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朱羽ドリーミン  作者: 枕木悠
プロローグ
2/14

 チャイナドレスを着た西洋人というのは大坂の街では嫌でも目立つ。金髪で碧眼のハンナ・シーボルトは一か月間上海に滞在していた。それから豪華客船でワインを飲みながら大坂に来た。桜ノ宮の帝国ホテルのスウィートルームにチェックインしてシャワーを浴びて黄色のチャイナドレスを着て環状線に乗って、改札を通って今は心斎橋を歩いている。ハンナは身分の高い家柄だが、お付きのメイドや執事などはいなかった。ボディガードもいない。その代わりにドレスの下に黒くて硬いピストルを忍ばせている。いざという時はその引き金を引けばいい。ファーファルタウで三発、シンデラで二発、上海で十六発、合計二十一発火薬を炸裂させた経験がハンナの歩みを堂々とさせていた。

 スリットから覗く白い太ももが日本人を魅了している。

 古い日本人は、その外的な美貌に警戒する。

 ハンナは集中する視線に僅かな高揚を感じてわざと微笑んで。

ハンナは賑やかな心斎橋のメインストリートから、舞台袖に下がるように背の高いビルとビルの隙間の路地へ入る。

ハンナは咳き込んだ。生ごみのキツイ匂いが漂っていたからだ。ごみの傍では猫の集会が開かれていた。ハンナは猫たちの間をすり抜けた。猫たちは素早い動きで解散していった。路地の奥へ進むと湿度が高くなる。太陽の光が直接届かない、風が通らない場所だ。

『虎屋』

 と書かれた暖簾が見えたのはそういう場所だった。黄色の布に黒い文字で虎屋。暖簾は色あせている。虎屋の建物は江戸時代のままだった。曾祖父に見せてもらった色の付いていない写真のままだ。ピストルの炸裂音だけで壊れそう。

 ハンナは虎屋の戸を開いた。立てつけが悪く、力が必要だった。

「ごめんください」と流暢な日本語をハンナは発声した。

「いらっしゃい」と力のない応答が奥から返ってきた。

 虎屋の中は骨董屋のように薄暗く、棚の配置や品物が雑多に置かれているところなどは質屋だった。棚の上に並んでいるのはほとんどがお湯を保温する魔法瓶だった。ハンナはそれらに興味を示すことなく、奥の座敷で巨大な虎のぬいぐるみにもたれてアイスキャンディを片手に雑誌を読んでいる亭主に近づいた。

「ん?」亭主は顔を上げてハンナを見た。「なんや、君、外国人?」

 虎屋の亭主はまだ若かった。少女である。髪は短い。マッシュルームヘア、日本でいうところのおかっぱで、前髪は眉の上で一直線に切り揃えられていた。その眉もきちんと細く整えられている。もしかしたらファーファルタウのアイドルバンドの髪型を真似しているのかもしれない。しかし、髪の色が完全な黒だから彼女が施した演出は期待通りの効果を産んではいない。とても幼く見える。虎のぬいぐるみもアフリカにいる本物をデフォルメした可愛らしい造りをしているから余計だ。アイスキャンディも余計だ。ジュニアスクールの生徒に見える。雰囲気はとても落ち着いているのに。そのアンバランスが実は、亭主の狙いなのだろうか。

 ハンナは亭主を観察して、いろいろなことを考えながら頷いた。「うん、ドイツ人」

「ふうん、日本語上手やねぇ」亭主はそんなに珍しがる様子もなく再び雑誌に目を落とした。

「うん、ひいおじいちゃんが昔日本で暮らしていたことがあってな」ハンナは言いながら座敷に腰を降ろした。

 勝手に座ったからだろう。亭主は雑誌を閉じて着物の襟を正して不審な目でハンナを見る。「……黄色くて、素敵なドレスやね」

「畳の上で回って見せましょか?」ハンナは亭主に顔を近づけた。

「なんやの、君ぃ?」亭主は顔を離した。

「魔法瓶を、」ハンナは細くて長い人差し指を立てた。「一つ、頼んます」

「魔法瓶なら店に並んでるやろ、そっから選びや」亭主はつっけんどんに言う。

「亭主、名前は、なんやったかな?」

「虎印の魔法瓶の小虎っていうたら、心斎橋界隈で知らんもんはおらん」

「トラちゃん、私な」ハンナは顔を近づける。

「ホンマに、君、ドイツ人かいな、」亭主は顔を逸らしながら、虎のぬいぐるみが邪魔して後ろに引けない。「関西人やろ、イントネーションが完璧やで、群馬からこっちにきた新田っちゅうやつよりも上手いで」

「そんな、照れるって」ハンナは後頭部を触った。

「照れんでええって」

「せや、私な、ハンナ・シーボルト、実はな、シーボルトのひ孫やねん」

 そこで小虎の目の色が変わった。表情も変わって、顔を近づけてきた。「ホンマか?」

「ホンマ、」ハンナは真顔で言った。「……トラトラトラ、トラトラトラやって」

「……とらとらとら?」反芻しながら小虎は何かを思い出したようだった。「……あっ、暗号?」

 それから三秒間睨めっこみたいに小虎はハンナを見つめた。そして小虎はゆっくりと顔を崩した。「……どうやらホンマらしいね、シーボルトはんのひ孫っていうのは」

「トラちゃん」ハンナは顔を崩した。そして両手を広げて小虎にキスを迫った。

「シーボルトはんがキス魔やってのは、本当やったんやなぁ、」小虎は予測していたかのように顔を左に向けて唇と唇が触れ合うことを避けた。頬は傷が出来そうなくらいハンナに吸われていた。小虎はハンナの顔を、両手を使って強引に離した。「ハンナはん、もうええやろっ!」

「あっ、ごめんな、その、」ハンナは何か気持ちのいいことをした直後の表情をしている。そして照れくさそうに言う。「あれや、その、とても吸いがいのある、頬っぺたやね」

「え、そそ、そんな、照れるって、」小虎は後頭部を触った。この反応は気のない振りして実はかなりドキドキしていたに違いなかった。それからはっとなって言った。「いや、照れんでええって!」

「可愛いなぁ」ハンナは小虎の頭を撫でた。

「ええよ、ええよ、好きにさせといたる、シーボルトさんには恩があるさかい、」むっつりと腕を組んでそう言いながらも、表情は気持ちよさそうにしている。「ほんで、魔法瓶がいるんやな、待っとき」

 小虎は立ち上がって押し入れの襖を開けた。そして半身を暗い押し入れに突っ込んでゴソゴソと何かを探して、見つけた。小虎はそれをハンナに渡した。片手で握って隠せるほどの小さなガラス瓶。コルクで栓がされていて、首から下げられるように紐が通っていた。瓶には虎の文字に丸のマーク。それから規則性のない模様がびっしりと細い線で描かれていた。ハンナが求めていた魔法瓶はこれである。この魔法瓶が置いてある店は日本で五店舗しかない。

「おおきにな、」ハンナは魔法瓶を見つめながら聞いた。「いくら?」

「金なんてええって、そんなん」

「そんな、悪いって」

「ええの、ええの、大学の研究室に定期的に納品してるさかい、こっちは結構稼いどんねん」

ハンナは疑いの目を向けた。「……嘘言わんでええ」

「嘘ちゃう、嘘ちゃう」小虎は顔の前で手をひらひらさせた。

「大学の先生が魔法瓶を何に使うんや?」

「さあ、なんやろ?」

「その顔は知ってる顔や」

「うん、」小虎は笑って誤魔化す。「でも詳しいことは知らん、本当やって、その先生の専門は魔法工学で、魔法瓶に閉じ込めた魂で何かをしようとしてんねん、それは言われへん、その先生との約束やから」

「……ふうん、」ハンナは目を細めて、とても速度のある想像を巡らせる。一度、目を瞑ってゆっくりと開ける。「……魔法瓶の存在も、魂の存在だって、私が小さい頃までオカルトやったっていうのに、信じられへん、トラちゃん、私、口硬いねん、しゃべっても大丈夫やって」

「やっと時代が追い付いたってことかな、」小虎はハンナを無視して言って、息を吐いて、遠い目をする。「……そうやないな、時代が魔法瓶を必要としてんねん」

ハンナは小虎から秘密を聞き出すことを諦めた。そして狭くて汚い部屋を見回して言った。「……そやったら、なんでこない、家がボロいん、畳みも変えてないやろ、稼いでるんやったら、どうして店を建て替えるなり、引っ越しするなりせぇへんの?」

「ふふん、理由があんねん、」小虎は何か企んでいる目をした。「まあ、楽しみにしとき」

「楽しみ?」ハンナには訳が分からない。「楽しいこと? 何があるん?」

「次に日本に来たとき、ハンナはん、腰抜かす思うで」

「ホンマかいな?」ハンナは笑った。「うん、じゃあ、楽しみにしてる、おおきに、うん、とにかく魔法瓶、有難く貰っておきます」

 ハンナは魔法瓶を首に下げた。大事なものだから、ドレスの中に入れる。魔法瓶は丁度、ハンナの豊かな谷間に収まった。

「うん、それでええ、それより、ハンナはん、どうして日本に? わざわざこの店に寄りに来たわけちゃうやろ?」

「龍のことを聞いてな」

「ああ、ホンマ、大変やったんやから」小虎は楽しそうに言う。

「上海で噂になってたで、大坂に白銀の龍が出たって、千年級の体躯をした龍、グリーンランドの伝説のドラゴンに姿が酷似、鱗はプラチナのように輝き、爪は太く鋭く、眼球は純粋なゴールド、巨大な翼は大坂の街を太陽から隠し、絶え間なく続く突風に大坂城の天守が破壊された」ハンナはいわゆる標準語でしゃべっていた。

「天守だけやないで、石垣を残して大坂城のほとんどが壊れてもうた、丁度今、修復作業中やけど、元通りになるのは一体何年後やろな、私はもうこの際、最新の建築技術を使って立て直したらええと思うんよ、エレベータもつけたりして、中は資料館にでもしたらええ、外見はお城の歴史ミュージアムや、素敵やない? それにあの一帯の建物もほとんど龍に壊されてしもうたから、もういっそのこと公園にでもしたらええと思うんよ」小虎は本当にそう考えているらしい。表情は真剣だった。

「ソレは素敵、」ハンナは手の平を合わせて言った。「でも、もっと素敵なのは、その龍は処女に絡みついて姿を発生させた魂だったってこと、龍の魂は処女に完全に憑依出来なかった、処女の魂が強かったのか、理由は分からないけれど、とにかく大坂城一帯を公園にしてしまうほど暴れ回ったのはそのせい、龍は本来、とても理性的で、狡猾、魔法使いに対しては犬のように従順」

「うん、その通りや、でも、その事実を知っているのは、魔法使いと少数の専門家、街の皆はただ龍が急に現れて暴れたものだと思っとる、龍なんて大坂じゃほとんど見られんし、お伽噺程度の知識しかないから、当然やな」

「龍を誰かが打った、だから、大坂の街から龍が消えた、今とても平和な街」

「うん、皆同じ恐怖を味わって、なんていうか、優しなってる、いいことやな」

「打ったのは誰?」ハンナは小虎の目を見た。「私と同じ技術を持つ人がこの街にいて、龍の魂を魔法瓶に閉じ込めたはず、千年龍の魂の残像は世界のどこでも観測されていない、誰かが閉じ込めた、推測だけれど、龍の魂は虎屋の魔法瓶に閉じ込められていると思う、私と同じ技術を持っているのは、ねぇ、トラちゃん」

「うん、そうや、この大坂の街を救ったのは、魔法工学の専門家の先生、龍の魂も先生の研究室にあるで」

「ありがとう、おおきに、」ハンナは関西弁にイントネーションを変化させた。「やっぱりそうか、トラちゃんのところに来てよかった、魔法瓶もそやけど、トラちゃんのところに来たのは、トラちゃんが事実を知っていると思ったから」

「いいお土産話になったやろか?」

「トラちゃん、先生の名前、教えて」

「邑田ヨウスケ教授、結構男前なんやで、歳は二十五くらいかな、まだ独身や、独特の雰囲気があるから、普通の女子は好かんやろな、私はああいうミステリアスな雰囲気嫌いやないんやけどな、あ、勘違いせんといてな、別に好きってわけやない」

 小虎は聞いてもいないことまでしゃべってくれた。ハンナは嬉しくなる。「邑田ヨウスケ教授、……大坂帝国大学?」

「うん」

「いつも、そこに納品してるん?」

「うん、邑田先生の研究室にね、壬申館の二〇三号室」

「……壬申館の二〇三号室」ハンナは反芻した。

「月一回の納品、私、最近それが楽しみで仕方ないねん、研究室に児玉君っていう院生がいてな、児玉君とキャッチボールをするのが私の楽しみやねん、内緒やでハンナはん、私、児玉君のことめっちゃ好きやねん、でもな、同じ院生の寺内君も横顔が素敵でな、優しいねん、寺内君のことも好きやねん、二人とも恋人はいないみたいやけどな、二人とも素敵やから、誰かに奪われないうちに、早く決めなあかんと思うねん、なぁ、ハンナはんはどう思う?」

「二人とも自分のものにしたらええんちゃう?」ハンナは笑顔で回答した。「二人に限らず、素敵な人が現れたら、うん、トラちゃんきっと惚れっぽい性質だから、きっと未来にも好きな人が出来ると思うんだけど、そのたびに自分のものにしてしまえばいいんちゃうの、魔女ってそういうものでしょ? 強欲なコレクタ」

「……ハンナはん、」小虎は一度固まってから、顔を明るくした。「それめっちゃいい考えやん!」

「自分の気持ちに正直になるのは大事なことやで、」ハンナは立ち上がって言った。「ほな、私そろそろ行くわ」

「え、もうか?」小虎は僅かに寂しそうな顔をする。

「うん、そろそろ日も落ちるし」

「日本にはどれくらい?」

「しばらくおるかな、帝国ホテルのスウィートルームに、長い休暇を貰っているから」

「ハンナはんは病院に勉めているん? それとも研究者?」

「ドュービュレイ国立病院っていうところにね」

「凄い、一流やね」

「ううん、」ハンナは首を横に振ってから、ドレスの下のピストルを触った。「まだまだ」



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