一話 『人形師』クラフト-2
「ふぅっ……」
CCCの中から抜け出して、クラフトは大きく息をつく。
その途端、今まで無意識に抑制されていた各種欲求が盛大に訴えかけ、彼はふらつく頭を押さえた。
ドラゴンとの戦いの直後、クラフトは歓声をあげる人々から逃げるようにしてこちらへと戻ってきた。あまり他人の相手をするのが好きではない性分もあるが、ここ三日ほど不眠不休でアゼルを仕上げていて、ロクに食事もとっていないのを思い出したからでもある。
「アゼル」
『はい、クラフト』
呼びかければ、地面に転がる投射装置からアゼルの姿が浮かび上がった。
こちらの世界……現実においては、それはただの立体映像に過ぎない。しかし、精魂込めて作り上げた彼女の姿に、殺風景な部屋は一気に華やいだ。
「悪い、飯にしてくれ」
『了解しました』
CC……サーキュラー・コンスタントと呼ばれる仮想世界上に作られた人工意識である彼女は、現実空間では物理的な能力を持たない。しかし、ローカルネットワークを通じて家電製品を操ることは出来た。
自動調理機がジリジリと音を立て、良い匂いがクラフトの鼻腔をくすぐる。彼は眠ってしまわないように椅子に浅く腰掛けながら、料理が出来上がるのを待った。
やがて電子音で音楽が鳴り、クラフトは調理機の扉を開ける。そしてあまり美味いとは言えない焼き飯を、スプーンでガツガツと頬張り始めた。
『クラフト』
「うん?」
不意に、アゼルが彼の名を呼ぶ。
こちらの世界で彼女の方から話しかけてくるのは初めての事だった。
『私も、それをできますか』
「……食事のことか?」
『はい』
彼女の姿自体は立体映像で見えてはいるが、アゼルはこちらの世界を見ることは出来ない。だが、音で判断したのだろう。義体を与えたことで、好奇心が彼女の中に芽生えたのだ。
「お前には食事は必要ない。睡眠もな。これが必要なのは、こちらに生きる不便な人間だけだ」
『そうですか……』
アゼルはうなだれ、残念そうに声をあげる。
この豊かな感情表現も変わったことの一つだ。
指輪でしかなかった頃の彼女は、感情というものを殆ど声に含ませなかった。
「だが、それは必要ないというだけだ。食事自体は出来る。こっちよりもよほど美味い物を、好きなだけな」
『ほんとうですか!』
ぱあ、とアゼルは笑顔を浮かべる。
「ああ。明日、いくらでも食わせてやる……ふあぁ」
言って食器を食洗機に放り込み、クラフトは大きく欠伸をした。
食欲が満たされれば今度は睡眠欲だ。
「明日になったら起こしてくれ」
『わかりました』
アゼルの声を聞きながら、クラフトはベッドに潜り込む。
「おやすみ、アゼル」
『おやすみなさい、クラフト』
目を閉じれば、すぐに彼の意識は眠りに沈み込んだ。
人間の脳に直接信号を送り、仮想的な現実を作り出す技術。
ヴァーチャルリアリティという物が一般的になって久しい。
しかし、その技術が成り立つより前から夢想され、期待されていたVRMMORPGというものはその殆どが流行らず、すぐに衰退していった。
理由はその、膨大なコストだ。
見た目は当然の事ながら、触り心地、重さ、温度、匂い、味に音、などなど。
小石一つとっても設定しなければならない項目は膨大なもので、とても人手で再現しきれるようなものではなかったのだ。
かといって、少しでも手を抜けばそれはすぐに凄まじい違和感となった。
特にその違和感は触感について顕著で、『VRの分厚い手袋』と表現された。VR世界で暮らすという事は、常に分厚い手袋を付けながら生活するようなものだ、と。
本のページをめくるのにも繊細なタッチを必要とされ、動物の毛並みのサラサラした感触は表現しきれず、人の肌の柔らかささえ感じられない。それは人間にとって、耐え難いストレスとなったのだ。
勿論その違和感は触覚だけに止まらず、視覚、聴覚、嗅覚、味覚にも及んだ。
VR以前の媒体……即ちTVやスピーカーと言った『原始的な』装置を用いている時には全く問題とならなかった部分が、VRにおいては大きな問題となる。
ありとあらゆるものを完全に再現しなければ、そこが強い違和感を放ってしまうのだ。
結局、そんなものを作るのは不可能だとされた。VR技術は一部の医療機器や特定の感覚のみを補助する物としてのみ使われ、フルダイブ式のVRというものは完全に廃れてしまったのだ。
――CCが誕生するまで。
サーキュラー・コンスタント。
『円周率』という意味の名で呼ばれるその仮想世界は、実際の所、文字通り円周率そのものだ。
3.141592……と続いていくその数字は無限でありながら、循環や偏りはなくランダムである。ランダムで無限に続くと言うことは、言い換えればありとあらゆる数列が含まれているという事だ。
例えば、生年月日のような八桁程度の数列であれば、小数点以下十億桁も探せば大抵は入っているという。より大きい数列でも、探す桁数を増やせばいずれ見つかる。
見つけられるのはただの数列だけではない。文章、音楽、映像、動画。大抵のものはデータ化し、数列に変換することができる。つまり十分な桁数を探せば、聖書の全文や世界中の名画など、ありとあらゆるものが円周率の中から見つかるのだ。
……そして、VR技術によって匂いや手触りといったものまでがデータ化できるようになった今、円周率の中には文字通りありとあらゆるものが存在すると言える。
発想の逆転である。人間にとって違和感のないデータを作り上げるのではなく、ありとあらゆるパターンの情報を用意しておいて、そこから人間の脳自体に違和感のないものを認識させる。
雲を見てその形をものに例える様に。夜空に浮かぶ星々から星座を連想する様に。
混沌から人間の脳が拾い上げた世界の欠片を、仮想の世界として構築するのがCCC……サーキュラー・コンスタント・コンバーター。
通称キューブと呼ばれる装置だった。
名前の通り立方体のその箱が搭乗者に見せる仮想世界は、円周率の具現。そこにあるものは誰かが作ったものではない。『ただあるだけ』の世界だ。つまりは、現実に限りなく近い。それは正しく、もう一つの世界だった。
故にそれはゲームではない。管理者はいるものの、運営者はいない。
様々な道具も、街並みも、無限に広がる大地さえ、0から参加者達が発見し作り上げたもう一つの世界。
それが、CCだ。
クラフトはそんな仮想世界で人形を作る事を生業にする、魔法使いの一人だった。