三話 『地図師』シルウェス-3
それから、八時間あまり。
ただただ無言で歩いて、歩いて、歩きつめて。
「ここまで」
シルウェスがようやく足を止めてそう言った瞬間、アゼルは膝を折り地面に手を突き、深く息を吐いた。八時間もの間会話もなくただただ歩き続けるのは、アゼルにとっても辛い行為だ。肉体的な疲労はないものの、精神的には非常に疲れる。
「何歩?」
「え?」
そんな疲労の中で投げかけられた短い問いに、アゼルは視線をあげる。
「何歩?」
その瞳を鋭く睨みながら、シルウェスは全く同じ抑揚で同じことを聞き返した。
少しして、アゼルは数えろと言われた歩数を聞かれたのだと気付く。
「ええと……96543歩です」
「違う。96588歩」
八時間もの間必死に数えたその数字は、あっさりと切り捨てられた。
この人はイジワルだ。アゼルはそう思った。
わかってるんならいちいち数えさせたり、尋ねたりする必要もないじゃないか。
「しっかし、久々に付き合ったけどさあ」
スレイから身を翻し、身体をぐっと伸ばしながらミケーネが言う。
「なにが楽しいの、これ?」
「洞穴の奥に引きこもってるよりはマシ」
「洞穴っていうな!ダンジョンと言いなさい。もしくは地下迷宮」
剣幕で言い返すミケーネにシルウェスは視線すら向けず、アゼルに紙とペンを手渡した。
「これは……?」
「地図。通ってきた道、書いて」
渡されたそれを手に、アゼルは戸惑う。
「よし、じゃあ基本的な書き方を――」
「余計な事はしないで」
困り果てたアゼルの顔を見て寄ってくるクラフトにも、鋭く釘をさした。
やっぱり、イジワルだ。
そう思いつつも、アゼルは悩みながらペンを走らせる。
「だいたいあたしだって単に引きこもってるだけじゃなくて、迷宮を広げてんの」
「一日に何百キロ?」
その間にもミケーネとシルウェスの言いあいは続いていた。
と言っても、ミケーネが一方的に文句を言い、シルウェスは殆ど相手にしないか冷たく言い返すだけだ。
「ただ歩くだけと、創造を一緒にしないで欲しいね」
「私も地図を作ってる」
その様子は、クラフトとミケーネの言いあいともまた異なる雰囲気だ。
この二人はどうやらあまり仲が良くないらしい、とアゼルは思う。
そんな二人のやりとりを横目で見つつ、心の中でこっそりミケーネを応援しながら、アゼルは何とか地図を完成させた。
「出来ました」
「全然駄目」
差し出されたそれを一瞥して、シルウェスはまたしてもばっさりと切り捨てる。
「この森はもっと手前にあった。ここに泉がない。この山はこんなに小さくない。私たちが通ってきた場所は道じゃない。草原はそれと分かる印をいれて」
アゼルの書いた地図に、どんどん朱が書き加えられていく。
「これが例」
シルウェスが示した地図は、簡潔でありながらも恐ろしく精微なものだった。
己の拙い地図とは比べものにならない美しさに、アゼルは羞恥と悔しさにしゅんとうなだれる。
「次は戦い方を教える」
そんな彼女に向かって、シルウェスは腕を向けて構えた。
「かかってきて」
アゼルは飛び上がり、彼女に相対する。
戦い方なら、クラフトにも誉められたのだ。
「コードキャスト、『炎の……」
「遅い」
魔術を発動するより早く、シルウェスの腕が蛇のようにするりと伸びる。
そう思った瞬間、くるりと視界が回った。
「え?」
アゼルが気付いたときには腕をシルウェスに掴まれて、地面に倒されていた。
「死んだ」
ひっくり返ったアゼルの喉元に、いつの間に手にしたやら木の枝を突きつけて、シルウェスはそう宣言する。
「……言い忘れてたが」
気まずげに、クラフトが口にするのが聞こえた。
「アゼル。そいつはこの世界で、最強の生き物だ」
パチパチと音を立て、炎の中の薪がはぜる。
「……もう少し、手加減してやれないか?」
そこに追加の枝を放り込みながら、クラフトはそう言った。
八時間の行脚の後、シルウェスは日が暮れるまでひたすらにアゼルを投げ飛ばし続けた。
腕をとり、足を払い、突進を避けては背を押して、何度も何度もアゼルは地面に転がされた。
すっかり疲れてしまったらしく、本来睡眠を必要としない彼女はクラフトの膝に頭を乗せてスヤスヤと寝息を立てている。ついでにミケーネも眠るためにログアウトしたから、今はクラフトとシルウェスの二人きりだ。
「え」
ややあって、シルウェスは目を見開いた。
「いや、お前なりに手加減してたのはわかるが」
彼女が本気を出していたら、踏破距離は軽く倍以上。
組み合いも、アゼルはロクに動くことも出来ずに破壊されてしまうはずだ。
「この子はまだ生まれて一週間くらいなんだ、こう見えても」
アゼルの髪を撫でながら、クラフトは言った。
「……もしかして」
じっとアゼルを見つめ、シルウェスは今ようやく気付いたというように口にする。
「嫌われた?」
「いや……そんなことは……ない、とはおもうが」
クラフトは言葉を濁した。
少なくとも彼の目から見て、あまり好いてはいないのは確かなことだ。
「そう」
短くそっけない返事は、どうでも良いと言わんばかりに聞こえる。
「安心したのか?」
しかし、そうではない事をクラフトは知っていた。
「ん」
シルウェスは素直に頷く。
「クラフトの子供に嫌われたくはない」
「そうか」
そのあまりに率直な答えに、どう反応して良いものかクラフトは悩んだ。
「だがそれならもう少し手心を加えてやっても……」
「出来ない」
「まあ、厳しくしなければ効果が低いというのは、理解しているが」
クラフトにも、自分がアゼルに対して甘いという自覚はあった。
もう少し厳しくしなければならないとは思うものの、彼女の顔を見るとついつい甘くしてしまう。
そこをシルウェスに補ってもらう形になって申し訳ないと思う反面、厳しすぎはしないかという思いもあった。
――全く持って度し難い。クラフトは自嘲気味に、心中で呟く。
「そうじゃない」
しかし、シルウェスは首を横に振った。
「どういう事だ?」
「したくない、ではなく、出来ない」
問い返すクラフトに、シルウェスは淡々とそう答える。
「……あれ以上手を抜く方法がわからないって事か」
シルウェスはこくりと頷いた。
口数の少ない彼女だが、その言葉には虚飾も欺瞞も一切ない。
彼女のいう事はいつだって額面通りだ。
「わかった。出来る限りのフォローはしよう」
「お願い」




