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まず最初に尋ねたのは他でもなく、教授が橋山村に滞在していた経験があるという点についてだった。
「ええ、確かに十二月と一月の二度、その村へフィールドワークに行っています。一度目は半月ほどの短い期間でしょうか。兄は最初、その村について今ほど異様な執着を見せてはいませんでしたし、不穏な考えも持っていませんでした。ただ山の上にお宮があり、何かを奉っているようだったものの、村民の誰に聞いても覚えのない名前が挙がるばかりだったことを気にかけていたようではあります。もっともこれは方言と、高齢化による言葉の崩れによって、元の名前とはかけ離れたものになっているのだろうと推測されましたがね。あとは日本の多くで見つけられる信仰、風習と同じものだったようです。初詣や神棚といったものですね」
「二度目の滞在を行ったのは、そのお宮について調べるために?」
「恐らくはそうでしょうが、兄自身、村を気に入っていたからという理由もあるかもしれません。実は最初の滞在中、そこに賽銭泥棒が現れたようでしてね。ひどい荒らされようだったと聞いています。それについて、兄は疑われることを懸念したのですが――村民たちは穏やかであると同時に聡明であり、教授が犯人であるはずがないことを確信し、その後も滞在を歓迎したそうです。兄がそうした村民たちの人柄に惹かれていたのは事実です。少なくとも二度目は一ヶ月以上の滞在を予定していました」
信利氏はそこまで言うと、小さなため息をついて声のトーンを少し落とした。
「ですが……実際には、ほとんど日帰りでした。最初の時とは全く雰囲気が違い、一日すら滞在出来ないと言っていました。理由は全くわかりませんが、失踪事件が起きた際、兄はそこになんらかの関連性を見い出したようです。執着を見せるようになったのは、その少し後――失踪した、教え子である小学校教員が発見され、その方に電話で連絡を取ってからのことです」
「最初に失踪した児童を受け持っていた教員ですね。記憶喪失を患い、引っ越したとのことですが」
「兄が言うには、彼は記憶を失ってなどいなかったのです。少なくとも兄のことを覚えていたし、数日ですが職場にも復帰しています。ただ、失踪時のことについてだけはわからないと繰り返すのです。……兄は彼について、『記憶を受け継いだ別人としか思えなかった』と評しています」
「どういうことですか?」
「彼は、兄から村に漂う恐ろしい気配の話を聞いており、そのために児童を心配して自主的に家を訪ねるほど熱心な教員でした。しかし事件の後、全ての性質を喪失してしまったかのように、何事への熱意も持ち合わせなくなっていました。兄との会話も、ただ兄からの問いに言葉少なに答えるだけで、実のあるものはありません。恐らく……兄は、そうした変貌振りに強いショックを受けたのだと思います。そのおかげで悲観的、あるいは受け入れたくない余りに、非現実的な捉え方をするようになってしまったのでしょう――兄はその教員について、声や話し方までも変わっていたと話しています。口いっぱいに唾液を含んだまま話すような、あるいは顎になんらかの負傷を追ったかのような、粘液質を含んだぎこちない、人間を模倣しようと努める軟体生物のようだったと言っていました」
「まさか」
私は否定の意味で呟いた。そのような異生物が存在するはずがない。私は村について醜悪な信奉や悪辣な宗教を疑い、そこに秘めるなんらかの陰謀によって失踪事件が引き起こされたと考えているのであって、人が突然に別の生物へ変貌してしまうなどという空想までをも信じ込むわけではない。私が恐れ、警戒しているのは、私には理解出来ない思考や理想を持つ邪教の信者が起こす犯罪に対するものに他ならないのだ。
そうであるため……背中に走る悪寒は紛れもなく、単純に怪談話を聞いた際に感じるものと同じだと言えた。また粘液質な声という言葉を、私が幾度となく感じてしまった、幻聴によってもたらされた泥のような水っぽい足音に関連付けてしまったのだろう。
そうしたありもしない怖気を振り払うため、私は首を横に振った。そしてその意図を理解し、信利氏も同意のように頷いた。
「兄はその時点で――教え子が事件に巻き込まれるというショックで、少なからず狂ってしまっていたのでしょう。そしてその後、不可解なほど村に直接赴くことは避けながらも、村についての研究を始めたのです。しかしそれらは全て異様な方向へ向かっていました」
教授が最も初めに調べ始めたのは、悪魔憑きだったという。
無論のこと、ウェンディゴ症候群に代表される悪魔憑きの症状については、おおむね科学的に説明が付けられている。教授は恐らく、そういった観点から小学校教員の症状を判断しようとしたのだろう。この時はまだ、現実的な思考があったに違いない。
次に調査したのは私が疑っているのと同じ、邪教についてだった。サバトやサタニズムといったものは、それでもまだ現実に則した考えだろう。村民がなんらかの、例えば悪辣な宣教師の出現などの理由によって、ある種の洗脳を受けたようにそうした信仰に嵌ってしまうということは、ありえないことではない。
しかし……教授はそうした現実的な考え方を持ちながら、その後なぜか、単なる空想小説にしか過ぎないと思われている例の稀覯書に注目し始めたようだった。その理由は、私の現実主義が考えられる範囲で答えるなら、そこになんらかの論理的な関係性を見い出したからに他ならないだろう。教授は聡明な人物に違いなく、例え狂っていたとしても、全くの空想によってではなく理性的な考え、長きに渡り培ってきた現実の知識によって、表面上は異常に見えたとしても、深層にはなんらかの正常性を持った解答を感じ取っていたはずだ。
ただ、心的疲労はそうした知性を容易に奪い去っていくものなのかもしれない。教授は優衣たちに村の話をした頃から、夢を見るようになったという。
信利氏は、教授の見た奔放な夢の話があまりに鮮烈かつ鬼気迫るものであったため、否応なく記憶に残されてしまったと語った。そしてその内容は不可解なことに、おおむね優衣と同じようなものだった。教授もまた夢の中で、近付くだけで胸がむかつき、眩暈と嘔吐感に襲われて前後不覚になってしまうほど、醜悪な気配を発するおぞましい邪悪の塊に監視され続けていたのだという。それは狼のような吠え声も、獰猛な破壊をもたらす爆音もなく、強いて言えば鼓動を湛えていた。それも地球の核、あるいは次元の奥底から地響きや空振のように鳴り響く脈動であり、それが鼓膜を使わず教授の脳を直接破壊していった。そしてその塊から零れ落ちた片鱗が不定形の怪物と化して、本棚の隙間や床の継ぎ目、外出した道路の中、あるいは対面する人間の口から噴き出し、時には扉や椅子そのものとなりながら、どこであっても教授を食らおうとするのだ。
教授はそうした夢に苛まれ続けたために、精神を病んでいったに違いない。信利氏も同じ考えであるらしく、その頃から教授が「宮が荒らされたことにより奉られていた何かが解放されてしまった、あるいは村を守護するものが失われ、なんらかの邪悪の侵入を許すことになってしまった」という迷信深い戯言のような推察を唱え始めたのだと教えてくれた。
こうした恐怖の根源が私と同じところにあるのは明白だった――信利氏は「これも夢の影響だろう」と言いながら、教授が何者かに狙われていると怯えていたことを話してくれた。やはり優衣と同様に、無意識下では監視の存在に気付いていたのだろう。
しかし教授は私と違い、それでもなんらかの超常的な、それこそ夢に現れたおぞましい怪物のようなものの存在が迫っているのだと信じていたようだった。それは人間の範疇を超えた手段によって自分を連れ去っていくに違いなく、もし自分が村について答えを見つけられないうちにそうなってしまったら、書斎にある資料の一切を警察へ送ってくれと信利氏に頼むことまでしていたという。
繰り返すが、私はそうした超自然的なものを信じてはいない。しかし信利氏から教授の体験、推察、空想を聞くうち、恐怖心が芽生えていることにも気付いていた。心底が冷え切り、鳥肌が立ち続け、我知らず自分の身体を抱いていた。そして自分の中に教授と同じような、現実にはとてもありえないと思える考えがふつふつと湧き上がってくるのも感じた。
ただ、私は我が身に迫る魔の手についてあくまでも現実的な解決をしなければならず、それと相反する推察や恐怖については無視し、冷静に努めて教授の話を分析する必要があった。
その時だった。私と信利氏は同時に、遠くからガラスの割れるような音を耳にした。




