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清廉の間には言い知れぬ虚脱感が溢れていた。粉々に砕けたベッドと窓から入る風に舞う羽毛が悪夢のようにその場にいた全員の目に映る。
近衛兵は呆然と窓を見ていた。守るべき王のそばに戻るでもなくがくりとその場に膝を落とす。宮殿魔術師も似たような有り様で、原因の一端である大臣はかたかたと震えながらいくらか老けたような顔で佇んでいる。御殿医はついに声も出ないのか無言で膨大な涙を目から溢れさせていた。
この場で唯一、険しい表情の王が声を上げて指示を飛ばした。
「何をしているのだっ自失してる暇などないぞ! 宮殿魔術師よ、宝物庫よりありったけの法具をもて。邪神の復活を食い止めねばならん! 大臣よ、兵を集めろ。せめて被害は我が国で留めるのだ! お前もいつまで窓に張り付いているのだ! 下へ向かうぞっ、御殿医は治療の準備を急げっまだ御子が死んだとは限らん!」
言い終わるがはやいか王はすぐさま身をひるがえすと塔の門を目指し駆けだした。あわをくった近衛兵が脊髄反射で駆け出し宮殿魔術師も部下のいる静謐の間に魔力で声を飛ばし宝物庫へ走り出す。大臣は老いた身体の限界を無視して軍部へと走り御殿医はいまだ涙を流しながらありったけの麻酔と薬、術具の準備を始める。
何事かと南の塔に勤める医師達は集まっていて、運悪く御子が落ちる場面を目撃してしまった。涙を流す御殿医と一緒に泣きながら準備に走る。彼らは御子が無惨な姿になっているのを見たくなかった。他の誰がどんな姿で運ばれてこようとも冷静に出来る事をすべく動くように訓練されていたが、御子だけは無理だと誰もが思った。
大臣の指示で御子を拘束したのはまだ歳若い医師だった。彼は謁見の間の出来事を大臣から聞き、御子が暴れ自傷しないようきつく申し渡されたが、御子を拘束する傍ら大臣への嫌悪がつのった。こんな事になるならば拘束などしない方がよかったのではないかと、彼は泣きながら大臣の事を恨んだ。
***
空中へと自らの身体を投げ出した御子は落下してく刹那己の周りを穢れた獣が取り囲むのを感じ柔らかく微笑んだ。やはり人よりも獣の方がずっと優しいと。
「ばかだね。でも、それしかないものね」
あのまま清廉の間に留まったとて、駆けつけた兵に討伐されるのみ。獣どもが御子を追うのは、御子にとってなんら不思議なことではなかった。
やがて御子は地面に叩き付けられ今度こそ死ぬだろうと、彼女は腕に抱いた小さい獣を庇うように身体を丸め近付く地面を前に目を閉じた。
しかして、御子は落下した窓の下にある生け垣へと非常に間抜けな姿で頭からささった。旅装束から白いワンピースへと着替えさせられていたのが災いし、彼女はこれまた白い下半身の下着を豪快に晒す。
へにょりと御子の身体から力が抜け、天を向いていた脚が地面へと落ちた。何も知らずこの場だけ目撃したものがいるならば下着姿の女性の下半身が生け垣から生えているように見えただろう。
「いっ……たぁい」
御子は下着を晒したまま生け垣で足掻き女性にあるまじき格好でなんとか生け垣から抜け出た。あちこち擦り切れ髪もぼさぼさと跳ね生け垣の葉が刺さっている。
「なぜ助かったし……」
己が落ちた窓を見上げれば結構な高さであった。御子は怪訝な顔で打撲と擦り傷しかない身体をペタペタと触る。
「きゅーい」
細い首を傾げながら怪訝な顔をする御子の脚をてちてちと叩くものがあった。御子が胸に抱いていた穢れた小さい獣だ。そうして周りをみれば、己と落下したはずの大きな獣どもがいないのに御子はようやく気付いた。
「……まさか」
御子はがさりとふたたび生け垣に飛び込んだ。衣服の乱れなど気にせずに生け垣の中をがさごそと探る。生け垣の中は真っ赤に染まっていた。御子の白いワンピースが土以外の汚れが無いのが不思議な程に。
「ばかな……」
大きな獣どもは身をていして落下する御子の衝撃を和らげたのだと、悟った御子が地面へと虚脱する。御子が死ねば獣どもの主人である邪神が甦るというのに、何故獣どもはこうも御子をかばうのだろうか。
「なんでよ」
御子は、脚にすり寄る小さな獣を抱き寄せてあまり手触りのよくない毛皮に顔をうずめた。小さな獣はきゅいきゅいと鳴いて御子の頬を舐める。
「私が死んだ方が、あんた達には好都合でしょ?」
「きゅっきゅいっ」
御子の言葉がわかるのかわからないのか小さな獣はただ御子を慰めるように頬を舐めた。
「やめなさいよ、慕わないでよ。私は……いっぱい殺したのよ」
「きゅっ」
「もう苦しいのはいやなの。怖いのも慕われるのも期待されるのもいやなの」
「きゅっきゅっ」
御子はただ穢れた獣を抱き締めて静かに涙を流した。涙は心の澱んだ成分も流してくれると、遠い遠い故郷で聞いた覚えがあるから、御子は泣くのがいやだった。
旅に出た当初は泣いてばかりいた。彼女は泣いて泣いて涙は涸れるのだと思った。泣く度に同行した騎士団の誰かに慰められるのがいやだった。何を言われても言葉が上滑りしていくような気がしていた。
泣くのは弱い証しだった。めったに泣かなくなった頃、心の中に誰にもぶつける事が出来ない憎しみと怒りがあるのに彼女は気付いた。泣いている間は忘れてしまうそれを、彼女はずっともっている。その気持ちは同時に彼女の故郷への思いを強くしてくれたから、彼女はやがて泣くのをやめたのだ。
それなのに、敵対し、恐怖していた獣どもはいとも簡単にするりと御子に涙を流させるのだ。
「なんなのよ……私がうちに邪神を封じてるから優しいんじゃないの? 本当は殺したいんじゃないの?」
「きゅいっ!」
御子の目から流れた涙から、いつの間にか御子は小さな獣にわらわらと囲まれていた。小さな獣どもはところ構わず御子を舐めて慰めようというか、外からみれば穢れた獣どもに補食されているような御子であったが、御子は獣どもをまとめて抱き上げてぎゅっと力を込めた。
「きゅいっ」
「きゅっ」
「きゅう」
獣どもから「苦しいよ!」といっせいに抗議が上がるが御子は強い眼差しで黙らせると、ボロボロになった身体に構わずしっかりと立ち上がる。
「とにかく逃げなきゃ」
持ち物はなにもない。お金も装備も取り上げられてしまった。それでも、たとえ身ひとつであろうとも、ここから逃げなければ待ち受けるのは身動きひとつ取れぬ拘束なのだと、御子はまだ誰も駆けつけてないここから走り出した。
アバロンの王城より旅立ったのはかなり昔の事であり御子はどこに行けば城を抜けられるかわからなかったが、腕に抱いた一匹の小さな獣がもがいて御子の腕から転げ落ちると「こっちだ!」と言うように高く鳴いて駆け出す。御子は迷わずその小さな背を追った。
(そうだ、ここの人よりもおまえたちの方がまだ信じられる)
例えこの先穢れた小さな獣どもに食われたとしても、生きたまま何も出来ずに拘束され形ばかりかしずかれるよりはずっとましだと御子は走る。小さい背が今は勇ましく見えた。
中庭を抜け、驚く顔をする文官の間を抜け、王城裏の森へと抜ける小さな門を前にした時、御子の目は確かに輝いた。
帰れないならば、もう誰も関わらず静かに森で果てたい。
(私はもう関係ないんだからっ)
御子の走る速度が上がる。長旅で鍛えた彼女の脚は並みの兵士より速く頑健で逞しい。風にひるがえる御子の髪が門を潜り抜けるその瞬間、彼女の手を掴み引き止めるものが現れた。
「ッ!?」
「御子様! どこへっ」
「いやぁ! 離してっ触らないでぇえ」
「落ち着かれよ! 御子様、いったいどうしたのですっその穢れた獣は」
「!!」
御子は腕を掴む人物を威嚇している小さな獣どもを守るように抱き込んで隠した。先導していた小さな獣も背後に隠し、引き留めた人物を睨むために顔を上げ目を見開く。
「だ、団長……」
厳つい顔をしかめ、隙なく小さな獣どもを睨む彼に御子は覚えがありすぎるほどあった。彼はこのアバロン出立より邪神の封印から帰還まで、御子を守りついてきた騎士団の団長を勤め上げた男だった。
逞しく鍛え上げられた身体に浅黒い肌はいかにも屈強な戦士という風体で、彼の一睨みは穢れた獣をも圧倒する。睨まれた小さな獣どもはぶるぶると震えながら毛を逆立てそれでも彼を威嚇した。
「穢れた獣が何故……御子様がすべて封じたはず」
団長は如何なる時も手放すことのない腰の大剣を引き抜き、小さな獣どもを鋭い眼光で威圧する。
「御子様、あぶのうございます。こちらへ!」
騎士団長はまず、御子の背後で威嚇していた小さな獣に狙いを定めた。彼の大剣が無情な力で振り上げられた瞬間、御子の口から悲痛な叫びが上がる。
「やめてっ! 殺さないでぇ!」
御子は振り下ろされた剣の前に身を乗り出した。騎士団長は慌て軌道を変え、できた大きな隙を見逃さず小さな獣どもが騎士団長に襲い掛かる。
「ぐぅっ!」
「だめっ、だめっ! やめなさい! 噛んじゃだめっ」
騎士団長の分厚い皮膚に小さな獣どもの牙が食い込むが、小さな彼らの牙はいかに鋭くとも筋肉で覆われた騎士団長の身体を貫く事はない。
しかし痛覚ばかりは退けられず痛みに呻く騎士団長は身体に取り付いた小さな獣どもを次々に振り払った。地面に叩き付けられた小さな獣どもは「きゅいっ」と痛みに声をあげる。
「やめてっやめて!」
御子は団長に投げ捨てられた獣どもを抱き上げて団長を睨む。噛まれた箇所から血を流す騎士団長は訳がわからずに困惑した表情で御子を見た。
「御子様、いったいどうされたのですっ」
「この子達は悪くないっ」
「しかしそれは邪神の手先ですよっ」
「今は私のものよ!」
御子の言葉にいよいよ団長は太い首を傾げた。御子は団長を睨むのをやめ、十年旅を共にした男に出立した当初以来向けることのなかった弱々しく縋るような目を向けて懇願する。
「団長、お願い……」
「み、御子様?」
「私を連れてここから一緒に逃げて」
「えっ……はっ!?」
「お願い……」
厳しく訓練し辛い旅路を乗り越えてきた騎士団を束ねる男はかつてなく動揺をあらわにした。
御子を邪神の手先から護衛し邪神の封印を成すべく部下を引き連れアバロンを出立した時、団長の前にいる御子はまだほんの小さな少女であった。ふっくらした柔らかい頬に労働を知らぬ細く白い手、歩くには向かなそうな脚、同じ年頃の国の少女よりもずっと幼く頼りなく見え、瞳はいつも不安げに揺れ団長を見つめていた。
襲撃の度に脅え泣いていた彼女はいつしか剣を取り、騎士に混じり鍛錬するようになった。彼女は旅すがら強くなり、脚を鍛え精神を鍛え逞しく成長した。それをずっと傍らで見続けていた団長は、御子を己の娘がごとく見守り何故こんな可憐で小さな少女にこのような重荷を背負わせるのかと天空神を恨みまでしたが。
彼女は美しく、羨望すら覚える程に強い聖女へと成長したのだ。
いつから彼女の涙を見なくなったのか。ずっと共にいた筈なのに団長は思い出せなかった。彼女は強かったと、そんな印象ばかりが思い出せる。
そんな彼女が今、弱々しく騎士団長にすがり懇願の眼差しを向けている。か細い声で、柔らかな身体で、鍛えられているが団長よりもはるかに小さな白い手で。
騎士団長は彼女が女性であると痛烈に感じた。穢れた獣に気を取られていたがよく見れば彼女は傷だらけで、団長の臓腑に言い知れぬ怒りが満ちてくる。
団長は何も考えず穢れた獣ごとただ御子を腕に閉じ込めた。御子はとっさに身体を強ばらせたがすぐに力を抜き、団長の逞しく厚い胸板に額を預ける。
「何が御子様を傷つけましたか」
「……わたし、は」
「何からもお守りすると誓いました。例え邪神が封印されようと、我が誓いはかわりません」
「団長……」
御子はそっと、長い間傍らにいた男を呼ぶ。どうしても、ともに旅をした騎士団の男達だけは、憎悪や憤怒といった感情が浮かんでこない。
(……ごめん、団長)
御子はぎゅうぎゅうに己を抱き締める逞しい男の胸を押した。巻き込めないと思ったのだ。
「御子様?」
団長は困惑しながら寂しげに笑う御子の顔を見る。どうしてか、今逃したら取り返しがつかない気がして御子をもう一度腕に閉じ込めようとしたが、御子はそっと身を引いて団長の腕を避けた。
彼女はこんな風に、諦めに満ちた目をしていただろうか。
真っ直ぐに前を睨む彼女の勇ましい姿が懐かしく団長の脳裏によみがえる。
「すがってごめん。アナタはどうか、幸せになって。私のお守りはもういいの」
「何をおっしゃるのですか!?」
「みんなにもよろしく伝えてください団長……どうか元気で、と」
そう言い残し門を出ようとした御子を団長は逃がすまいと捕まえた。御子が暴れても小さな獣に噛まれても離さず御子を引き留める。
「離してっ」
「何故ですかっ、我らはこの先もアナタをお守りする。我ら騎士団の誓いはアナタのもとにあるのです。訳もわからずアナタの側は離れません!」
「私のなかには邪神が眠ってるのです!」
「ッ!?」
「……騎士団の皆さんには、黙っていました。これ以上心配させたくなかった。でももう私は……わたしは」
謁見の間に入ることを許されなかった騎士団長は今まで知らぬその事実に衝撃を受けた。邪神の封印は宝剣にされたのではなかったか。あの場にいたのに、何故気付かなかったと。
めったに表情を崩さぬ騎士団長の驚愕の表情に、御子はやはり悲しげに微笑んだだけだった。彼らを憎む気はない。しかしやはり、この世界は憎らしい。だから御子は遠くへ逃れるのだ。彼等の目が届かぬどこか遠いところへ。
騎士団長の腕から力が抜けたのを御子は見逃さず駆け出した。
「御子様っ!?」
騎士団長は追い掛ける。その背後にはようやく御子を見つけたアバロンの王と近衛兵がいた。
「そこにいるのは騎士団長かッ! 御子を外へ出してはならぬ!」
「はっ!?」
突如背中へかけられた王の声に団長は振り返ったが、猛然と迫る王と近衛兵によくわからないまま御子を追い掛ける。もとよりこのまま行かせる気は団長になかったがいったい何がどうなっているのか団長にはわからなかった。
「いいから! とにかく御子を引き留めるのだ!」
お気に入り登録、誠にありがとうございます。とても励みになります。その他疑問質問感想等、この先の展開に支障がない範囲にてお答えさせて頂きますのでお気軽に。
現在は書いたものから投稿しておりますのでいつ更新が止まるのかよめない状態ですが、なるべく最後まで書き続けようと思っております(結末だけは3パターン程出来ていて展開により最終的にひとつに絞ろうと思っています)
よろしければ今後ともよろしくお願いいたします。