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お題掌編

掌編――ぐい飲み

作者: と〜や

別館ブログへの転載が2009年なので、初版に近い形態のままです。

(修正版を見つけ次第更新いたします)

 その家に行ったのは、雑誌の取材で一度きりだった。

 青山先生、と呼んでいたと記憶している。当時私は編集部に入りたてだったし、あまり文芸書には興味がなかったから本や著者に関しても詳しくなかった。ただ、カメラで食える職業を探して知り合いから紹介された新聞社の編集職に飛びついただけだった。報道カメラマン、なんてものにあこがれていた部分は若干ある。だが、私が配属されたのは文芸誌の編集部だった。

 幸いなのは、一度何か書いてみろと言われて提出したものをみて、編集長が私に文章を書かせることを諦めてくれたことだろう。文章を書くのがなにより苦手だったので、渡りに船だった。締め切りまでにこれこれの文章を仕上げなければならない、というプレッシャーからは解放された。

 以来、原稿の催促やら受け取りの使いっぱしりか、対談記事のためのカメラマンとしてかりだされるかのどちらかで、社内にいるときには校正刷りのチェックや電話番といった、内勤の女の子と大して変わらない仕事しかしていない。

 そんな私をインタビュアーに指名してきたのが青山先生だった。

 青山先生とはほとんど面識がない。もしかしたら原稿の受け取りにお邪魔したことぐらいはあるのかもしれないが、なぜ私を指名してきたのか、まったくわからなかった。

 先生は仕立てのよい上品な和服姿で、もう半ば白い胡麻塩頭をきっちりと七三分けにしていた。原稿用紙のおかれた黒檀の机の前に座り、使い込まれた万年筆を手にして、ずり落ちてくる丸い眼鏡を気にも留めず、一心不乱に書く姿を雑誌で見た人も少なからずいるだろう。あの写真はあの日、私がフィルムに収めたものだ。

 締め切り明けの日だったから、先生は上機嫌で、雑誌用のポーズを注文しても快く承諾してくれたのを覚えている。雑誌ではまじめに原稿に向かっているように見えるが、先生は実に楽しげに応じてくれ、何度か顔が緩んでいるのを引き締めてもらったほどだ。

 写真撮影が終わって、家の中を案内された。庭付きの日本家屋は年代物で、聞けば生まれたときから住んでいる家だという。黒い柱に掛けられた古めかしい柱時計の時を告げる鐘が、私には新鮮に感じられた。

 居間に戻り、編集の準備してきた質問集をあらかた終えたのは、もう日が暮れかける頃だった。当たり前のように食事と床の準備がされていて、「泊まっていくだろう?」とうれしそうに先生に言われては断ることもできない。電話をお借りして編集に連絡を入れると、編集長は渋々ながらも許可をくれた。その代わり月曜日までにインタビューの内容を文章におこせと言う。テープから文章を起こすのは大して苦ではない。何もないところから文章を書けと言われるよりよほど楽だ。

 泊まれることを告げると先生は大層喜び、早速一献勧められた。折りしも満月の頃で、縁側のガラス戸を開けっ放して月見酒としゃれ込むことにした。先生は部屋の明かりを全部消してしまわれて、部屋に差し込む青白い月の光だけを頼りに酒を酌み交わす。庭にはなんという花なのかよく知らないが白い花が咲いていて、なんとも不思議な世界にいるような気がした。月を見、酒を飲む以外、喋ることすらもはばかられて、二人してじっと月を眺めては杯を空けた。

 何杯目だったろうか。先生にお酌をしたとき、私のカットグラスとは違う、いびつなぐい飲みを使っていることに気がついた。月の光の元では正確な色はわからなかったが、どちらかというと黒かった。もしかすると赤土のぐい飲みだったかもしれない。釉薬もかかっていない素焼きのようで、素人目には工業製品でないことぐらいしかわからい。骨董や陶器にもまったくうとい私には、茶器と同じく古い逸品物なのかな、程度に考えていた。

 話が途切れて、ふとそれを尋ねると、先生はしばらく私を見つめた後、大事そうにぐいのみを両手で包み込んだ。

「価値はつけられないね」

 それだけ言い、とびきり穏やかな微笑みを浮かべた。その日一日見てきた先生の表情の中では、一番やさしい笑顔だった、と今ならそう言える。だが、当時の私にはわからなかった。よほど高いものなのだろう、とそれ以上聞くことはなかった。


 翌日早々に屋敷を辞し、ごみごみした東京に戻って来ると、昨日の月見が嘘のような日々が待っていた。編集長にいやみを言われつつもテープ起こしをした原稿を上げ、写真を現像して提出したあとはきれいさっぱり忘れてしまった。

 電話番、カメラマン、使いっぱしり、と雑務に追われてあの日のことを思い出さなくなった頃だったろうか。先生の訃報を聞いたのは。

 担当編集と編集長と、それからなぜか私も通夜に連れて行かれた。いやまあ、忙しくなければおそらく、自分から列席したい、と申し出ていただろうとは思う。一宿一飯という言葉があてはまるかどうかはわからないが、お世話になったのは間違いないのだから。

 二人で酒を酌み交わしたあの部屋の奥に、先生は眠っていた。

 庭で立ち尽くしていると、老婦人に声を掛けられた。あの日、お世話になった家政婦さんだった。顔を覚えてくれていたのだろう。お悔やみを述べると、家政婦さんは手にしていた新聞紙の包みを私に差し出してきた。

「先生のご遺言なんです。受け取ってあげてください」

 闇雲にお断りしようとしていた私は、その言葉を聞いて押し頂いた。隣で見ていた編集長は変な顔をしたが、何も言わなかった。なんだかその場で開けることをはばかられてそのまま喪服のポケットにしまいこみ、通夜を終えた。

 駅に向かうタクシーの中で開いたそれは、あのぐい飲みだった。不思議な月夜を共有したえにしの記念だったのだろうか。案の定赤土で練られ、釉薬もなにもかかっていない素焼きのぐい飲みだ。手でこねたのだろう、小さな手のあとが残っている。

 こんなのを昔、作った覚えがあった。小学生の頃、どこにでもよくある、みやげ物屋の体験陶芸工房だったろうか。うまくできずにただの土くれに戻ってしまったのが悔しくて、大泣きした。工房の人が優しく手ほどきをしてくれ、新しい土もくれてなんとか形のあるものに仕上げてくれたように記憶している。その後、その時に作ったはずのものがどうなったか、まったく覚えていない。何を作ったのか、すら忘れ去っている。今の今まで思い出さなかったが、ああいう陶芸などの体験工房を見るといやな気分になるのは、あのときのトラウマだったのだろう。

 何気なくぐい飲みの底を眺めて、私は息を飲んだ。

 底には下手なひらがなで「たのくらふうた」と刻んであったのだ。

 私の名前。

「先生には黙っておいてくれって言われたんだけどな」

 隣で見ていた編集長が、ぽつりと言った。

「お前のお袋さん、お前が生まれてからすぐに離婚してるだろ。その時に離婚したのが青山先生なんだと。そのぐい飲みの話はよく聞かされたよ。お前のお袋さんが、先生が当時働いていた工房にお前を連れて行ったんだそうだ。大泣きしているお前を見て、会いたくないから泣いているのだと思った、と言っておられたよ」

 あのときの微笑みは息子に対する微笑、あの目は息子を見守る目。それならば、価値なんてつけられるはずがない。

「編集長、すみません」

 振り向くと、編集長はうなずいた。タクシーを止めさせて、編集長と担当編集は降り、そのまま私はタクシーで屋敷に取って返した。

 息子として、なんて立派なものじゃなかった。父親、といわれてピンと来る年齢でもない。

 ただ、あの夜を共有した者として、最後まで見届けるのが自分の役目のような気がした。このぐい飲みを託された者として。それを、先生は期待しているのだろう。そう、あの時の私は確信していた。


 ぐい飲みならそれ、そこにある。

 月の良い日はあの日と同じように縁側を開け放して、明かりをすべて消してね。

 親父と二人で酒を酌み交わすために使っているよ。最近は息子が乱入してきて使っている。こうして、物も記憶も、受け継がれていくのかもしれないね。

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