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2-6

 厳重な鉄製の扉を押し開く許可が出たのは、面倒ないくつかの手続きの末だった。その手間のせいか感慨深く、どこか厳かに入室すると――そこはまさに地下という様子で一輝を威圧で出迎えてきた。十分な照明はあるが窓はなく、そもそも壁も見えないほど、分厚いアルミの書架が室内を圧迫しているせいか、おどろおどろしい淀んだ空気が漂っているようにさえ思えてしまう。

 閲覧スペースは入り口の正面にこじんまりと設けられていた。ここにだけは書架がなく、代わりに木製の長机が二つ置いてあるだけで、灰色の壁を見ることが出来る。

 一輝はひとまずそうした席のひとつに手荷物を置き、目当ての本を探した。検索した通りの書棚を探すだけなのでさして苦労もなく、見つけ出すことが出来る。

 しかし問題は、葵の指定したものの中で、その本が最も異質だったということだ――それは、『邪悪の実在』という娯楽小説だった。

 一輝はそれがこの貴重書庫に納められていることに疑問を抱かざるを得なかった。手に取った時、いかにも古めかしく、慎重に扱わなければ破損させてしまうのではという恐怖に囚われたのは確かだが、他になんの所以があって別のいかにも神聖な、そして誰の手にも触れられることのないだろう分厚い資料の中に紛れ込んでいるのか――この書庫内の書籍は一般の閲覧室に持ち込むことは出来ず、監視の目が光る貴重書庫内のみでの閲覧が義務付けられているのだが、それほどの価値があるものとは思えなかった。

 調べたところによれば、この小説は一九四七年に発行されたものであり、著者であるバスチアン・ダスコスはこの物語以外に作品を発表していないどころか、これ以外に文筆業に関わったことのない民族学者だった。そして執筆後に精神を病んで姿を消してしまったらしく、恐るべき曰くを持った本として知られているようだが……そうした噂を持つ書物など数え切れぬほど存在するだろう。その程度で一般的な小説をこのような場所に保管するほどのことがあるのかどうかは、甚だ疑問だった――一輝は、少なくとも本を開くまではそう思っていた。

 葵から指示されたのは、その小説の一部分だった。七つの章に分けられているうちの三つ目で、葵はそのタイトルをフランス語で表記していた――ここにあるのはフランス語の原本を日本語に訳したものだということは、全ての作業を終えたあとで好奇心から調べてみてわかったことだ――が、翻訳ツールによれば『領域外における神々の誘い』となるらしい。日本語訳版の書籍には『異世界の祭儀』として書かれていた。

 その物語は、次のような文章で始まる。


   異世界という言葉がある。別次元に存在する世界。我々が知り得る領域の遥か外。人々はそこに夢を見い出し、未知を賛美する。けれど果たして、それは美しいものであるかどうか。真実には醜悪に、既に我々のすぐ側に佇んでいるのではないか。全く未知の暗黒の怪物が、我々が感知出来るよりも遥かに巨大な口を広げ、ゆっくりとこの星を覆おうとしているのではないか。

   異世界という言葉がある。それは決して楽園を示すものではない。我々は、既にそうした異世界に呑み込まれつつある。


 一輝はその一見すればなんということもない空想が、しかしどこか警鐘のように思えてならなかった。なんらかの恐ろしい暗黒を孕み、人々を狂わす禁忌を無謀にも明らかにしようとしているのではないか、と。

 そして複写作業を進めながら、一輝はどうしてもそれらを読むのを止められなくなっていた。文章は進むごとに真に迫るような魔力めいたものを持ち、語り部の強い意志、訴えがことごとく心底を揺さぶってくるのだ。

 戦慄し、悪寒が走るほど恐ろしくなっていた。たとえ筆写であろうと、この文字列を書くということ自体が冒涜的で禁忌なことではないかと思えてならない。ただ、それでも時折手を止めてしまうくらいで留まり、最後まで写し取ることが出来たのは他でもなく、一輝もかつての葵と同様にこうしたオカルトに対して懐疑的な考えを持ち、理性を保つ現実主義の脳によって「こんなものはただの創作でしかない」と胸中で繰り返し呟き続けたおかげだった。

 こうして狂おしい空想に引きずり込まれることなく無事に作業を終えることが出来た頃には、既に数時間が経過していた――もっともそれでも早い方だろう。一輝は物語が短編であったことに感謝した。もっと長く綴られていれば……これを正常な精神状態のままで完遂出来たかどうかわからない。

 一輝は我知らず荒くなっている呼吸を落ち着けながら恐る恐る本を閉じ、元の書架にそっと戻した。最初はなんとも思わなかった背表紙が妙な威圧感を持ち、肌を粟立たせてくる。そこから逃げるように書庫を後にすると、既に貸出処理を終えている指定された他の本を持ち、早足に図書館を後にした。

 夕暮れに染まる森のような並木道は、恐怖に支配された今の一輝には美しいとは到底思えず、甘い草花の香りでさえも、自分を深淵へ引き込もうとする罠のように感じ、間もなくやって来る暗闇を恐れ、背中にぴったりと張り付く視線を感じる妄想に囚われ、足を速くさせる要因としかならなかった。

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