幕間 『名湯』ダンジョンの湯
ぴちょん、と水滴が湯船に落ちる音が響き渡る。
ミケーネのダンジョンの奥深く。彼女が普段居住区にしている階層の更に奥底。
自慢の大浴場で湯船に浸かりながら、彼女はだらだらと汗を流していた。
それは湯で温度が上がったことによる発汗ではない。心理的動揺による汗であった。
彼女の心が絶え間なく、焦りを発見して、汗という形で湧き上がってきているのだ。
「ふう……良い温度だな、ミケ」
その隣でやはり湯に浸かりながら、クラフトが大きく息を吐く。
更にその隣で、きゃっきゃとはしゃぐアゼルは実に可愛らしいが、それどころではない。
どうしてこうなった……ミケーネは心の底から、そう呟いた。
「とりあえず、これで良し……と」
ぐいと汗を拭い、クラフトは大きく息をついた。
アゼルの美しい髪は炎によって縮れ、その肌はところどころ火傷によって跡がついてしまっていた。それを、何とか修復したのだ。
アゼルの身体は人間同様普通に再生するが、万一火傷の痕でも残ってしまえば大変だ。クラフトは彼女を治療した後、大急ぎで義体の再生に入った。
「お疲れ。こっちも出来たよ」
ミケーネは鉱石から作った眼鏡を、アゼルにかけてやる。
「待て」
それをすぐさま、クラフトが取り上げた。
「コードキャスト、エディットモード」
濃紺の世界はほんの一瞬。
さらりと撫でるようにクラフトが指を瞬かせると、一瞬にして眼鏡のデザインが一新された。黒縁の武骨なデザインから、アンダーリムの洒落たデザインに。
下手にいじればミケーネがつけた魔術の効果も消えてしまう所だが、上手く形だけを変える腕前は流石のものだった。
「もう、目を開けていいですか?」
「ああ、構わないとも」
眼鏡をかけて、アゼルはぱちりと目を開いた。
余計なものを発見してしまわない為の道具。要するに、魔物を発生させる魔法を無効化する眼鏡だ。
ふむと唸った後、クラフトは手早くアゼルの髪を纏め、手元から布を取り出すと瞬時にリボンに形成して縛り上げた。
「よし、実によく似合うぞ」
「本当ですか?」
不安げに尋ねるアゼルに、クラフトは相好を崩して頷く。
今までそのまま伸ばしていた髪をポニーテールに纏め、眼鏡をかけた姿は知的美人と言った風情だ。
とは言え、それ以外は酷い有様だった。
肌は直し髪も整えたが、アゼルは体中煤だらけで服も焼け焦げ、ボロボロになっている。
「折角整えたけど、風呂に入った方がいいかもね」
「む……それもそうだな。傷を修復するのに集中して気付かなかった」
無から有を作り出せないのと同じ理由で、有を無にする事も出来ない。
魔法で傷は治せても炎から生まれた煤を消す事は出来ず、洗い流さなければならないのは現実と一緒だった。
「じゃ、先にあたしたち入ってくるね」
「待て」
当たり前の様にアゼルを連れて浴室へと向かおうとするミケーネの肩を、クラフトはがしりと掴んだ。
「何をどさくさに紛れて、一緒に入ろうとしてるんだ」
「どさくさって……いや、可哀想でしょ? こんなススだらけになっちゃって」
「それは勿論だ。だが、なんでお前も一緒に入る」
「そりゃあ、女同士だし」
「お前は男だろう」
ぐっとミケーネは言葉に詰まった。
「じゃあ何、クラフトが入れるっていうの?」
「当然だろう」
「何言ってんのさ、この変態!」
「変……変態だと!? 馬鹿を言うな。俺はアゼルの親だぞ」
「それを言うんだったら、あたしだってアゼルの親でしょ!」
今度はクラフトが言葉に詰まる番だった。
「だ、だが、アゼルの身体は俺が作ったんだ。当然、隅から隅まで熟知している。今更裸を見てどうこう言うものでもないが、お前は違うだろう」
「あたしだって見た目は女なんだから、問題ないでしょ!」
「いや、その理屈はおかしい……いや、そうでもないのか?」
「あの……良くわからないんですけど」
喧々諤々と言い合う二人に、おずおずとアゼルは口を挟む。
「私は、三人がいいです」
純粋無垢な言葉に、二人の親は口を噤んで顔を合わせた。
そして、話は冒頭に戻る。
湯船に深く身体を沈めながら、ミケーネはちらりと横目でクラフトを見つめた。
魔法使いではあるものの、彼の身体は意外とがっしりしている。
黒い髪に茶の瞳、上背はすらりとして、目つきはやや鋭い。
引き結んだ口元はいつも真一文字で、無愛想だが誰よりも優しい事を、ミケーネは知っている。
仮想義体だ。あれはアバターに過ぎない。
ミケーネは必死に自分にそう言い聞かせた。
アバターというのは、人間がCCで活動するにあたって作られた義体の一種だ。
基本的にはあらかじめ現実で測定した本人の情報を流用するので、その姿も本人同様。しかし、それを弄って体格や顔形を変えることも出来る。
というより、殆どの人間はそうしている。
多少の造形を変えるのは、一から作り出すのとは比べ物にならないほど簡単だ。
そしてそこに、一つの暗黙の了解があった。
現実とかけ離れた姿にする場合、髪と目の色も現実にはありえない色にする、というものだ。例えば、銀とか、青とか、三色メッシュだとか。
そんな髪の色をしている連中は大抵、現実とは全く違う姿をしている。髪の色だけを変えるという人間はあまりいない。
翻って、クラフトである。彼は黒い髪に茶の瞳をしている。
多少彫りは深いものの、顔立ちも典型的な日本人男性のものである。
あの姿はもしかして、現実そのままなのではないか。
ミケーネはそう思うのだ。そしてその考えに、彼女の頬はどんどん赤くなっていく。
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。
ミケーネは、過去の自分の言動を今までで一番後悔した。
彼女とクラフトが出会ったのは、もう何年も前の事だ。
その頃は互いに超一流などと呼ばれる御大層なものではなくて、駆け出しの魔法使い同士だった。
人間嫌いだったミケーネと、どこかピントのずれたクラフト。
変わり者同士意気投合し、友人となるのにそう時間はかからなかった。
何がきっかけになったのかは、もう覚えてない。
『あたし、本体は男なんだ』
その頃のミケーネは誰も信じていなかった。
だからつい、そう言ってしまったのだ。
そう言っても、クラフトのミケーネに対する態度は全く変わらなかった。
変わったのはこちらの方だ。
同性であることを盾に、冗談めかしてクラフトにモーションをかける。
クラフトは殊更冷たくそれを切って捨てる。
そんな関係が心地よくて。
――気付けば、実は女だなどとは言い出せなくなっていた。
「よし、アゼル。目をつぶれ」
ざばざばと音を立てて、クラフトはアゼルの髪を湯で洗い流す。
いつの間にか湯船から出て、親子は身体を洗っていた。
親子と言っても、アゼルの姿は完全に成人女性のそれだ。
どちらかと言えば睦まじい夫婦の様にすら見える。
「あああああんた、何やってんのー!」
思わず立ち上がり、ミケーネは叫んだ。
「何って、身体を洗ってやってるんだが」
突然叫びだしたミケーネに驚き、クラフトはこちらへと視線を向ける。
「こっち見るなあああ!」
突然開いた落とし穴に、クラフトの身体は真っ逆さまに落ちて行った。
 




