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彼女の声を聞くことが出来たのは、翌日の土曜日になってからだった。葵はあのまま家に帰らずどこかで外泊したらしく、それを彼女の母親から聞き心配して朝早くに電話をかけた時、一輝が何かを言うよりも早く「丁度よかった」と言ってきた。
「私は今から、いくつか調べ物をしなければいけません。そして本来であれば、それは私ひとりでやらなければいけないのですが……今は時間がありません。ですから、あなたに協力してほしいんです」
「調べ物?」
葵は全く歓喜していたというわけではなく、言葉通り渋々、やむを得ずといった声音だった。そうした切迫感は電話越しにも伝わり、焦燥に顔を険しくしている葵の様子が容易に想像出来てしまう。
一輝はその迫力に圧され、「それはいいけど」と頷いた。しかし葵がそこで電話を切ろうとしているのを察して、慌てて引き止める。
「待ってくれ、葵。お前、昨日から――いや、それより前からだって様子がおかしいぞ。何があったのか聞かせてほしい。お前は……何をしようとしてるんだ?」
「……話すことは出来ません」
逡巡ではなく、苦痛や恐怖に耐えるような間を置いてから、彼女はそう告げてきた。
「正確に言えば不可能ではありません。ですがそうしたところで無意味でしょう。彼らは間違いなく狂人ですが、狂っているというだけで捕らえることは出来ません」
「どういうことだ? 何の話をしているんだ、葵?」
全く理解出来ず聞き返すも、葵は構わずに続ける。拒否のように、小さく首を横に振ったらしいことがわかる。
「彼らの恐るべき性質を示す証拠は未だ掴めていない。望む結果を得るためには……生きるためには、それを見つけなければならないんです」
そこまで語ると彼女は、調べる内容はメールで送ると付け加え、一方的に電話を切った。
「……本当に、なんなんだ?」
ツーツーという話中音を空しく聞きながら、もはや相手には届かない呟きを漏らす。
食い下がってもう一度電話をかけてみても意味はなく、葵がそれを取ることはなかった。その代わりとばかりにメールが着て、どこで何を調べなければならないのかという指示が仔細に書かれているようだった。
一輝は昨日に引き続きどうすることも出来ず、肩と一緒にため息を落とした。目的を明確に教えるまでは手伝わないと強硬な手段を取ることも出来なくはなかったが――ひょっとしたら学校新聞についてかもしれず、締め切りに間に合わせるためには確かに時間がない。まだ早朝ではあるが、取材をして記事を書き、それを紙面に入れ込むという作業を行うには時間を要する。
結局のところ、手伝いをしてから聞くということ以外に道はなかった。
「その分だけ後で説教したり、何か奢ってもらったりしないとな」
それで自分を納得させて、一輝は指示通りの場所へ向かった。
もっともそこは一輝の住む牧之原市内ではなく、単純な距離にすれば四〇キロほど離れた、静岡市内にある。バスや電車を乗り継ぎ、ちょっとした小旅行のような心地でようやく辿り着いたのは――静岡大学附属図書館だった。
深く長いトンネルのような並木道を進んだ先にようやく頭を見せるそこは、館の周囲にも多くの緑が配置され、森の中にそびえるような荘厳な雰囲気を醸し出している。といっても館自体の外観は直線の多い無機質的なもので、何に似ているかと言われれば豆腐だろう。
入り口前の案内看板によると、この建物は三階建て、正確には地下も含めて五階層になっているようだった。見上げれば、実際の高さはさほどでもないが横幅が広く、県全体でもかなり大きな図書館だろうと思える。昨日一輝が訪れたこじんまりとした申し訳程度の図書館と比較すれば、一フロアだけでも数倍に相当するはずだ。
一輝は普段見ることのない巨大さにやや気圧されながら、館内に入っていった。ホールを通り過ぎ、内部案内の看板で目当てのフロアを探す。しかし見てみると書庫の数は膨大であり、どうやら一〇近くに分類され、ぎっしりと敷き詰められているらしい。葵がわざわざ遠出をさせてまでこの図書館を指定したのも、こうした蔵書量を見込んのことに違いなかった。
一輝はそれらの中から特定の本を見つけ出すため、改めて葵から送られてきた指示内容に目を通した――その時になってようやく、不可解なことに気が付く。葵は確かに調べるべき本、さらにはそこで写しを取るべき内容についても明確に指示していたのだが……そこに並ぶ単語のどれもが、今までの葵からは想像もつかないような、おぞましく禍々しいものばかりだった。
羅列されたタイトルだけを眺めてみても、世界の奥地に隠された非人道的な風習の存在を明かす『禁呪目録』や、ニコラ・レミの『悪魔崇拝』などをはじめとする魔女狩りに関する書物など、邪教や儀式を取り扱っていると思われるものはマシな方で、『深淵の刻における肉の蘇生』、『怪異異人伝』、あるいは明治期に邪術を偏愛し殺人鬼に身を落とした柳董克の著作のような、呪わしいオカルト書までもが並んでいる。
マシな部類に関して言えば――葵は少なからず宗教に関して取材することや、それを記事にすることへの困難さを理解していたため、不用意に立ち入らないよう調べておくのだろうと考えることができる
しかし続くオカルト書の数々を見れば……彼女がなんらかの好ましくない趣向に傾き始めていると勘繰ってしまったとしても、責められるべきではないだろう。少なくとも一輝が知る限りの葵は日頃から現実主義であり、超自然的な事柄について懐疑的な立場を取っていたのだから。
とはいえ、それでもここで放棄するわけにはいかなかった。連絡が取れないためやむを得ない。一輝はこの図書館へ来る道中でも何度かメールを送り、電話をかけてみたが、どれも無視されていた。ならば今は彼女の依頼を完遂させ、その成果を渡す際に注意を促す方がいいだろう。
一輝はそう考えて、渋々ながら指示通りに本を探していった。といっても、見つけること自体はそう難しいものでもなく、一度は膨大な書架を無視して閲覧室をメインとした二階へ上がり、そこに設けられたブラウジングコーナーで蔵書を検索するだけだった。ただ、葵は希少性を度外視していたためか、所蔵されていないタイトルも多く見受けられた。その大半は海外のものであり、日本語翻訳版が存在しないか、発行部数が余りにも少ないためか、あるいはその両方だった。
それでも辛うじて見つけられた稀覯書を求め、図書館の地下二階にある貴重書籍を丁重に取り扱う書庫へ向かった。