかきわけて粗雑な舗装がされた道へ飛び出した一輝の背後から、破裂したように窓を引き開けるけたたましい音が聞こえてきた。一輝は悲鳴を上げる余裕もなく必死に駆けた。空には雲がかかっており、星や月が消え、足元もおぼつかない暗闇の中で目を凝らして最も近くの分かれ道で本能的に村の出口へ向かって曲がる。そうしてから、恐怖に支配される頭の中にほんの少しだけ残された思考回路で、このまま村を脱出するべきか、あるいはどこかへ隠れてやり過ごすべきかという二択を自分自身へと迫った。
背後からはいくつもの足音が聞こえてくる。いや、正確には足音かどうかもわからない。葵の言葉が思い出されるのは、紛れもなく後をついて駆けて来るのが彼女の言っていた通り、靴の裏に泥の塊でもくっ付いているかのような、べちゃべちゃとした音に聞こえたからに他ならなかった。それが幾重にも連なって異様なまでに不気味な音色になっている。
さらに一輝は、背後からだけでなく、前方に見える雲の影が落ちる漆黒色の民家の窓が開く音が聞こえ、挟み撃ちにされると思ったがため、慌てて手前の道を曲がった。しかし恐るべき包囲はそれだけに留まらず、次には通り過ぎようとする手入れの放棄された水田の中から何かが這いずる音を聞き、渡りかけた橋のかかった幅の狭い川から不気味なぶよぶよした塊が這い上がってくるのを感じ、道に平行して広がる森から突き出た古木の枝から、巨大な黒々とした水滴のようなものがべちゃりと地面に落ちるのを見、もはや半狂乱になってそれら全てから遠ざかるように逃げ惑った。
そうして一輝が辿り着き、足を止めたのは、再び見る村の集会場の前だった。




