二
縁のない眼鏡を掛け、髪を地味な色の紐で縛り、留学生に扮したハンナ・シーボルトは瓦町の古書店で購入した独和辞典を抱き締めて、大坂帝国大学の東門からその敷地に侵入した。東門は常に解放されていて警備員はいなかった。スーツ姿のビジネスマンもちらほらと見かける。一般にも開放されているらしい。ハンナは非常に分かりやすく描かれた案内板を見て、建物の位置関係を把握した。邑田ヨウスケ教授の研究室があるという壬申館は南門の近くにある。
ハンナは姿勢よく歩いてそちらの方向に向かった。丁度休み時間のようで学生の姿が多い。留学生の姿も多い。ハンナは誰何されることもなく壬申館に辿り着き、二〇三号室のドアをノックすることが出来た。返事がない。廊下に誰も見えないことを確かめてから、特殊な工具を使って二秒で鍵を開けた。部屋に入る。
薬品の匂いと金属の匂いがした。部屋は狭く、中央に設置された長方形の白いテーブルだけでほとんどのスペースを占めていた。白いテーブルの上には何もなかった。両脇には書棚があって、分厚い専門書とファイルが雑然と並んでいた。奥には移動式の黒板。黒板にも何も書かれていない。その後ろに窓がある。左奥には教授の机。教授の机の上はもので溢れていた。ハンナは部屋を一通り調べた。右奥にはドアがある。隣が研究室だろうと推測する。薬品の匂いと金属の匂いはそこに近づくにつれて強くなっていたからだ。鼻を塞ぐほどの匂いではない。病院の匂いを濃くしたような感じだ。ノブを回すとこのドアは施錠されていなかった。人の気配もない。ハンナは研究室に入る。
研究室は広かった。四つある換気扇は回っていなかった。匂いが籠っていた。立派な設備だった。高価な実験装置が揃っている。ハンナが見知っているものも多くあった。それよりもきっと最先端がここには揃っているのではないかとしばし興奮する。しかし目的はそうじゃない。
ハンナの目的は白銀龍の魂が収められた魔法瓶である。
研究室には多くの引き出しが存在した。ハンナはそれらを探っている途中で、研究室に唯一出入りできるドアから一番遠い場所に金庫があるのを見つけた。引き出しを静かに閉めて、そちらに向かう。金庫は黒く重厚な造りだった。大事なものは金庫に入れない主義だが、調べない訳にはいかないだろう。扉の中央に鍵の差込口とダイヤルが三つある。ハンナは聴診器を取り出した。それを扉に宛がう。
その時だった。
人の気配。隣の部屋のドアが開く音。それから小さく聞こえる。「……あれ、誰かいるのかなぁ?」
「普段、この部屋の鍵は?」
「研究室の皆、合鍵持ってますよ、……あれ、誰もいないなぁ、閉め忘れに気を付けろって誰か言っているのに、……ここは主にディスカッションしたり、資料を整理したりする部屋で、実験は隣の部屋でやります、どうぞ」
ハンナは誰かがドアを開けるときにはすでに窓の外にいた。近くの背の高い樹に飛び移り、ゆっくりと地面に降りた。スカートに付いた葉を払う。窓の鍵は糸で施錠してある。抜かりはない。
夜を待つ。
ハンナはそう決めてから、日本文学に触れようと図書館に向かった。