一
「魔法を編んだのね、」大橋アユムと鳴滝セイイチが立ち去った後の漏陽庵は静かになっていた。金色の髪の椎本ヨネのヒステリックが静まったからだ。椎本はキセルに原料を入れて黒沢ウタマルの横で煙を吐いて、遠い目をしている。「私の脳みそで今、心地のいいブルースが鳴っているわ」
「この子には効き過ぎちゃったみたいだね」
黒沢は肩に頭を乗せて唸っている白鳥ヒナの頭を擦りながら言った。
「ううん、暑いよぉ、」白鳥の服は乱れ、胸元が大きく露出していた。黒沢の編んだ魔法の作用で体が熱くなっているらしい。「眠いよぉ、なんなのぉ、何したのぉ?」
「はい、冷たいお水です、」群青色の髪の亀戸マワリが湯呑に水を注いで白鳥の唇に近づける。「飲めますか?」
「うう、ありがとうございます、」白鳥は唇を尖らせて、水を少しずつ飲んだ。「ああ、冷たくておいしいですぅ」
「てっきり魔女なのかと思ったから、」黒沢はウインクして白鳥の髪を触る。「普通の子だったんだね、ごめんよ、悪気はなかったの、でも、僕が二人を止めなかったら、マワリちゃんがきっとやっていたでしょう、ていうか、やりたかったんじゃないの?」
「あら、そんな、私、そんな乱暴な女の子じゃ、ありません、」亀戸は恥ずかしそうな表情を一度見せて、悪い目をして庭の中空で羽ばたく蝶を見ていた。「ありません、そんな、ウタマルがそう私のことを思っているのなら、完全な誤解です、完全な誤解、乱暴なのは、私の心に住み満つ獣」
「マワリの中はきっととても住みやすいでしょうね、」椎本はとても愉快そうに笑って言った。「マワリは二つの顔を自由自在に操る素晴らしいキャラクタ、外国の神様も船に乗ってやってくるほどにね」
「……私、」亀戸はクスリと手を唇に当てて微笑んだ。「ヨネの言っていることが、さっぱり分かりませんわ、冷たい水を蛇口から出して湯呑に注いで、思慮浅い女の子の唇を濡らしてあげているというのに、本当にさっぱり分かりません」
「そうね、」椎本は適当に相槌を打って、黒沢に顔を寄せて、目を瞑ったまま唸っている白鳥の胸元を覗き込んだ。椎本は手を伸ばして大きく開いている胸元をさらに広げて、小さく膨らむ白い肌を確かめた。「ああ、なるほどね、なんでだろうと思ったの、どうしてこんな思慮浅そうな女の子が先生の使用人なんてやっているんだろうって、推測通り、縫合した痕がある、とても洗練された技の痕、触っただけで先生の優しさが伝わってくるわ」
椎本は人差し指と中指をゆっくりと白鳥の胸の上で歩かせる。
「ひゃひゃ、」鳥のさえずりのような高い声を白鳥は出した。脳みそがキュウっとなる声だ。白鳥はさえずりながら黒沢の袖にしがみついて悶える。「ううん、触らないで下さいぃ、えっちぃ」
「でも、不揃いな縫合の痕もあるわね、一体どういうことかしら?」椎本は指を肌から離して再びキセルを吸って、煙を吐いた。「ねぇ、ヒヨコ、一体どういうことなの?」
「ヨネちゃん、」黒沢は訂正する。黒沢はすっかり肌蹴てしまった白鳥の着物を正した。白鳥はまだ体が熱くて、姿勢を保てないほど力が抜けている。「ヒヨコちゃんじゃないよ、ヒナちゃんだよ」
「ああ、そうだったわね、白鳥ヒナって言っていたわね、」椎本は早口で言う。「で、ヒヨコ」
「もう、ちゃんと覚えてあげてよ、」黒沢は諌める。「名前を呼んでくれないって寂しいことなんだよ」
「違うってば、ヒヨコっていうのはニックネーム、距離が近づいた証よ、ヒヨコも嬉しいでしょ?」
白鳥の返事はなかった。「……すぴー、すぴー、すぴー」
黒沢が鼻提灯というものを見たのは初めてのことだった。
「あら、寝ちゃったみたいですね、」亀戸は白鳥の顔を覗き込んで、執拗に研磨され、光沢のある爪を白鳥の頬に立てた。「とても幸せそうな寝顔ですね、どんな夢を見ているんでしょう、素敵な夢でしょうね、壊しがいのある夢かしら?」
「マワリちゃん、駄目だよ、布団を敷いてあげて」黒沢は白鳥の頭を膝の上に乗せて言う。
「あら、なんのことでしょう?」亀戸は分かりやすくとぼけて目を細めて立ち上がって部屋の押し入れを開いた。
椎本はキセルの始末を付けていた。「ねぇ、ウタマル」
「なぁに、ヨネちゃん」
椎本の横顔を見ると、まだ遠い目をしている。「ヒヨコは私の知らない先生を知っているのよね、ヒヨコが言っていたように先生がヒヨコに優しかったらなら、それが本当だったら、私は我慢できない、我慢できないよ、絶対」
「先生は優しかったよ、僕にも」
「私はウタマルやマワリにも嫉妬したよね、でも二人と先生の関係は恋じゃなかったから、私は我慢できた、けど、ヒヨコは先生に恋しているんだよね、初めて先生に出会ったときの私にそっくりで、熱っぽくて、先生の近くにいられるなら死んでもいいと思っている、近づく女を殺してもいいと警戒しているわ、龍みたいに、結婚してくれなきゃ、私、安心して眠れない」
黒沢は微笑みながらも言うべきことが見つからない。いや、何も言わないのが正解なのかもしれないけれど。「……あ、そういえば、大坂に龍が出たんだってね、街の猫たちが言ってた、銀色の龍」
「……先生、どこ行っちゃったのかな? 私の手紙は届いたのかな? 失踪なんて、先生に限ってありえない、どういうことだろう、よく分かんない」
椎本の目から涙が落ちた。きっと黒沢の編んだ魔法の効果が消えたのだ。心を穏やかにするブルースの残響が消えたのだ。黒沢は慌てて顔を背けた。椎本には強い女でいて欲しかったからだ。遅れて椎本も黒沢から顔を背けて、袖で涙を拭いた。
「……泥猫のブルースが泣かせたんだから、悲しくて泣いたんじゃない、私はヒヨコじゃないんだから」椎本は強い口調で言った。
亀戸が敷いた布団に白鳥を寝かせた。亀戸は水で濡らした布をお凸に乗せて白鳥に優しいことをしている。起きる頃には正常に会話が出来るくらいに回復するだろうと黒沢は思う。音の力というものはあくまで一時的なものだ。
「警察は先生を探してくれるのよね?」ヨネが聞く。
「うん、大橋さんは頼りになりそうな警察だよ」
「警察にはいい思い出がないの、」ヨネは金色の髪を払った。「警察は間違ったことを強引に正しいことにしようとして、間違えるから」
「うーん、大橋さんはそういうタイプじゃないと思うけどなぁ、ユーモアがあって、学者っぽいっていうか、一緒に来ていた刑事さんだって、学校の先生でもしてそうな優しそうな感じだったし、」黒沢は警察の二人を思い浮かべながら提案する。ヨネはきっと期待しているからだ。「……じゃあ、街を歩いて猫に聞いてみようか?」
「……うん」ヨネは甘えるような可愛い声で頷いた。
滅多に出て来ない反応だから、黒沢はニヤリとしてしまう。
「何よっ、」ヨネは唇を尖らせた。「何が可笑しいの」
「頬っぺたがピンク色だよ」黒沢はからかう。
「なっ」ヨネは両手で頬を隠す。
「そんなに先生のことが好きなんだね」
「あ、当たり前じゃないっ、」椎本は唾を飛ばさんばかりに主張する。「この恋は誰にも負けないわ、ヒヨコにだって、未来の二人を邪魔する誰かにだって、……ウタマル」
「うん」黒沢はヨネの激しい気持ちを肯定する。
「ありがとう」
「いいんだよ、探す人がいるのは、僕も一緒なんだから」
「見つかるといいわね」
「見つけるよ、絶対」黒沢は小指を立てた。
椎本は小指を黒沢の小指に絡みつける。
「ああ、お風呂を沸かさなきゃ、マワリ、水を貯めて」
空がオレンジ色に染まりかけたまだ夜より早い黄昏の時間に椎本は提案した。