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「実家の方だ」
何かを派手に倒したり、ひっくり返したりしているような音が続く中、信利氏はすぐにそう断定した。隣に建つ古い家のことらしい。断続的に続くばたばたした物音を遠くに聞きながら、信利氏は安堵したような、勝ち誇ったような顔をしてゆっくりと立ち上がった。
「兄が帰ってきたに違いありません。慌て者ですから、きっとコップでも落としたために動揺し、書棚辺りにぶつかったのでしょう」
私はその推測を、なぜか否定したいという考えが浮かんでしまった。そして教授と会うために書斎へ行こうと促す信利氏に対し、不可解なことにすぐに頷くことが出来なかった。そうすることがひどく恐ろしく、無謀なことだと思えたのだ。私には超常的な能力などないし、そのようなものを信じていないので、単なる勘としか言いようがない。しかしいずれにせよ、信利氏に二度ほど促されたために理性を取り戻し、立ち上がって彼に続き家を出ることになった。
「教授は離れて住んでいるのですか?」
古い家、その書斎へと向かう短い道中に、私はそう尋ねた。彼は不服そうに肩をすくめると頷いた。
「私はこちらでも構わないと言ったんですがね。兄が頑なに実家の方で暮らすことを選んだのです」
「あちらの家には何か特別なものが?」
「遥か以前には父の書斎として使われていましたが、私も兄もそれほど感慨深いというものではありませんし、構造上に特別な面白味もありません。しかし兄は研究熱心で、帰ってきた時にも多くの民俗学の資料を抱えていましたから。一人きりの空間でそれに没頭したかったのかもしれません。もっとも先に話した通り、頻繁に私に電話をかけてきましたがね」
信利氏は可笑しいことのように少しだけ笑っていたが、同時にそうして一人にさせてしまったために狂わせてしまったのかもしれないという後悔や懺悔の念もこめられている様子だった。
教授の実家は黒々とした木造のいかにもな日本家屋であり、経年によってあちこちにガタがきているのか、玄関を通って板張りの細い廊下を歩くとギシギシと危うげな音を響かせた。書斎は家の一番奥にあり、窓から見える夕暮れが綺麗だったという思い出話を信利氏が聞かせてくれた。書斎の入り口は障子戸になっており、やや薄暗い廊下からでも、その障子紙に映る人影を確認することが出来た。
「兄さん、望月葵さんという方が面会に来ているよ。開けても構わないかい?」
ノックの代わりに信利氏がそう声をかけると、中の影は明らかに動揺して転んだようだった。どたんどたんと転げ回り……やがて這いずりながら遠ざかっていく音が聞こえてきた。
「そんなに慌てることはないだろう。相手は恐ろしいことのない少女だ。開けるよ――」
信利氏は苦笑しながら私に目配せで謝罪し、障子戸を引き開けた。そしてその瞬間……彼は明らかに驚愕した声を上げて仰け反り、同じく部屋を覗き込んだ私もその理由を瞬時に理解し、同じように短い悲鳴を上げてしまった。尻餅をつかなかったことと、即座に背を向けて走り出さなかったことは、奇跡的なことと言っていいかもしれない。
私はそこで見たものを正確に記憶しているが、正確に伝えられるかどうかはわからない。あるいは私も信利氏もその時点で既に気が狂っており、現実では考えられない出来事を集団催眠のように幻視してしまっただけなのかもしれない。もしそうであるなら、それほど幸せなこともなく、そして最も現実的に考えるならそうした解釈をする他にないだろう。あるいはそこで見たものは現実なのだが、私たちが感じ取った目に見えぬものだけが幻であり、思い込みの産物であるという可能性か。しかしいずれにせよ、私は今でもそれが信じられないし、同時に信じざるを得ないほど真に迫ったものとして認識してしまっていた。
古めかしい書斎は暴虐に荒らしつくされた様だった。机は砕かれ、棚は倒れ、そこに収められていただろう資料や書物の数々は散乱し、散り散りに破り捨てられ、一見して修復不可能であるとわかるものも少なくなかった。
そしてその荒れ果てた惨状の中心に見えたのは、虫のような奇怪な四つんばいの姿勢でこちらを見上げる……恐らくは宗司教授だろう高齢の男性だった。もっとも私は、すぐにそれを断定出来たわけではない。彼の顔を知らないというだけでなく、そもそもそれが本当に人間なのかどうかという根本的な疑いを持たざるを得なかった。
教授――そうであろう人物は短い白髪に、やや痩せこけて筋張った皺の多い老齢らしい顔付きをしていたのだが、血を流しているかと見まがうほどに目を充血させ、不可解な黒々とした唾液を滴らせながら、同じく異様に長い斑の舌を垂らしていた。上着のないスーツを着込んだ身体は、腕や足などの一部分だけが顔とは正反対に膨れ上がっているように見え、シルエットをいっそう奇妙なものにしていた。さらには獣のような眼を私たちに向けながら、舌を不気味に伸ばして近くに落ちている破り捨てられた紙を巻き取ると、それをそのまま口の中に放り込み、飲み込んだ。その様はそれこそ、教授が小学校教員に対して疑っていた、悪魔憑きを思わせるものだった。
私も信利氏もそのおぞましい光景に釘付けになってしまい、金縛りのように身動きが取れなくなり、もはや発汗機能すら止まってしまうほどの恐怖に震える喉から、か細い息が漏れ出るのを聞くことしか出来なかった。蛇に睨まれた蛙などというものではなく、さながら海底に住まう巨大な水棲生物が大口を開け、沖合いを泳ぐ私の眼下に影を生み出しながら昇ってくるのを目撃してしまったような絶望感を抱いていた。
そのため、教授らしき人物が不意に踵を返し、割られていた窓から飛び去っていった時、私は果てしない安堵と喜びを感じたほどだった。ただ、彼の手が床を叩いた瞬間、不可解にも、びちゃっという水音が聞こえたことについては、気のせいだと思い込まなければならないだろう。あの不気味に這いずるような足音と関連付けて考えたくはなかったのだ。書斎で見た光景は、それほどおぞましいものとして、私の頭に焼き付いていた。




