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「私は……夢を、見るんです。それも同じ夢です。正確には少しずつ違うのですが、全て共通した世界のものです。最初は四月の、橋山村に行く途中の電車内で、薄暗い山の中で誰かに追われている夢を見ました。誰なのかはわかりません。ただ何度も振り返って空を見上げながら逃げ続けて……村に近付くたびにその悪夢が頭の中で鮮明になっていって、恐ろしくなって引き返したんです。……その次に見たのは数日後だったと思います。また山の中で、続きのように走っていくと民家を見つけて、中に人の姿もあったので匿ってもらおうとしました。でもその人は私の前に立つと、突然口や目や、身体中の毛穴から黒い液体を噴き出させたんです。それで私は、また逃げ出しました。何度も、そんな夢を繰り返し見ていました……必ず前の夢の続きから始まるんです」
優衣は今まさにその夢を見ているかのように、竦みあがって肩を縮こまらせ、自分の身体を抱き締めた。ガタガタと震えて歯を鳴らし、息を荒くし、その日から始まった恐怖を語っていく。
「でもある時、違う内容の夢を見ました。山ではなく、砂漠のような中に見たこともない建物の廃墟が並ぶ、殺風景で薄暗い場所です。私はそこで……あまりに、恐ろしいものを見た気がします」
「気がする?」
「ハッキリと見た記憶はありません。どんなものだったのか全く覚えていないんです。ただ、どういったものだったのかは覚えています」
不可解な回答に私が首をひねると、彼女は形状ではなく概念的なものを記憶しているのだと告げてきた。そしてその見たことのない存在について理解したことを明かそうとする時、彼女はまた少し躊躇った。「こう言うと気が狂っていると思われるかもしれませんが」と苦々しく前置きをして、言ってくる。
「それは紛れもなく……邪悪そのものでした。世界から悪意のみを抽出したような、少なくとも人間とは決して相容れることのない、邪悪の塊だと確信しました。そして私はその途轍もなく強大な悪念、害意を間近に浴びて、発狂していたんだと思います。耐え難い恐怖に泣き叫び、のた打ち回って、立つこともままならない身体で必死に這って逃げようとしながら、喉が裂けるほど命乞いを繰り返しました。その夢から覚めると私は本当に泣いていたし、全身が極限まで疲弊していて、指先には乾いた土の地面をひっかいた感触がハッキリと残っていました。夢の中で理解した――あるいはその邪悪の塊によって理解させられた事柄の大半は、目覚めと共に霧散しました。そうでなければ、私はその場で即座に自分の命を絶っていたはずです。そう思えるくらいに、恐ろしい概念のようなものだけは頭の奥底にこびりついて、今も離れません」
優衣はますますもって呼吸が荒くなり、声の強弱やイントネーションも覚束なくなっていた。額には脂汗が滲み、それを拭うことも出来ないほど全身に力が入らなくなっているというのに、肩や顔を強張らせ震えている。ただし彼女はそれでも話すのをやめなかった。ひたすらに、かち合わされる歯の隙間から怖気にまみれた声を吐き出し続けていた。
「恒久的に見る夢の内容が変わったのはそれからです。山の中でも、見知らぬ異様な世界でもなく、場所はいつも大学やアパート、よく行く店や友人の家……見知った私の行動範囲内ばかりになりました。けれどそのどこにも、必ずあの邪悪の塊が現れていたんです。ハッキリと姿を見せることはありませんでしたが、友人を秘密裏に襲っていることも、私の背後から忍び寄ってくることもありました。葵さんの話していた影や音に近いものも経験しています。そうした夢を、ほとんど毎日見るようになっていったんです。そして夢の内容もどんどんと私に迫ってきているような、単なる夢ではなく、現実に私は、あの悪意に追われているような気がしてならなくなってきたんです! どこにいても夢と同じように現れる気がして、あるいは今この時にも現れていて、見えない場所から私を襲う機を狙って……!」
彼女はもはや、ほとんどヒステリックに叫ぶようになっていた。頭を抱え、時にはその存在を感じ取ったかのように耳を塞ぎ、目を閉じて、涙すら浮かべていただろう。そのうち机に突っ伏すような形でうずくまってしまい、しばしの間、嗚咽混じりの泣き声を上げた。
私はもう一度室内を見回し、そういった恐怖心がこの部屋の奇妙な配置に繋がっているのだろうと理解した。彼女が今も書棚を背にしていることが、その証拠だと言える。何者かが潜む隙間、襲い来る隙間を封じたかったのだ。
彼女は明らかに、精神を病んだ情緒の不安定さを見せていた。邪悪の塊というのは、恐らく村の監視だろう。村に関わったことで彼女も私と同じく、犯罪の発覚を恐れる村落の住民に危険視され、彼女の表層はそれに気付いていないながらも、深層では自分を覗き見る人影を見つけ、付け回す音を聞き取っており、それが絶望的な悪夢という形で現れたのだ。そしてじわじわと追い詰められ、やがて実現してしまう自らの死を確信したのか。そうであれば、こうした精神状態に陥ってしまうのも無理からぬことだと言えた。
しかしこのままではこれ以上の話が不可能になってしまうため、私は心底恐怖している彼女を落ち着かせる意味でも、その話を打ち切った。そして代わりに橋山村について知っていることはないかと問う。彼女は頭を抱えたまま首を横に振ってきた。それが意味するところは私を失望させることでしかなかったが――落胆に肩をすくめる頃、彼女は私にとって聞き慣れない人物の名前を口にした。
「丹波教授なら……何か知っているかもしれません」
「誰ですか、それは?」
「丹波宗司教授……民俗学の教授です。私たちが橋山村へ行こうと思い立ったのは、教授の話を聞いたからなんです」
聞くところ、どうやらその人物は民俗学の他に宗教学を修め、神秘学にも関心を示しているらしく、それらの観点から橋山村に興味を持ったことを知人に話すことがあったらしい。
そしてその知人というのは――どうやら三月に村を訪ねて失踪した、小学校教員のようだった。教授の教え子で、大学の講義の合間に、その教員の事件についていくつかの疑問や推察を口にすることがあったという。優衣たちはそれを聞いたために、探偵の心地で村へ行くこと決めてしまったらしい。
「疑問や推察というのは?」
「詳しくは覚えていません……私は元々、それほど興味がなかったというか、恐ろしく思えていたので。ただ、『邪悪の実在』という小説の一篇を引き合いに出していたのは覚えています。教授は――当然かもしれませんが――現実に則した考え方をする人なので、空想と混同しているような話し口に違和感があったんです。他には魔女狩りだとか、ウェンディゴ症候群だとか、サタニズムだとか……そういったものだったと思います。以前に村に滞在した時は、そんな様子なかったと言っていましたけど」
「教授は橋山村に住んでいたことがあるんですか?」
「いえ、フィールドワークです。去年の十二月と、今年の一月に」
私はその時、直接その丹波という教授に会って話を聞かなければならないという強い使命感に駆られた。それは、彼の身にも何かが迫っているかもしれないという予感のために違いなかった。村にそれほど関わった人物ならば、今の自分や優衣のように監視が付いていてもおかしくはないだろう。
私は優衣にすぐさま教授の連絡先を問いただした。しかし彼女はなぜか、渋るように目を伏せた。その理由を話すことも躊躇ったようだったが、いまさら隠すことがあるのかと聞くと、重苦しくだが口を開いてくれた。
「四月の半ば過ぎだったと思います。失踪した私の友人たちが発見された頃から、教授は精神的な疲労を訴え始めて、静岡県にある実家に帰って長く休養を取っているんです」
その口振りは、紛れもなく教授疲労の原因が自分たちにあると考え、後悔と懺悔を抱えているためのものだった。教授がそれなりの高齢である点も、優衣の不安を大きくさせている要因のひとつだろう。復帰の目処が立っていないことから、体調まで崩しているのかもしれないと心配しているようだった――優衣は教授と数度連絡を取ったものの、高熱に浮かされて悪夢を見ているかのような、うわ言めいた話をするばかりだったという話もしてくれた。そのため面会が可能かどうか、可能だったとしても正しく会話を成立させられるかどうかはわからないと忠告してきた。
しかし、私はそれでもと連絡先を聞き、優衣の部屋から出るため立ち上がった。時計を見て――窓が封じられているため、そこから外を見ることは出来ない――すっかり夜になっていることを知った優衣は泊まっていくことを提案してきたが、それはお互いにとって危険だと判断し、断った。