四
「もう閉館よ」
図書館司書の声で顔を上げると、窓の外の色は黒だった。時計は午後十時、五分前。
「『大坂の宿』か、いいね、今度講演があるんだよ、知ってる?」
「いいえ、」ハンナ・シーボルトは眼鏡の位置を直して首を振る。「本当ですか、ぜひ出席したいですね」
ハンナは立ち上がる。日本文学のコーナは図書館の二階にあって、そのフロアにはハンナと司書以外に誰もいなかった。ハンナは『大坂の宿』を書棚に戻してドアまで歩く。
「借りなくていいの?」司書はフロアの鍵を閉め、電気を消した。そしてハンナが頷くのを確認して並んで歩く。司書はハンナの顔をチラチラと見た。「……ドイツ、かな?」
「はい、ドゥービュレイです」
「へぇ、素敵、新婚旅行はドゥービュレイにしようかしら」
司書の背は日本人にしては高かった。司書の瞳はほとんどハンナと同じ高さにある。スタイルが良く、しっとりとした黒い髪が長い。胸元の名札には『冲方』とある。
「結婚なさるんですか?」
「フィクションの世界でね、」司書は「うふふっ」と笑った。本当なのか、冗談なのかはっきりしなかった。「専門は文学?」
二人は並んで階段を降りている。
「はい、日本の現代思想を分析しに」
「日本語が、とても上手ね、院生?」司書は楽しそうにハンナに接近する。
「いいえ、故郷の祖父が長崎に暮らしていたことがあるんです、小さい頃から祖父に言葉を教わっていました」ハンナはありのままを話す。
「ふーん、おじいさんがねぇ」
図書館のカウンタの前で司書と別れた。司書はこれから一階の自習室の掃除をしなければならないという。大変な仕事だ。ハンナは空を見ながら大学の敷地を歩く。明かりが点いている部屋がちらほら見えた。邑田ヨウスケ教授の研究室の壬申館の二〇三号室の明かりは点いていなかった。邑田教授と会って、話して、騒がしいことをして、コレクションを増やすのも悪くなかったかな、とも一瞬思った。
周囲に誰もいないことを確かめ、月が雲に隠れたのを確認して、ハンナは放置されていた竹箒を手にして跨って風を起こして一気に二階の高さまで浮上した。
「……え?」
思わず疑問符を口にしたのは、窓が開いていたからだ。小さな隙間があり、そこを通り抜ける風が中のカーテンを僅かに揺らしていた。ハンナは呼吸を止めて気配を殺した。窓に手を掛けゆっくりと窓をスライドさせ、隙間を広くする。首まで入れて研究室の中を窺う。人の気配はなかった。ハンナは中に全身を入れた。床に足を付ける。かすかな音が靴底から鳴る。それに反応したかのように。
「わっ!」
思わずハンナの顔は固まってしまった。誰もいないと思っていた研究室に誰かがいて、その誰かはハンナを待ち伏せして驚かせようとしていたからだ。心臓が止まるかと思った。初めての経験に近い。とにかくハンナは大きくなってしまった目を通常のサイズに戻して、呼吸を整えてから、さて、どうしようかと、ハンナを驚かせた少女の顔を見た。垂れ目で、巨乳で、莫迦っぽい印象だ。しかし第一印象は間違っていることがほとんどだ。彼女が魔女ならなおさらだ。もしかしたらその垂れ目は、何かを企んでいるのかもしれない。
「なんや、君も試験問題探しに忍び込んだん?」
彼女は紺色のブレザに、チェック柄のスカートといういでたちだった。大坂帝大の学生に違いないだろう。それはともかく彼女の声のボリュームはハンナにはとても大きく聞こえた。ハンナは「しっ」と指を立てて、左手で彼女の口を塞ごうとした。しかしのらりくらりとハンナの手から逃げた。魔女だ、そう、ハンナは確信した。ハンナは本能的に魔女を睨んだ。「……声がでかい」
「大丈夫や、誰もおらへんて、一階と四階と六階にはまだ誰か残ってるらしいけど、この階には私と君だけや、ちゃんと調べてから侵入したんやから、あはっ」
何が可笑しいのか、魔女はボリュームをさらに上げてしゃべる。
「……それで、ええっとぉ、」ハンナは集中を乱されながらも、頭を回転させる。こめかみを人差し指を触る。ドイツの宰相みたいな仕草。唇を噛むように舐める。「……そうや、試験問題は、見つかったん?」
「まだ、途中、あはっ、」口を手で隠して笑うのが魔女の癖らしい。「君が来たからな、先生やったらどうしよう思って、気配を殺しとってん」
「……魔女やんね?」ハンナは聞いた。
「せや、私、行天ヨシノ、君は?」
「ハンナ、ハンナ・シーボルト」
「へぇ、留学生かいな」
「ええ」ハンナは部屋の中を見回した。
「講義で見たことない顔やなぁ」
「私やて、ヨシノちゃんの顔、見たことないで」
「あはっ、まだ一回だけやもんね」日本の大学ではまだ上期が始まったところだ。
「せや」ハンナはそれらしく頷いて微笑んだ。
「邑田先生の講義、毎回試験あるらしいから大変よね」
「毎週こうやって盗み出すのがってこと?」
「その通りや、あははっ、」行天は愉快そうに笑って、ハンナの手を触った。「ねぇ、一緒に探さへん? どうも先生ってば人が変やから、どこにあるか検討もつかん」
「……金庫は調べた?」
「金庫? そんなんどこにあるん?」
「こっち、」ハンナは早足で向かう。部屋の角だ。ハンナは膝を畳んで鍵穴と目線の高さを合わせる。「ほら、重厚な金庫、試験問題が入ってそうやろ?」
「あ、ホント、金庫や、」行天は本当に嬉しそうに微笑みハンナの横にしゃがんだ。「暗くて気付かんかった」
確かに、この黒い金庫はこの暗闇と同化していた。目を凝らさないと壁と区別がつかない。銀色のダイヤルキーが存在を控えめに主張していなかったら、ハンナも迷っていたかもしれない。
「よっしゃ、開けたるで」
行天は針金を取り出した。それを鍵穴に突っ込んで、ガチャガチャしていたが、ハンナはその稚拙な作業を見ていられない。「代わり」
ハンナの手には特殊な工具。工具を突っ込むと、スムーズに右方向に鍵穴が回転した。
「すごい、ハンナはん」行天は手を叩いて喜ぶ。
「まだよ」三つのダイヤルキーがまだある。ハンナは聴診器を取り出す。
「ハンナはん、すごい、本格的や、試験問題を盗み出すプロやね」
工具を鍵穴に差し込んだまま、ハンナはダイヤルを操作していく。ダイヤルは驚くことに連動していた。一番上のダイヤルを操作すると二つ目、三つ目のダイヤルも回転し始めるのだ。ダイヤルの回転を止めておくには三つ目の手がいる。「ヨシノちゃん、お願い、一番上のダイヤルを押さえていて、それと聴診器も持ってて」
「こうか?」ヨシノはハンナの言うとおりにしてくれた。
「そう、ありがとう、じゃあ、開けるわよ、」ハンナはダイヤルを操作する。聴診器から解かれる音が、カチッ、カチッとリズムよく響いた。「よし、開けるよ」
ハンナは金庫の重たい扉を引いた。
光が漏れていた。思わず目を細める光。
ハンナは息を呑む。
金庫の中にあったのは試験問題じゃなくて。
龍の魂。
ハンナは心臓を鳴らした。
「……なんや?」
行天は金庫の中に手を入れて、その光源を持ち上げた。行天はハンナに見せる。虎印の魔法瓶。白銀龍の魂が閉じ込められた魔法瓶。幻想的な輝き。重みを感じる、銀色の輝きだ。
「眩しい、」行天は顔に近づけてそれを観察している。行天の目はグリーンで、髪の色は紫で、興奮しているのか、頬はピンク色だった。「なんや、よく分からんけど、もしかしたら、邑田教授が開発した最新技術かもしれんなぁ」
「私にも見せて、」言いながら、ハンナはイメージしていた。行天から魔法瓶を受け取った瞬間、右足で行天の左足を砕く、それからピストルをこめかみに近づける、『お願い、黙っていれば殺さないから』と優しく囁いて行天の唇にキスをする、そして深夜零時の夜行列車に乗り込んで長崎に行く、魔法瓶を眺めながらワインを飲みたい、それから船に乗る、次は何の魂をコレクションしようか。「私にも見せて」
しかし、行天はハンナに魔法瓶を渡してくれなかった。真面目な表情をして、ハンナの胸元を見ている。「……なんや、その光?」
「え?」ハンナは行天の視線の先を確認した。ハンナの胸は朱く、光っていた。服の内側の魔法瓶が輝いていた。こういう反応を見たのは初めてのことだった。共鳴しているのだろうか? いや、意味が分からないが、しかし、魔法瓶の技術が開発されてから、まだ百年も経っていないのだ。こういう反応があっても、不自然ではない。
けれど、このときのハンナは困惑した。
目の前の行天という魔女が取った行動も含めて。
「アンタ、なにもんやっ!」行天は表情を変えた。魔女の顔だ。少なくとも大学の試験問題に頭を悩ましている顔じゃない。
行天は立ち上がりハンナから距離を取った。
行天の目の奥が僅かに輝き、紫色の髪が発光する。
ハンナの反応は完全に遅れた。
「エレクトリックジェネレイタ」行天は素早く発声する。
複雑な構造の魔法は瞬間的に編まれた。
ハンナは紫色の電流に包まれた。
意識が飛んだ。
膝から崩れ落ちる。
お凸を床にぶつけた。
痛みは伝わらない。
行天はハンナに近づいてくる。
その足音が。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
ハンナは目を見開いた。
全身の痛覚が機能し始めた。
涙が瞳を覆う。
ハンナは素早く立ち上がって、ピストルの引き金を引く。
ハンナの聴覚はまだ機能していなことが分かった。ピストルの銃声が全く聞こえなかった。
照準は全く合わない。弾道は行天から二メートルも逸れていた。蛍光灯が粉々に砕けて落ちた。
脳みそが邪魔だ。
足は動いた。足は逃げようとしている。
脳みそはコレクションのことを考えている。
脳みそが邪魔だ。
体が鳴らしているクラクションに脳みそは全く反応しないで、龍の魂のことを考えている。欲しい、欲しいと訴えている。回転していない。いや、空回りの状態。この状態じゃ、魔法を編めない。
足は止まった。
体は行天の方を向いた。
行天は肩で息をしていた。エレクトリックジェネレイタの魔法を編んだせいだ。その魔法は全ての魔力を一気に放出する素晴らしい魔法だ。
行天の魔力はゼロ。
ハンナにはピストル。
ハンナの本職はスナイパ。
ハンナとピストルを掛け合わせれば、たくさんのコレクションが手に入る。
しかし。
「ブロントテリウム」行天は言った。
瞬間。
視界は捻じれた。
両手が反応して、ピストルを捨て、シールドを張った。
シールドは一秒も持たなかった。
体が破裂したように、後ろに吹き飛んだ。
体が壁に直撃した。
ハンナは血を吐いた。
体に力が入らない。
行天の足音が近づく。
薄目を開けた。
行天はハンナの胸に手を伸ばした。
そして魔法瓶を握りしめて、強く引っ張った。
紐が千切れた。
行天は両手の二つの魂を見比べて微笑んでいる。
行天が二つの魂は接近させると、さらに輝き始めた。
「ハンナはん、アンタが誰か知らん、知らんけど、ごめんな、有難く貰っとくわ、あはっ」
行天は目の前から姿を消した。
きっと窓から飛び立ったのだろう。
それから十秒も経たないうちに、誰かが研究室に入ってきた。
二人。
一人が女。一人が男だ。
「お、おい、大丈夫か?」その女がハンナの顔を覗き込んで言う。「鳴滝ちゃん、どうして警報が鳴らなかったんだ?」