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そうして私は適当な場所で夜を明かすことになったのだが、その間に教えてもらった教授の連絡先へ電話をすることにした――数回の呼び出し音の後にようやく繋がると、教授は優衣の話から想像される以上にやつれ、疲弊し切った声音で対応した。高齢のしわがれ声の中には、苦しそうな息も混じっていた。ただ、私が村について聞きたいことがあると話すと、その印象が少し変化した。警戒心を滲ませながら、疲弊を凄みに変貌させた鈍重な声音で、「キミは何者だ?」という問いかけてくるほどだった。
「橋山村で起きた失踪事件について、興味を抱いたんです」
「それならばすぐに忘れることだ。奴らに心惹かれてはならない」
「奴らとは、村民のことですか?」
「その問いに対して、私は頷きたくないな」
「なぜですか?」
「少しでも会話をしてしまったことが間違いだったようだな。答えることは出来ない。そしてキミは、全てを忘れて平穏な生活に戻ることだ」
教授は多少の苛立ちを見せながら、繰り返しそう言ってきた。しかしそれは私の身を案じてというより、そうすることしか出来ないといった諦観の意味合いが篭っているように感じられた。
いずれにせよ、私はそこで引き下がるわけにはいかず、橋山村を訪ねたことがあると明かした。その時、教授は少なからず驚愕し、同時に私を哀れんだようだった。電話口の向こうで苦々しく顔を伏せる姿が目に浮かび、恐らく嘆かわしくかぶりを振ったのだろう。そして諦めたように言ってきた。
「キミの都合のいい時間に合わせよう。住所は知っているのだろうね?」
そうして私は、面会の約束を取り付けることに成功した。可能な限り朝早くに行くことを伝えると教授も同意し、研究資料をまとめておくと伝えてきた。「この場でキミの問いに答えることも出来なくはないが、あいにくこの話は目に見えない相手と出来るものではないのでね」と教授は皮肉めいて言ったが、それについては私も同意見だった。
しかし教授は私が電話を切ろうとする直前、奇妙な話をしてきた。
「キミは異世界というものについて、どう思う?」
「……どう、というと?」
「惑星系、銀河系、あるいは次元や、さらに違う、我々の想像することの出来ない『壁』を越えた先にある世界。その世界と我々の住んでいる世界に、なんの繋がりもないと確信出来るだろうか? 多くの空想家は様々な趣向を凝らし、口実を用意し、そうした異世界へ足を踏み入れる夢想に酔い痴れる。だが果たしてそれは単なる夢想だろうか? 想像することも出来ない世界との間に、想像することも出来ない繋がりが生まれていたとしたら。その先に待つのは紛れもなく、我々の想像が及ばないような……」
教授はしわがれ声に熱を帯びさせてまくしたてながら、しかし話すごとに絶望を含んで喉を震わせていった。やがて言葉の途中で不意に止まると、重く長い息を吐く。そうして気を落ち着けると、私に謝罪してきた。
「明日の朝、会えることを祈っている。夜を明かさなければならないというのは不運なものだな」
教授は自嘲のようにそう呟いて、電話を切った。その言葉にはぞっとするほどの迫力と説得力が含まれており、私自身も切迫した緊張感を持ち続けていたため、それから一睡も出来ず、ビルや住宅の隙間から陽光を感じられた時には幸福にも似た安堵感を抱いたほどだった。
そうして無事に迎えることが出来た朝に感謝しながら、私は静岡にある教授の実家を目指した――友人から電話がかかってきたのはその途中だった。その時に私は、迷うことなくそれに応じた。教授が口にしていたらしい内容と関連しているはずの本について調べたかったところなので、タイミングはよかったと言える。もっとも、巻き込むことには気が引けて、実際には逡巡もあったのだが、もはやそれらを自分で調べている時間がないのは明白だった。なにしろ……私が彼女の部屋を出ようとしていた頃、紛れもなくアパートを監視するように周囲を歩き回るあの忌まわしい足音が、いくつも響いていたのだから。
幸いにして、調査すべきものについては昨夜、自分用にとまとめていたため、友人への依頼もスムーズに行うことが出来た。詳細を聞き出される前に通話を終えることが出来たのは、友人には申し訳ないが、都合がよかったと言える。そのついでというわけではないが、自宅にも無事に帰ることを知らせる連絡を入れておいた。これはどちらかと言えば、そうでありたいという希望でもあったが。
やがて私は静岡県に戻ってくると、自宅のある中部ではなく、西部にあたる浜松市に降り立った。無論のこと、教授の実家を訪ねるためだ。優衣から教えられた住所を探すと、そこは比較的活気のある町だった。大通りには高層ビルや派手な商店が所狭しと立ち並び、休日の朝だというのに多くの車や歩行者が行き交っていた。その有様は、なんらかのオカルト的な恐怖心が植えつけられようとしていた自分を少なからず慰め、私の頭を本来の現実主義に引き戻すための手助けをしてくれているようでもあった。
教授の実家は、そうした騒がしい空間からいくつか脇道を通った先の住宅街の中にあるようだったが、それでも周囲は近代的な洋式の家屋が並び、子供の遊び回る声も聞こえ、近くには当然の如く有名なコンビニ、あるいはスーパーや飲食店などが存在し、大通りの活気を慎ましやかながらも間違いなく受け継いでいると言えた。療養というには慌し過ぎるかもしれないが、教授が私や優衣と同じく目に見えぬ恐怖に駆られていたのだとしたら――優衣は心配をかけたせいだと思っているようだが――、こういった場所こそ精神を落ち着かせるのに最適なのだろう。
住宅街の中を進むと、容易に教授の家を発見することが出来た。それは住宅街の中心地にあり、広い敷地を高い生垣が覆っていた。豪邸然とした鉄製の門には丹波という教授の名字が彫られた木製の分厚い表札と、近代的なインターホンが取り付けられており、私はそれを押しながら、門から見える比較的新しい、三階建てをした洋式建築の白い家を見上げた。
そうするうち、やがてインターホンに応答があった。しかし対応した人物――声からして高齢の男性は最初、私が教授との面会の約束を取り付けていると主張しても、「そんな話は聞いていない」と否定してきた。周囲に同じ苗字を持つ家はなく、家を間違えたということもないはずなので、教授本人に確認してくれとも願ったのだが、明らかに不審者を家に入れまいとする様子で突っぱねてくるばかりで、私は信用を得るために苦心することになってしまった。
しかしそうした中で――橋山村についての話が聞きに来たのだと口にした時、不意にインターホン越しの相手の様子が変化した。その言葉が出てくるのがひどく意外で、驚愕すべき出来事であり、また恐怖に身を竦めたかのように、彼は僅かな間だが明確に沈黙したのだ。さらに具体的には、そうした沈黙の後に、低い声音で「お入りください」とだけ告げて、門を開いてくれた。