三
邑田ヨウスケ大坂帝国大学教授の失踪の知らせが南警察署に舞い込んできたのは書類仕事が全て片付いてこれから遅めの昼食をとろうと考えていたときだった。特殊生活安全課の新田フエコが発明した最新型の黒電話のベルの音は軍の警報機のように煩い。刑事課の鳴滝セイイチのデスクと、その黒電話の番をする葭谷マイコのデスクとの距離はざっと十メートルはある。その間に十三人の刑事がいたが、ベルの音に顔を上げたのは鳴滝だけだった。受話器を耳に当てる葭谷と目が合った。葭谷は口元だけ僅かに微笑ませた。葭谷は流行の丸眼鏡の似合う署内一の美人だが、鳴滝はしまったと思った。三秒ほど腕を組んで悩んでから、急いで席を立ち、刑事課のフロアから廊下へ出た。しかし、グレイのスーツのどのポケットにも立ち食いそばが食えるだけの小銭が入っていないことに気付いて慌ててデスクに戻る。鳴滝のデスクは窓際で、廊下から距離がある。
デスクの上にあった財布を手にしてすぐに踵を返す。葭谷の方をチラリと見る。電話はまだ続いている。「よし」と歩くスピードを速めてフロアからの脱出を試みる。しかし。
「おっとぉ、」丁度フロアの出入り口で大橋アユムと出くわした。「お、鳴滝ちゃん、どこ行くんだ、飯か? 遅いな、もう三時じゃないか、シンデラ風に言うと、おやつの時間ってやつだな、ははっ」
大橋は鳴滝の三つ上の二十九歳。しかし高等学校を出てすぐに警察に勤め始めた鳴滝の方が職務経験は長かった。大橋は大坂帝大で、博士号を取得してから警察に入った変わり者で、髪型もその性格を表しているように長く乱れている。よく動く大きな目をさらに大きく見せたいのか、目は黒いラインで縁取られている。エジプトの壁画に描かれた古代人のメイクのようで不気味だと鳴滝は思う。大橋は行儀悪く楊枝を口に咥えていた。長い昼食の時間を終えて帰ってきたのだ。鳴滝は舌打ちしそうになった。しわ寄せは全て、鳴滝にくるのだ。
「ええ、やっと飯です、いかんせん、無駄なデスクワークが多くて」
鳴滝の声には苛立ちが出ていた。大橋の横を通り過ぎようとしたところで腕を掴まれた。鳴滝の方が大橋よりも頭一つ分、背が高い。大橋は下から大きな目で鳴滝の目を覗き込んだ。鳴滝は目が離せなくなる。分析不可能な芸術作品に見せられている状態。大橋は度々こういうことをしてくるから、鳴滝は非常に困る。「……なんすか?」
「いいや、」と大橋は目を細めて笑顔になる。「なんでもないぜ、おいしいもの食べてきな」
大橋は鳴滝のズボンのポケットに手を入れた。ビクッとなる。こういうこともたびたびある。最初やられた時は、金をポケットに入れてくれたのかと期待したが、なんてことはない、外装はシンデラ製の一本のシガレロだった。がっかりしたが、しかし吸って煙を吐いてみると、形容しようもないほど上手かった。鳴滝は全く興味のないフリをしてそのシガレロについて聞いてみたことがある。すると大橋は話題を変えた。なんとなく、違法なものだろうと推測した。しかし糾弾する気にはならない。こうやってたまに一本、ポケットに入れてくれるからだ。鳴滝は内心喜んでいた。遅い昼休憩の不満も消えた。必死に冷めた顔をする。こんなもので騙されませんよ、という顔で大橋を見る。大橋はきっと鳴滝の気持ちを全て理解している。大橋は眉を持ち上げて腕を解いた。こういう微妙なバランスの関係も、まあ、悪くないのではないかとシガレロを吸うたびに思うのだ。騙されているのに違いないのだろうが、とにかく、今は、そばを食べて、公園のベンチに座ってシーソする小さな魔女たちをぼんやりと見ながら不思議なシガレロを吸いたい。
しかし、その未来は邪魔される運命だった。
受話器を乱暴に置く音が聞こえた。
「鳴滝さーん!」葭谷の声だ。刑事課の怒号の飛び交うフロアでも凄くよく通る声。耳を塞いでもきっと聞こえる声だ。「鳴滝さーん、仕事ですぅ!」
そのタイミングで、鳴滝の半身はフロアにあったが、鳴滝は葭谷の声を無視した。逃げるように廊下を走る。すでに気持ちはそばなのだ。捕まってたまるかと階段を目指す。階段を二段飛ばして駆け下りる。四階から一階まで降りる頃には息が切れていた。出口は階段を降りて、総務と交通課の脇を走った先にある。扉は常時開放されている。鳴滝は逃げ切れると思った。
そのときだ。葭谷のアナウンスが署内に響いた。この設備も特殊生活安全課の新田が取り付けたものだった。『鳴滝さーん、逃げたらあきませんよぉ』
葭谷の声は署内でも評判が高い。その声に総務と交通課の人間が反応して、鳴滝を見た。各々、訓練された素早い動作で鳴滝に近づいてくる。交通課の婦警と談笑していた副署長も葭谷の声に反応して、鳴滝の前に立ち塞がる。その真剣な表情は二年前の神風連闘争に見せたものだった。鳴滝は機敏な動きで警察の追跡から逃げた。手はすでに外の空気に触れていた。逃げられたと思った。
しかしその瞬間には、手錠をかけられていた。
頭の中が白く染まる。
「逃げちゃ駄目だよ、」大橋の声だった。横に太いロープがぶら下がっていた。天を仰いだ。四階の窓が開いていて、そこからロープが落ちている。葭谷の憎たらしいチャーミングな笑顔とピースサインが見えた。大橋はピースサインを返してニッコリと笑った。大橋は葭谷の従順な犬だ。「鳴滝ちゃん、私はね、マイコさんが悲しむ顔は見たくなのだよ、悪いけれど」
「……ほんと、」鳴滝は息を吸って叫んだ。「あんたって人は!」
「連れていけ」大橋が言うと、様々な部署の警察が鳴滝を拘束して持ち上げた。大橋はマッチに火を点けて、口に咥えたシガレロの先端を真っ赤に染めた。




