三
阿倍野キュウタロウは南警察署の六階にある狭い部屋を掃除していた。阿部野の顔つきは鋭い。無表情が怖い造りをしている。背が外国人のように高く、シルエットも細い。その長い脚から繰り出されるキックは骨を砕く、かもしれない。普通の人間なら阿倍野を見ると、関わりたくないと思う。犯人なら殺されないうちに囚人になろうとする。
特殊生活安全課の阿倍野はそういう外見をしていた。だから、スーツの上着を脱いで、シャツの袖を捲って、ガラス窓を雑巾掛けしていると、部屋全体が斜めに傾いているような違和感を覚える。違和感を覚えるが、狭い部屋に二つしかない机の位置関係をミリ単位で修正するような男が阿倍野だ。
阿倍野は金属製の長い定規で机の位置を測定すると満足そうに頷いた。それから机の上の整理を始める。阿倍野の机の上は常に整頓されている。ファイルは全て同じメーカの物で統一されている。引き出しの中の鉛筆の長さも均等で、先は全て光を放つほどに尖っている。消しゴムに黒いすすなど付いているはずがない。だから整理は瞬く間に終わった。
しかし、問題は対面の机だ。それは阿倍野の机と対照的に汚い。何もかもが不揃いだ。湯呑にコーヒーが入っていて、コーヒーカップに緑茶が入っている。阿倍野には許せない状況だ。引き出しの中はどうなっているのか、想像がつかない。
阿倍野はその汚いものから目を逸らした。心の中では整理したくて堪らないのだ。しかし机の主は頑なに阿倍野の申し出を断り続けている。主はプライベイトという言葉をよく阿倍野に向かって披露する。刑事課から特殊警察安全課という訳の分からないところに左遷され、仕事といえばマンションの管理人のするような事件ばかりだった。それでも阿倍野に不満はなかった。不満なのは汚い机だけだ。二人だけの特殊生活安全課の狭い部屋で汚いのは机だけなのだ。本当に腹立たしい。いつも鬼にならないか心配になるほどだ。新田フエコが女で、十五歳で、副署長の孫じゃなかったら、すでに鬼になって殺している。
鬼にならないように、阿倍野は夕方色の窓を開けて、空気を吸った。春が近づいている空気。いや、すでに春だ。上着を脱いで丁度いい、風だ。気持ちが安らぐ。新田のことをしばし忘れる。
忘れた瞬間。
『ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリっ』
警報が鳴った。
脳髄を揺さぶるほど強烈なクラクション。
阿倍野は目を閉じた。
聞き覚えのある警報だ。何度も。
その警報はとても近い場所から聞こえる。
隣の部屋。隣の実験室だ。
窓から顔を出して隣の部屋を見る。
左側だ。
暗幕で中の様子は分からない。
阿倍野は狭い部屋から出た。
耳を塞いで廊下に躍り出て特殊生活安全課の部屋の方を見ている人間が何人かいた。
阿倍野は無表情でそいつらを確認してから。
実験室のドアを押し開けてがなる。
「新田ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
リンっ……。
警報は鳴り止んだ。しかし鼓膜はまだ震えている。
「……何してんだ?」
新田は薄暗い部屋の中央で巨大な銀色のベルを抱き締めて、阿倍野には理解できない複雑な構造をした機械のある部分を握り締めて動かないようにしていた。その部分は孫の手を太くしたような突起物で、男のアレに見えないこともなかった。緻密な計算からそうなったのか、新田のユーモアなのかは、一年間ほとんどの行動を共にしてきた阿倍野でも分からない。
「……目覚まし時計の研究」
新田は阿倍野を見て、そうおどけて、笑って、言い訳を考えるように実験室の東と西に飾られた外国の著名な発明家の肖像画を見て、赤い舌を出して、片目を瞑って、「ごめーん」と言った。まるで反省してない。「スイッチの接触が悪くて、止まらない、キュウちゃん、そのモンキーレンチで」
モンキーレンチはドア横の壁に掛けられていた。その壁一面に重たそうな金属の工具が引っかかっている。電動式のチェインソまである。電灯付の黄色いヘルメットもある。年代物のゲーベル銃もある。スナイパライフルも、ロケットランチャもある。そこだけ見れば、この部屋は実験室というよりも武器庫に近い。しかし、フラスコ、ビーカ、チューブ、紫色の液体などで構成されている薬品臭漂う巨大な実験装置を見ると、やはりここは実験室なのだなと実感する。何を研究しているのか、部屋を見ただけでは分からないが。とにかく、阿倍野はモンキーレンチを手にして肩に乗せた。「コレで何をするんだ、壊すのか?」
「違う違う、」新田は子犬のように首を横に振った。「この装置にはお金が掛かってるんだから壊しちゃ駄目だよ、モンキーレンチを、キュウちゃん、ココに挟んで」
多分、ベルと奇妙な形の突起物の間に挟めと言っているのだと理解する。阿倍野は新田に近づいた。「手をどけて、邪魔だ」
「うん、タイミングが大事だよ、」新田は阿倍野の目を見て言う。新田の目はブルー。宝石よりもナイロンの質感だ。「……せーのっ」
新田が手を離した。阿倍野が思っているよりも早くだ。だから反応し損ねた。
再び警報は煩く鳴り響き、阿倍野は慌ててモンキーレンチを捨てて突起物を掴んだ。
リンっ……。
静かになる。
「タイミングが大事って言ったじゃん、」モンキーレンチを両手で拾い上げながら、新田が言った。「キュウちゃんってば、リズム感がないんだから」
「お前とタイミングがあったことなんてあるか!?」阿倍野は声を張り上げた。「ほら、貸せ」
阿倍野は片手で突起物の動きを止めながら、モンキーレンチをベルとの間に挟み込んだ。慎重に手を離す。動き出さない。阿倍野は息を吐いた。その阿倍野の目の前で新田は装置からバッテリに伸びる線をニッパで切断していた。
「コレで安心や、」新田は喜んでいた。「初めからこうしたらよかったんやぁ」
「……」阿倍野は何も言わずに暗幕まで歩いて窓を開けた。
「うわっ、眩しい、痛い、痛い、」新田は暗幕の隙間から差し込んだ弱いオレンジ色の光にやられていた。四つん這いで部屋の暗い場所へ逃げる。「キュウちゃん、お願い、閉めて、閉めてってばぁ!」
新田は太陽の光が苦手だ。しかしそれは病気ではなく、精神的なものだという診断結果が間違って阿倍野の机に届けられてから、新田に優しくするのを止めた。もっと太陽の光に当たって病的なほど白い肌を健康的にするべきだと思う。
「新田、もう警報機の研究はしないって言ってなかったか?」
新田は制服の上にモッズコートという奇妙ないでたちをしている。新田はそのフードを被って光から頭を守っている。「……違うって、警報機の研究じゃなくて、赤外線センサの研究」
「せきがいせんせんさ?」阿倍野の知らない単語だった。そして理解する気もない。「そんなことよりも、新田、お前、ちゃんと風呂入っているのか? 女の子なんだから、」
「赤外線センサだって!?」急にドアが開いたと思ったら、刑事課の大橋アユムが実験室のドアを勢いよく開けて入ってきた。その拍子にドア枠から手の平くらいの大きさの黒い機械が落ちた。「さすが、新田ちゃんだ、センサが反応するとクラクションが鳴るセキュリティシステムの研究をしていたんだね、で、それはどれ?」
大橋は興奮しているのか乱れた髪をさらに乱していた。阿倍野は大橋を見て不愉快な顔になった。「大橋、お前、ちゃんとシャンプした後にリンスしているのか?」
「リンスしたら、髪が真っ直ぐになるんだ」大橋は乱れた髪に指を入れる。
「真っ直ぐの方がいいじゃないか」阿倍野は心からそう思う。
「いいわけがないねっ」大橋は腕を組んで言う。
「アユムちゃん、それだよ」新田は指差して言った。ドア枠から落下した黒いものを指差している。
大橋は足元に転がるそれを見て慌てた。「嘘、こんなに小さいのか、っていうか、壊れてないか?」
「そんなに簡単に壊れないと思うけど見せて、」新田は大橋を手で招いた。あくまでも陽の当たる場所へは移動したくないらしい。大橋は新田に手渡す。新田は小さなスイッチのようなものをスライドさせている。それから目の色を変えた。ナイロンの質感がサファイヤの質感になる。その目で見えないものを見ているらしい。「うん、大丈夫」
「よかった、」大橋は胸を撫で下ろして、壁際のパイプ椅子に座った。「うん、それでものは相談なんだが、そのシステムを貸しては頂けないだろうか?」
「こんなもの、何に使うんだ?」阿倍野はまだそのシステムがただの煩い警報機程度にしか理解していなかった。
「何を言ってるんだ、キュウちゃん、いいかい、このシステムの普及は確実に犯罪を抑止するはずだ、人を必要としない警備システム、人よりも優秀な警備態勢が敷かれれば、探知に優れた魔女を雇用しなくても皇居レベルの厳戒態勢を敷くことが出来る」
「このベルが?」
「ベルじゃない、赤外線センサのことを言ってるんだ、日本にはまだ入って来ていない技術だよ、新田ちゃん、一から全部作ったの?」
新田はなんでもないことのように頷いた。「うん、論文を読んで、足りないところはあふれる想像力で補って」
「素晴らしい、」大橋は手を叩いた。「私はこのシステムをぜひ、事件の解決のために使いたい」
「うん、いいよ」
「ありがとう」大橋は新田に向かって手を伸ばした。
「何の事件?」新田は大橋と握手を交わしながら聞く。
「大坂帝大の邑田教授が行方不明だ」大橋は言って、パイプ椅子に深く腰掛けてシガレロに火を点けた。火気厳禁のマークが背中にあるが、新田はなにも言わなかった。彼女はシガレロの匂いが好きで、シガレロを吸う人に近づくという習性を持っている。だから阿倍野は新田の前で決してシガレロを吸わない。しかし、この時はシガレロの箱を咄嗟に手にしてしまった。それでも口に咥えなかったが、とにかく、阿倍野は驚いたのだ。
「……邑田って、邑田ヨウスケか?」阿倍野は聞く。
大橋は黒く縁どられた大きな目で阿倍野を見る。「ああ、そうだ、キュウちゃんは、彼と同じ研究室だったね、この薬品の匂いで香ばしい実験室に来たのは赤外線センサ付の警報機を借りるためだけに来たわけじゃない、キュウちゃんに知らせようと思ったんだ、そして何かヒントを得られるならと思って」
「……いや、大学を卒業してから俺は、アイツと会ってない、」阿倍野は窓の外を見た。窓の外を見ると、邑田のことを思い出した。様々なことがフラッシュバックされて、心臓のブレーキが外れて、破裂しそうになる。阿倍野は空気を飲み込んだ。「残念だったな、でも、行方不明って、……アイツに行方不明っていう言葉はそぐわないよ、大学のとき、誰にも何も言わずにどこかに放浪、いや、流浪していたことがしょっちゅうあった、アフリカに行って病気に掛かってワクチンを持って研究室のメンバで助けに行ったこともある、とにかく、アイツは帰ってこないなんてことが一度もなかった、だから、アイツは帰ってくるよ、無駄な仕事だ」
大橋は阿倍野の言うことを聞きながら、終始微笑みっぱなしだった。「邑田ヨウスケ教授というのは、どうやらそういう人らしいな、大学関係者、研究室の生徒、喫茶店のオーナ、様々な人に聞き込みに行ったけれど、皆、大体キュウちゃんと同じようなことを言ってたよ」
「そうだろうな」阿倍野は頷いた。
「でも、おかしくないか?」大橋の表情は緩んでいる。
「なにが?」阿倍野は聞く。
「誰が警察に知らせたの?」新田は大橋の隣でシガレロの煙を吸いながら発言する。
「そうだよ、新田ちゃん、」大橋は嬉しそうだった。「警察に知らせてきたのは、邑田教授の屋敷で働いていた使用人の女の子だった、彼女は使用人になってからまだ一カ月だと言うが、いくら邑田教授とはいえ、使用人の子に行き先も告げずに流浪するということは考えにくい」
「その使用人が怪しい、」新田は眉間に皺を寄せて言った。「殺して、死体は畳の下」
「それは私も考えた」大橋は苦笑する。
「ありえない」阿倍野は首を振って否定する。
「でも、限りなく使用人が怪しい、何か関係がある気がする」
「そうだね、」大橋は適当に相槌を打つ。「とにかく私は、通報があってから鳴滝ちゃんと一緒に屋敷まで赴いたんだが、隙を見て屋敷の隅々まで調べてみた、屋敷には警察に通報した使用人と長崎の方から来たっていう変な女が三人いたんだが」
阿倍野は笑った。「お前もだ」
「その人たちもかなり怪しい」新田は発言する。
「何でも一人は邑田教授の弟子、他の二人は教授の患者らしい、私は患者の一人に話を聞いたんだ、なんでも、その教授の弟子の、椎本ヨネというドイツ人とのハーフの女が教授と結婚するために大坂に来たんだそうだ」
「邑田が結婚?」
「約束はしていなかったみたいなんだ、直接会って申し込んで、あれだな、強引に話を進めようと企んでいたんじゃないかな、見たところ、その椎本ヨネという女はかなりヒステリックだった」
「でも、ヒステリックな女性って魅力的ですよね、」新田が発言する。「私も見習わなくちゃ、その積極的なところを、キュウちゃんもそう思うでしょ?」
阿倍野は新田を無視して大橋に聞いた。「その話は信用できるのか?」
「その女は信用できないけど、話を聞いた、教授の患者の一人は信用できるよ、とても冷静に、歌を唄っていたからな」
「うただぁ?」阿倍野は大橋の基準が分からない。「歌を唄っていれば信用できるのか?」
「ああ、そうだ、」大橋は「ふふふ」と愉快そうだった。「ああ、それから邑田教授のことも聞いたよ、彼の人となりや、彼との思い出や、彼がどんな技術を持っているのか、私は話を聞いて少し驚いてしまった」
「縫合術のことか?」阿倍野は聞く。
「なぁに、それ?」新田が聞く。「ほうごうじゅつ?」
「うん、」大橋は頷く。「どうして今まで私に話してくれなかったんだ、水臭いじゃないか」
「どういう意味だ?」阿倍野は返答に困る。
「とにかく邑田教授は魔法工学の最先端を歩く人だ、だからその研究の成果が狙われているのかもしれないと私は考えるんだ、何もないただの勘違いかもしれないが、それならそれでいい、しかし、可能性がある、教授の研究の成果を守るために、私は提案したい、一刻も早く、その赤外線センサ付の警報機を研究室の金庫の前に設置することを、許可はもう取ってある」