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2-7

 そうやって気を急かせながら、来た時と同じ順路を駆けるように辿り……家に辿り着いたのは、完全に日が沈みきる直前というところだった。

 薄暗くはあるが見慣れた家の前の街路に安堵感を抱き、じっとりと滲んでいた額の汗を拭い取ると、葵の家を訪ねる――しかし彼女は未だ帰宅していなかった。

 ただ、今日中には帰るという連絡が簡素ながらもあったらしいことを聞き、一輝は自宅へ戻る前に、しばらく忘れてしまっていた葵との連絡を図ることにした。電話には応じなかったものの、意外なことにメールは少しの間で返ってきた。そこには『すぐに帰る』という、短い文章が綴られていた。

 その言葉通り、葵が家の前に姿を見せたのは、それから一〇分もしない頃だった。

 しかし――一輝は、取材用のグレーのコートを着込んだ紛れもない彼女の姿を発見し、そこへ気さくに手を振ろうとしたところで、思わず驚愕に固まってしまった。

 そこにいたのは薄暗い街灯に照らされながら、普段とは全く違う顔をした葵だった。

日頃から綺麗に整えているはずの黒髪は、よほど急いでいたためか乱雑に散らばり、憔悴し切ったように息を荒げ、どこか頬がやつれているようにさえ見える。目の下には死相のような深い隈があり、顔色も明らかに悪かったが、目だけは異様に血走っていて、鬼気迫る様子で周囲を警戒して執拗にぎょろりぎょろりと動かしていた。

 思わず声をかけることを戸惑ってしまう。ある種の恐怖めいた強烈な不安を抱き、無言で口を開閉させるだけになり、彼女が一歩一歩と近付くたび、その場から離れたいという考えさえよぎってしまうほどだった。それでも辛うじて踏みとどまるうち、葵はほとんど目の前にまでやって来た。一輝がようやく声をかけられたのは、その時だった。

「葵……どうしたんだ? 大丈夫なのか?」

「……ええ」

 ほんのそれだけの返事だったが一輝は彼女の持つ尋常ではない気配、偏執者のような気配に気圧され、半歩ほど後ずさった。直後にはハッとして、その行動が気を悪くさせたのではないかと心配するが――彼女は一切気に留めた様子がなかった。というより、気付いていなかったのだろう。それよりも、他の何かに対して強い警戒心を働かせ、それに全ての力を注ぎ込んでいるようだった。

 一輝はその得体の知れない恐怖や不安を隠すために、早口に告げる。

「えぇと……頼まれてた調べ物、終わったんだ。見つからなかったものもあるけど、これでいいんだよな?」

「そうですか。問題はありません。ありがとうございます」

 礼を言いながら本と筆写したノートの入った袋を受け取る葵。その声はいつもの澄んだ強さを窺わせるものではなくなっていた。明らかにまともな睡眠を取っていないためによる疲弊と、死を内包しているような、低く淀んだ声だった。

「それでは……失礼します」

「あっ、ちょっと待ってくれ!」

 軽く頭を下げて足早に家の中へ入ろうとする葵を、一輝は慌てて引き止めた。しかし彼女の背は異常なほど接触を拒絶しており、その背中越しにじろりと向けられた、怪物めいた赤い眼にも気圧され、一輝は腕を掴もうとしていた手を引っ込め、見送るしか出来なくなってしまった。

 残された一輝は、拒絶を体現するように閉じられる扉に対してすら何も言えず、しばし立ち尽くした。もはやどうすることも出来ず、けれどそれゆえか、ハッキリとした不安を抱く。得体の知れない何かが渦を巻き、葵や、あるいは自分をも飲み干そうとしているイメージが頭の中に浮かび上がり、引きずり込まれた先にある深海の如き広大な暗黒に竦み上がる。

 空はとうとう夜へと移り変わっていた。夕焼けの残滓も消え果、足元にしか効果を及ぼさない街灯と、民家のカーテン越しに漏れる僅かな明かりだけが、閑静な住宅街の薄暗い通りを照らす。

 一輝は目の前にある、幼馴染が住まう家を見上げた。慣れ親しんだ、けれど今は全く別人に見える幼馴染の部屋は二階にある。真っ暗だったその部屋の窓には、しかしどれほど待っても明かりは点かず、まるで息を潜めて、佇む一輝を監視しているように感じられた。

 仕方なく背を向けてもその気配が止むことはなく、一輝は何もわからないまま、正体の掴めぬ不安の中で眠りにつくしかなかった。

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