三話 星野優
「そんじゃ今日はここまで。寄り道せずに帰れよ」
言った途端に退室。やる気のない担任教師主導のショートホームルームは二分足らずで終了し、解散する運びとなった。
廊下の様子を見てもおそらくここまで早いのはうちのクラスだけのようだ。
「おい、購買部行こうぜ! 今なら残ったおにぎり買えるんじゃねえか?」
「うは、お前頭良すぎじゃね!」
頭の軽そうな発言は野球部の連中だ。ユニフォームやら用具やらが詰め込まれた重そうなクラブバッグを軽々と担ぐと、少しばかり値引きされた昼の残りのおにぎりを求めて、坊主頭たちは軽やかな足取りで教室前の階段を駆け下りていく。
やっぱり早めに終わるとみんな表情が明るいな。
飛び出していった野球部の連中とは対照的に、教室に残るクラスメイトも多い。教室内を見回すと笑顔が多く見えた。
そして聞こえてくる話題といえば、土日をまたいだというのに、相変わらず新生徒会長こと八木沼梨沙についてがもっぱらだった。
とはいっても運営能力うんぬんよりも端麗な容姿についての感想や、恋人の有無を勘ぐるようなゴシップについてが大半であるが。
「よーし、俺らも部室行くぞ!」
早めの終業に浮かれる玲也。
手のひらでクルクルとドラムスティックを回し、溢れんばかりのバイタリティだ。
バンドを立ち上げたのは玲也だが、意外にも担当するのはボーカルやギターといった花形でなく、ドラムパートなのだ。演奏になると引き立て役としてしっかりと音を作ってくれるし、いざ盛り上げどころになれば玲也らしく前に出てきて沸かせてくれる。
普段はお調子者だが、ライブが始まれば頼れる存在だ。
「そうだな。といってもおれたちしかいないんじゃ練習始められないけどな」
*
「あれ? 誰かいるぞ」
真っ直ぐに部活に来たおれたちだが、既に擦りガラス越しに明かりが浮かんでいた。どうやら防音設備付きの部室には先客がいたらしい。
ちなみに部室は西側が開いたコの字型の校舎の北館三階、旧音楽室を使用している。今や隣の新音楽室の物置と化しているため、練習に使用できる面積は決して広くない。それでも手狭ではないだけマシか。
またそれだけ学校の備品が多いということで鍵の管理は職員室で厳重に行われているはずなのだが、どこからくすねてきたのか玲也は合鍵を所持している。
今やその合鍵は街の鍵屋の手によって三本にまで増え、玲也と他のバンドメンバー二人の手にある。
「ま、どうせいるのは優だろ」
学校の設備にしては珍しい開き戸を開ける。
定位置であるキーボード用の椅子にちょこんと腰を下ろしていた小柄な少女は俺らを一瞥したが、すぐさま手元の文庫本に視線を戻した。
「ほら、やっぱり優だろ」
「……れーや、うるさい」
誰がいたかということよりも、言い立てたことに満足している玲也。そんな彼にムッとしたのか、ポツリと舌足らずな反論が聞こえてきた。
百五十センチに満たない短駆も相まって、それが子どもじみて可愛らしく思えた。
と、そこまできて自主規制。さもなくばブーメランで自爆するところだった。
まあ、まだおれらは高校一年生だし、これから背が伸びるはずだ。うん、そうに違いない。
彼女は星野優。
おれたちと同じ桜明大學附属高校一年生で、バンドではキーボードパートを務める。
ある日突然玲也が「即戦力だぞ!」と言いながら連れてきて以来の付き合いだ。
小さい時にピアノを習っていたらしく、実際にキーボードの腕前は即戦力級。ちなみに小さいというのは彼女にとって禁句だ。
「やあ、優。早いね」
「うん。サボってきた」
いきなりの爆弾発言。と言ってみたもののもおれたちには最早おなじみになりつつあるフレーズだった。
目の前の寡黙な少女は素行こそあれだが、成績においては優等生というだけでは物足りないくらいだ。先日の中間テストでは全教科で学年一ケタ順位。授業料が免除されている特待生なのだ。
サボり常習犯といえるほど授業を抜け出しては、保健室で寝ていたり、部室で本を読んでいたりするのにも関わらず、テストだけは人並み以上の結果を残している。凡人のおれからすれば、うらやましい限りだ。
おそらくサボってきた理由は、現在進行形で読んでいる文庫本の続きが気になったとかそんな感じだろう。
「何の小説?」
「む……ラノベ」
読書に対して雑食系を公言する彼女は、ブックカバーをわざわざ外して、見せつけるように表紙を向けてくる。残念ながらおれにはその作品がどんなものなのかはわからなかったが、自己主張をあまりしない彼女にしては珍しい行動だった。
きっと面白い作品なんだろうなと思った。
「それで玲也どうする? 結局三人だけだと練習できないぞ」
「ふっふっふ。そこら辺は俺も考えてある」
意味深な薄ら笑い。わざとらしく眼鏡を上げる動作をしてみせるが、生憎玲也は眼鏡などかけてはいない。
ただ良からぬことを考えているのは理解できた。
「ほら、陣。こいつを頼んだ」
言うが早いかスクールバッグから取り出した一枚の用紙がおれの手元に差し出される。
「『桜明フェス参加用紙』……?」
でかでかと印字されているタイトルから察するに、学園祭の出し物への申請用紙といったところか。
申し訳程度に申請グループの欄にバンド名である『フィサリス』と代表者氏名として『八木玲也』の名前が記入されているが、それ以外の欄は空白のままだった。
「……これを書いて出しに行けってことか」
「さっすが陣。よくわかってんじゃん!」
全員が揃うまで事務仕事で場繋ぎってどうなのだろう。
一瞬こいつを代表者にしておいていいのかという疑問が過ったが、お祭り男の玲也のことだからデスクワークから実務になれば、精力的に動いてくれるだろう。たぶん。うん。
「言っとくけど別にサボってたわけじゃないぜ? 生徒会選挙が終わってから受け付け開始ってことだったんだよ。ついでにいうと提出場所は生徒会本部な」
玲也がちらりとサボり常習犯に視線が向けるが、当の本人は文庫本の活字に没頭して、気にする様子はない。
別にこういう事務手続きを手伝ってくれるタイプでもないし、どっちでもいいんだけど。
それにしても生徒会も大変だな。発足と同時に学園祭という大仕事。
一応、桜明祭運営委員会っていう別組織がメインとして動くらしいけど、それでもバックアップとして、何もしないというわけにはいかないんだろう。しかも承認権は生徒会長にあるとか、責任だけは無駄に重そうだ。
「はいはい。言い訳はいいから。さっさと書いて持っていくぞ」
そう言って玲也から奪ったペンを手に、申請用紙と向かい合う。
ふと。不意に八木沼梨沙の顔が浮かんだ。
演説の時に目が合ったと思ったのは気のせいだったのだろうか。
思い返せば、おれと彼女は今朝まで話したこともなかったのだ。有名人である彼女のことをおれは知らなかったし、向こうがおれのことをわざわざ意識する理由などない。
うん。だからたぶん二人の目が合ったのは偶然だったんだろう。彼女がおれの方を向いたのも偶然。堪え切れなくなって笑ったのも偶然。色々な偶然が重なって、結果的におれに見せつけるような格好になっただけなのだ。
そう結論付ける。
そもそもあれだけの美少女がおれだけに特別を見せてくるはずがないのだ。
そう考えると肩の荷が下りたようなホッとした気持ちが半分、なんともいえないモヤモヤが半分という微妙な感情が拮抗し、おれを埋めていく。
いかんいかん。今はさっさとこれを終わらせないとな。
雑念を振り払う代わりに、八割方空白だった用紙を手際よく埋めていった。