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そこにあったのは集会場だった。周りが全て田んぼであり、民家から離れているのは、見通しをよくしようという計らいなのか――今では雑草の群れによってその努力の大半が無為にされ、遠くからでは屋根しか見えなかったが。
それらを迂回して近付くと、ようやく全貌が現れる。膝下程度までの低い植木に仕切られたその建物は、宝形造の屋根を持った正方形に近いシンプルな形状で、古い木造なのだろうがしっかりとした壁紙が貼られているため、村の中では比較的頑丈そうに思える。
入り口に回ると、橋山村公民館と書かれた古めかしい木製の表札が取り付けられていた。ガラス張りの玄関の先には靴箱が見え、誰の靴も入っていないことから、無人であることがわかる。掃除用具入れなのだろう錆びの浮いたロッカーや、ダイヤル式の電話など、いかにも時代から取り残された村落の集会場というものが数々置かれており――私が導かれるように戸に手をかけてしまったのは、紛れもなく純然たる好奇心によるものだった。あるいはそうしたところで、いかに隣人の脅威を心配することのない村落であろうとも、こういった公共の施設には鍵をかけているだろうと高をくくっていたのかもしれない。
それゆえに、ギィっと金具の軋む音を立てて戸が押し開かれた時、私は心臓が飛び跳ねるほど驚き……同時に背筋が凍るような恐怖を感じた。総毛立って身動きが取れなくなり、呼吸することが困難になった。息が詰まる中でも強引に鼻の中に押し入ってくる空気は悪臭というよりも、侵入を拒む強烈な威圧感のようなもので、脳の奥底を恐怖で満たそうとしてくる。
瞬間的に思い出されたのはパンドラの匣の物語で、この建物がそういった類のものであり、その中に潜む魑魅魍魎、悪鬼羅刹を自分が解き放ってしまったかのような錯覚に陥った。しかし、それでも私は次の瞬間には理性的な脳の活動によって正気を取り戻し、そうした怖気の原因は、この場面を村民の誰かに見られたら少なからず悪印象を与えてしまうと思ったために他ならないと結論付けた。だからこそ私は……村民が怒鳴り込んでくることがないのを確認してから、記事の役に立つかもしれないと、村落の中心たる集会場の中へと、好奇心に任せて足を踏み入れてしまったのだ。
ただしそうした期待に反して、内部は昼間だというのに薄暗いこと以外、さほど風変わりな姿を見せてくれなかった。玄関を入ると道が左右に分かれており、細い板張りの廊下が、建物と同じく内部を四角く縁取るように伸びていた。一方の道はトイレと用具入れを横目に進むもので、もう一方には給湯室があった。いずれもどうということはないもので、トイレに日本古来の妖怪が潜んでいることも、用具入れに残虐な死体が隠されていることも、給湯室にある食器類におぞましい晩餐の痕跡が見つけられることもなく、ただ古いだけの公民館であることを示していた。
しかし、私は記者としてその成果に落胆していたはずであるにも関わらず、人間的な本能の部分で安堵していたのだろう。何しろそれらのどの扉を開ける時も、自分でも不可解なほど緊張していたのだから。
今にして思えば、私はこの時点で、様々な言い知れない怖気によって村に対する考えを全く改めていたのかもしれない。少なくとも、私はこの集会場の中に何か大きな事件、記事に繋がるものが隠されている可能性を抱いていた。そしてそれが期待出来ないと思ったからこそ、落胆と安堵を同時に得たのだ。
そのために私は、最後に残された――二本の廊下が合流する先にある、広間へ通じると思われる大きな襖の前に、大した恐怖もなく立つことが出来たのだろう。広間ほど何かを隠すのに適さない場所はない。だが果たして、この先を見る必要もなく引き返してもいいと考えたのは、本当に落胆の感情が成せるものだったのか――私はやはり心底では、恐怖していたのかもしれない。
そしてそれを払拭するために、実際に何もない広間を見て安心しようとしていたのか……私は無謀にも、その戸を開けてしまったのだ。
直後に、私は悲鳴を上げそうになった。現実にそうしなかったのは、単に声が出なかったためだ。それほどまでに驚愕し、戦慄した。鉄錆に似た嘔吐感を促す硬質な悪臭を嗅ぎ、血の気が引いた。全身が凍りつき、見開かれた目をすぐさま逸らしたいのに、どうしても自らの意思で身体を動かすことが出来なくなった。
畳張りのその部屋は、思った通り広間だった。最低でも二十畳以上はあるという広さながら、内装自体は思った通りどうということもない質素なもので、机の類なども一切置かれておらず、せいぜいが村の収穫祭らしい記念写真が壁にいくつも飾られているという程度でしかない。
しかし、問題はそこにあった。写真自体ではない。それらの微笑ましい思い出の写真が、無残にも赤黒いペンキのようなもので塗り潰されていたのだ。というより――広間の全ての壁にびっしりと、同じものが塗られていた。そしてそれは、よくよく見ればペンキをぶちまけただけという悪戯めいたものではなく、全てが確かに『文字』だった。日本語ではない。ましてや英語、あるいはロシア語のようなものとも違う。全く理解不可能な、象形文字に似たものだった。私は以前に、フェニキア文字というものを見たことがある。前一四世紀という古代に生まれた文字だが、それを酷く歪めたものに近いかもしれない。
いずれにせよ、でたらめなものではないと直感した。それは明らかになんらかの意図を持っていた。しかも悪意的な、残忍な意思だ。
そう感じたのは……私が震慄の中、狂気の壁から逃れるため、広間の最奥に目を向けてしまったためだろう。それこそ、何よりも見てはいけなかった。そこにあったのは古めかしい村落の公民館の室内には全く不釣合いな、重厚感のある鉄錆色をした台座だった。四角い土台の上に板を乗せたような形状で、人が十分に寝転がれる大きさをしており……供物を捧げる祭壇を連想させた。
私はそこに近付くことが出来なかった。しかしそれでも、窓のある一面だけから差し込む光によって、どこか神秘的、あるいは超常的に照らされるその台座の姿を見ることが出来てしまった――木や鉄、石など、私の知り得る素材のどれとも似つかわしくない質感を持った台座には、壁に書かれた文字と同じ色をした、人型の染みがこびりついていた。
その直後、私は走り出していた。叫び声を上げていたかどうかもわからない。ただ気が狂いそうなほどの恐怖を感じて、一刻も早く村から逃げ出さなければならないと思った。ここがどんな場所なのか、果たして現実なのかどうかすらわからなくなり、ある種の魔界、そうでなくとも異世界めいた得体の知れないおぞましさを感じていたことは間違いない。そしてそんな状態の私が、集会場の脇に留めていた自転車の存在を覚えていて、またそれを正しく乗りこなすことが出来たのは奇跡と言っていいだろう。私はもはや振り返る勇気もなく、他の一切に注意を向ける余裕もなく、無我夢中で村と外界とを繋ぐ荒れた一本道を駆け戻った。