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森より程近い王城の隠し部屋の一つに御子と騎士団長はいた。有事には王家の避難に使われるその部屋はほこりこそあるもののしっかりした作りで内装も揃っていた。女官長が後宮の侍女長に指示を出し急遽整えられたそこに、御子と騎士団長はいた。
医師による怪我の手当てを拒んだ御子は薬のみ受け取ると自分でさっさと手当てをしあとはただぼんやりと座って獣を撫でている。獣どもが落ち着かず、御子も拒んだため今彼女の側にいるのは騎士団長のみであった。
「御子様、せめて何か口にしませんか」
団長はひどく慣れない手付きでお茶をいれて御子の前に置いたが、御子はまったく手をつけなかった。
「御子様……」
騎士団長は俯いて獣を撫でるばかりの彼女を痛ましいような目でみる。固く握られた拳の掌には潰れた爪が食い込んでいた。
騎士団長と御子は決定的に分かり合えない部分がある。いや、彼女は、この世界の誰とも分かり合えないのだ。彼女の立ち位置は、思考は、この世界の誰とも共有はできない。
騎士団長は平民からの成り上がりで剣の腕のみでのし上がった叩き上げの騎士であった。アバロン王国から始まった御子の旅には、腕を買われ護衛を務めた。
十年という歳月を団長は長いとは思わない。
邪神に苦しめられた長い期間を考えれば御子の旅の時間は短いと言える。だが、彼女にとっては永遠のように長い時間だったのではないだろうか。
団長は、国の政など明るくはない。元々は平民であったし頭の回転も速いとは言えない。しかし彼女の今の立場が非常に微妙であることはよくわかっていた。
今頃は国の上に立つ人間が彼女の今後について話し合っているはずである。団長は参加し出来る限り御子の立場を確立したかったが、この状態の彼女を放置することは出来なかった。
騎士団長にまでなって情けないことだと奥歯を噛みしめるが、団長は彼女にどう接すればいいのかがわからなかった。
御子は強い女性だった。村々で過ごす時は穏やかに笑い、道中は穢れた獣どもと苛烈に戦い、そして邪神を封印した。優しく強く美しく、まさに聖女というに相応しい女性だったのだ。
いま、部屋の隅でうなだれる彼女にその面影はない。
(私は今まで、彼女の何を見てきたのだろうか)
十年。御子とともに旅をした期間を、やはり団長は短いと思う。少なくとも、団長が彼女の信頼を得るには足らない期間だったのだ。
「御子様、お願いですからせめて水分だけでも」
凱旋からかれこれ半日、御子は何も口にしてはいない。騎士団長の差し出すお茶を御子はただ拒否していた。
騎士団長は根気強く御子にあれこれと進めてみたが、食事も果実も水分も拒否されつり上がり気味な眉をへにょりと下げて御子に近付く。獣に威嚇されたが、騎士団長は構わなかった。
「何か口にされませんと倒れてしまいますよ?」
膝を付き御子をのぞき込む。熊が小さな動物の巣穴を覗くような仕草はなかなかに見物であったが、騎士団長にとって幸か不幸かここにはそれを見て笑うものも和むものもいない。
団長はうつむいて喋らない御子を相手に懸命に言葉を紡いだ。彼にはそれしか出来ないからだ。他に何をどうすればいいのか検討もつかないからだ。
「御子様が私達を嫌いでも憎んでいても私達は……私は御子様が好きです。あなたに感謝しあなたに命を捧げると私は誓いました。御子様、どうか御身を守るために何か口に」
「……私の持ってる封呪の力は特別なものじゃないんだって」
騎士団長がずいぶん長くひとりで喋っている最中、御子はようやくと静かに口を開いた。
「来たばっかりの頃、夢の中で神様がそう言ってた」
「御子様……?」
自嘲するように小さく漏れた言葉を、騎士団長は聞き漏らさないよう性能の良い耳を澄ませる。
「びっくりした。私がいた所の神様は見えるものじゃなかったし、私も概念のひとつだと思ってた」
御子の故郷ではこの世界と違い明確に神として具現しているものはない。神を崇めても神の声を聞き神の力が世界に現象として現れることなど幻想のように扱われていた。
「神様の力ってさ、強すぎるんだって。神様の力が溶け込んで馴染んだこの世界は、神様の指先次第で簡単に壊れちゃうの」
神は世界をその奇跡という御力で創り出す。神の御力で構成されたその世界は隅々にまで創世神の力が宿るのだ。それそこ塵ひとつにも。
だからこそ、神の力は神の創りし世界に多大なる影響を及ぼす。
創世の奇跡が終われば神は大地、空、海を見守るだけなのだ。見守ることしか出来ないといってもいい。世界はけして脆くはないが、神の力は神の愛し子達を優しく蝕んでしまう。
「でもね、違う神様の力が溶け込んでる世界の人は、その神様の力に守られて干渉を受けにくいんだって、そう言われた」
だから御子が呼ばれた。隣り合うが次元の違う、異世界よりこの世界の未来を憂う天空神によって。
「……ここに居るのは、別に私じゃなくても良かったのよ。違う世界の誰でも良かった。この世界の人じゃなければ邪神に対抗する封呪の力があった」
そう、天空神は言ったのだ。御子の故郷の誰もが御子であり、御子は御子でなくともよかった。ただ彼女はその日、その時囚われてしまっただけなのだ。
「じゃあ私ってなんなの?」
御子の細い指が持ち上げられ、自身の顔を覆い隠した。彼女はまるで脅えるように小さくなり、薄く開かれた愛らしい唇から底冷えのする声をあげる。
「私じゃなくても良かったのなら、ここにいる私はなんなの?」
「御子……様……」
「もっと特別な力なら良かった」
指の隙間から見えた彼女の瞳に騎士団長は思わず背筋を凍らせる。暗い、光など存在しないのだというような彼女の黒い瞳はどこも見てはいない。
「そうだったら、私は……」
呟いた御子の声が、ただ温度もなく部屋へ静かに響いた。