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風に運ばれてきたメモ用紙に綴られていた文章
今の自分には、全ての真実を語るだけの時間はない。ただこの一枚の紙切れが、英知持つ者の手に渡り、未知の邪悪を食い止めるために行動を起こす契機となることを祈る。
脅威は既に現実に染み出し、我々を恐るべき異世界へ誘おうとしている。
■1
稲葉家と望月家は、古くから交流のある家だった。
――都会とはかけ離れ、かといって田舎という言葉から連想される姿とも違う、半端な町である。
そういった町にありがちな、大通りから二本分ほど外れた奥まった住宅街。その車一台程度の細い道を挟んで向かい合う二階建ての木造家屋が、それぞれの家だ。
遠目には共に真新しく見えるが、近寄れば細部に歳月を感じさせる痛みが散見される。それくらいには長く、両家は向かい合っていた。
そこになんのいさかいも無かったことは、現在の関係から考えても歴然としている。
少なくとも両家の男女は、高校生になった現在でも子供の頃と同じ、気さくな交流を続けていた。恋人関係について聞かれても、お互い軽く笑って否定するほどに。
なればこそ。望月家の一人娘は稲葉家の玄関前に立って、その家の息子をひっそりと呼び出していた。年が明けてからまだ数時間も経っていないのだが、二人にしてみれば不思議なことではない。
「明けましておめでとうございます」
暁闇の青黒い空を背に、少女は玄関から顔を出した少年に頭を下げた。
……もっとも、実のところ少年は、暗闇のせいで相手の顔が見えなかった。ただ状況と、何よりも聞き慣れた彼女の、凛とした透き通る声によって理解出来た。
そして理解したおかげで、寝ぼけ眼をさらにげんなりと細めてうめく。
「本当に行くのか?」
「当然です」
それを証明するように、少女は両腕を広げて自分の格好を示した。
青く見えるが、恐らくは灰色なのだろう厚手のコート。スカート状になっていて、脚は黒いタイツに包まれている。肩にかけている水筒の中身は温かい緑茶らしい。
「軽食もありますよ。早起きして作ったんです。わざわざ」
「そこを強調しなくても」
「眠いようなら、目覚めのキスでもしましょうか?」
「……わかった、行くよ」
冗談めかす少女に降参する形で両手を上げる。少年は準備すると言って顔を引っ込め……
数分ほどでそれを終えて再び姿を現した。そもそも最初から準備していたということはあえて告げなかったが、少女はそれを最初から了解しているように、満足そうな笑みを浮かべた。
なんにせよ、二人並んで自転車を走らせる。家は比較的海に近い立地だったが、だからこそ山の上でというのが少女の主張だった。もっとも、登山をするわけではないが。
海に背を向け、四〇分ほどペダルを漕いで起伏の激しい道を進むとY字路に突き当たる。
上るか下るかに分かれる二択のうち、少女は迷うことなく上り坂を駆け上がっていった。男も渋々とそれに続く。
そうしながら少年は、申し訳程度のガードレール越しに、下る道の方に目を向けた――そちらを一〇分ほど進んだ山間の奥には、橋山村という村落があるらしい。
そこへ続く曲がりくねった細道が、一本だけ立つ切れかけの街灯に照らされて、暗く浮かび上がっている。夜露に濡れる濃密な草葉の臭いは、いかにも不気味な想像をかきたてたが……なんの罪もなく平穏に暮らしている住民に失礼だと思い直した。
しかしその頃には、村側の景色を見下ろすことは出来なくなっていた。山の中に鬱蒼と生い茂る木々が壁となって道の左右両面を塞いでいる。
見えるのは、自転車で上りきるにはきつい角度になってきた道路くらいだった――あとは坂に屈せず、大きな白い息を吐きながら懸命に立ち漕ぎを続ける、少女の後姿か。
男はさっさと自転車を降りていた。歩くよりも遅くなった少女を、適当に応援しながら路側帯を進んでいる。
その甲斐なく彼女が力尽きようかという直前、ようやく急勾配が終わりを迎えた。
そこは山頂――と呼ぶには単なる道路でしかなかった。しかしまあ、それ以上に上り坂はないため、そう呼ぶ他にないだろう。
連なる山の上部を水平に切り取って舗装したような、うねりながら伸びるアスファルト。その上を、今度は快適に進んでいく。
少女は果てしない徒労から解放された喜びのおかげか、上機嫌な鼻歌を聞かせていた。視界の両端には相変わらず背の高い木々の頭に覆われ、不気味だったが。
しばらくして少女がブレーキを握ったのは、なんということもない、長く続く道路の中腹だった。
「さあ、着きましたよ。学校の帰りに見つけておいた穴場です」
そう言って自転車を降り、指を差す。
そこは唯一、畑のために一部分だけ森が切り開かれているようだった。そのおかげで町から海までをも見下ろすことが出来る、ある種の展望スポットとなっている。
左右には相変わらず木が茂っているものの、それがカメラのフレームのような役割を果たし、どこか現実離れした印象を作り出していた。
「こりゃ、確かに丁度いいかもな」
そうでしょうと得意げな少女が差し出してくるお茶を飲み、少年は薄青い世界に白い雲を作り出した。
そうしながら、目的の時間がやって来るのを待つ。少女も同じようにしながら自転車のサドルに腰を降ろし、海を見下ろしていた。
なんとなしに感じる荘厳な気配を壊さぬよう、お互いに言葉は交わさなかった。しかし密かに、どちらの方が長い雲を作り出せるかなどと息を吐き合っていると……
やがて世界はざらつく青色を返上し、正しい色彩を見せ始めた。
最初に感じられたのは赤色だった。そこから少しずつ黄色く、そして爆発するような白光が、海の先から染み出してくる。
二人はしばし、その様子に見入っていた。影が溶け、光差すその光景を、無言の感嘆と共に眺め続けて……そのうち少女が少年を肘でつつくと、二人一緒に新年最初の太陽に手を合わせた。
少年はいくつかの願い事を胸中で念じて、顔を上げる。
隣を見ると、少女の方はまだ目を閉じて拝んでいる最中だった。彼女の横顔は、もうハッキリと判別することが出来る。思わず見惚れてしまう横顔――
その視線を感じたのか、少女はゆっくりと目を開いた。
「願い事、出来ましたか?」
「まあ、な」
横目で少年の方を見やり、どこか挑発的に笑いかけてくる少女。
少年は視線を逸らしながら、素っ気無く答えた。
「内容は言わないけどな」
「言ったところで、叶うかどうかは自分次第ですよ?」
「そういうところは現実的なくせに、初日の出を見ようとか言い出すんだよな」
「私の場合、願いではなく誓いですから」
それを聞いて少年が思い出すのは、去年の同じ日のことだった。書き初めをしようと言い出し、少女が書いたもの。
ついでに言えば、一昨年は初詣でそれと同じ言葉を聞いた――いや、思い出せる限り女は新年になると必ずそれを言っているし、そうでない日も折に触れて同じ宣言をしていた。
――『世界を揺るがす特ダネ記事を書く』と。
「ピューリッツァー賞の授賞式には同席させてあげますよ」
「そりゃどうも」
少女は半ば冗談めかして、逆に言えば半分は本気でそう言いながら、「それを足がかりに新たな新聞社を立ち上げましょう。あなたも雇ってあげますから、安心してください」と付け加えた。
それもまた、何度も聞いた将来の展望だった。
もっとも少年は、それ自体には後ろ向きだったのだが――少女と同じ職場で働くというのは、日の出に向けた願いでもあった。
凪が緩やかに二人の身体を包み、気温とは別種のほのかな温かさを感じさせる。
それは紛れもなく、平和な一年の訪れを暗示するものだったはずだ。
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