四
「刑事さん、お疲れ様」
鳴滝は縁側で夕日をぼんやりと見ながら、船見が淹れてくれたコーヒーに口を付けた。
「ああ、なんていうか、仕事をしたって感じですね」
鳴滝はくたくただった。椎本のリストにあったものを全て集めて漏陽庵に戻ってから、様々なことを手伝わされた。さすがに針と糸を使うことをしなかったが、患者に軟膏を塗ったり、包帯を巻いたり、妊婦の夫を淀屋橋のビジネス街まで呼びに自転車を漕いだりもした。産まれた子供は男の子だった。鳴滝は涙がこぼれそうだった。
全ての患者の対応が終わったのは夕方。日がすでに半分隠れてしまっていた。椎本はまだ診察室に籠ってカルテの整理をしている。邑田は月一回の診療とは言え、正確なカルテを残していたらしい。本当に、偉い人は凄いなと鳴滝は感心している。邑田は大坂の街にいなければいけない人だと強く思う。「……一体、邑田教授はどこにいるんでしょうね?」
「うーん、昨日も『D』に来てくれた時に言ったと思うけどさ、」船見は膝を抱き締めて鳴滝の隣に座っている。「先生ならきっとなんともないから大丈夫よ、刑事さんも他の仕事があるでしょうに」
船見は喫茶店のオーナだが、以前は邑田の助手のようなこともしていたらしい。椎本とは古い付き合いで、昨日、鳴滝から話を聞いた船見はすぐに漏陽庵に訪れたそうだ。再会を喜んで、椎本に結婚云々の話を聞いて驚いて、それから月に一度の開業日のことを伝えた。椎本はすぐに了承して、今日は忙しい日になった。
「船見さんは、心配じゃないんですか?」
「全然、」船見のふわふわした笑顔は本当に、一かけらも邑田のことを心配していないようだ。「あ、でも、先生の研究室で、なんか物騒なことがあったんだよね、先生の研究室の学生に聞いたんだけど」
「ええ、そうなんですよ、僕たちが見張っていたんですけれど、面目ない、金庫を開けられて盗まれてしましました」
「盗まれた、何を?」
「いえ、それは分からないんですが、はい、犯人は絶対に僕たちが捕まえて見せますから」
「ふーん、分かった、でも警察のことはあんまり信用してないから、そんなに気負わなくてもいいよ、刑事さん」
「……はい」
鳴滝が肩を落として複雑な表情をすると船見は朗らかに笑った。「冗談よ、落ち込まないでよ、刑事さん、それにしても、盗まれるようなものなんて、先生、持ってないはずだけど」
「未発表の論文とか、データとか、いろいろあるでしょう?」
「それがあるとしたら先生の頭の中、」船見は自分のこめかみをとんとんと叩いた。「金庫じゃない、……あ、もしかしたら、魔法瓶かな?」
「魔法瓶? 魔法瓶というか、変な模様が描かれた小さな瓶なら研究室の棚にありましたよ、虎って書いてある瓶、何か特殊な実験器具かと思って一応数を数えておきましたけど、手を付けられた形跡も、」
「ううん、それは空っぽの魔法瓶だよ、」船見は首を横に振った。「金庫には魂の入った魔法瓶があったかもしれない」
「魂?」鳴滝は首を傾げた。「すいません、僕、魔法とか、そういうの、詳しくなくて」
そのおり、船見の隣に白鳥が腰かけた。
「ふひぃ、疲れたよぉ、もうぉ、人使いが荒いよぉ、荒すぎるよぉ」
白鳥は脳髄がキュウっとなる可愛い声で言って、体を船見に預けた。
「はいはい、よぉく頑張ったねぇ、偉いぞぉ」船見は白鳥の白髪が多く混じった髪を触る。
船見と白鳥は昨日会ったばかりらしい。邑田は新しく使用人として雇った白鳥のことを船見には話していなかったようだ。船見のことを知っていればきっと白鳥は警察に電話はかけてこなかっただろう。
「ねぇ、ヒナちゃん、先生、首に小さな瓶をぶら下げてなかった?」
「瓶?」白鳥は顔を上げて首を傾げる。「先生がアクセサリぃを付けているのなんて見たことないよ」
「そう、じゃあ、もしかしたら、研究室の金庫の中に入れていたのかもしれないね」
「魂が入った、魔法瓶ってやつをですか?」
「うん、違うかもだけど」
「んー?」白鳥は首を傾げている。「なんの話?」
「なんでもない、なんでもなーい、ヒナちゃんは知らなくていい話」
「えー、気になるよぉ」
船見は白鳥の顔をじっと見て、優しく微笑んでいる。白鳥はそう言いながらも話に興味はない様子だ。船見の匂いを嗅いで柔らかい表情をしている。
そろそろ日が完全に落ちる。
「刑事さん、戻らなくて大丈夫なの? 散々手伝ってもらってあれだけど」
「別に構いませんよ、ああ、そうだ、椎本さんに写真を見てもらわないと」
「写真?」
「ええ、邑田教授の研究室で倒れていた女性の写真です、」鳴滝は懐から写真を取り出して船見に見せた。「船見さんも見てみてください、目は閉じていますけれど、なんとなく椎本さんに似てませんか、もしかしたら親戚かなにかだと思って」
船見は写真を手にしてじっと観察している。「……確かに似ているわね、ドゥービュレイの人かしら、それにしても似てるわね、間違えるほどではないけれど」
「あ、ホントだぁ」白鳥も写真を見て言う。
「船見さん、何か心当たりは?」
船見は首を横に振った。「長崎のドゥービュレイ系の塾にも、こんなにヨネちゃんと似ている人見たことない、ヨネちゃん姉妹いないし、従妹もいなかったはず」
「なるほど、ありがとうございます、もうカルテの整理は終わりましたかね、椎本さんに聞いてきますよ」
鳴滝は写真を手に立ち上がった。「うーん」と伸びをした瞬間。
空に太陽が再び昇り、大坂の街を朱く染めた。