二
火曜日の午前九時過ぎ、黒沢ウタマルは地下鉄に乗って梅田に行った。伊勢丹で洋服を揃え着替えた。ピンク色のシルク生地のカーディガン、チェック柄のミニスカート、首元には臙脂色のリボン、そして髪を二つに結んだらすっかりモダンなガールになって梅田の街に馴染んだ。黒沢が大坂に来た目的の一つが果たされたわけだ。
黒沢が伊勢丹の表門から出たのは正午過ぎ、すると猫が寄ってきた。一匹や二匹ではなく、三十匹を超える野良猫、あるいは首に鈴を付けた猫が梅田に立ち並んだ真新しいビルとビルの隙間から出てきて黒沢の後ろを行進し始めた。黒沢は革靴の底を鳴らして歩く。小さな黒猫が黒沢の肩に乗った。
「ねぇ、皆、教授がどこにいるのか知らない?」
黒沢は猫たちに語りかける。その姿は周りから完全に浮いている。猫たちは首を傾げている。
「うーん、大学の辺りから探した方がいいのかなぁ」
黒沢が腕を組んで悩むと肩に乗った黒猫が鳴く。「にゃあ」
「……え、ロウマン座?」
黒沢は黒猫の目を見る。その目は空に向いている。正しくは伊勢丹と連なる大坂駅ビルの最上階の方。梅田周辺で一番高い場所だ。はっと視線を降ろすと、そのロウマン座という劇団のポスタが額に入れられて、ビルのエントランスの支柱に飾られている。黒沢は近づいて観察してみる。一本の箒に三人の魔女が跨っているという、ハリウッドの活動写真のポスタ同様全くストーリィが想像できないものだった。舞台のタイトルは『イエロー・ベル・キャブズの厳戒態勢』。
開園時間は午後一時。ちょうどいい時間だ。演劇なんて完全に教授の趣味ではないし、ロウマン座と教授が全く関係ないとしても、黒沢は少し後ろ髪を引かれた。黒沢は猫たちと別れ、ビルのエレベータに乗った。そして最上階へ。
フロアは女の子たちで混雑していた。ホテルのロビーのように、床は暗い色調の絨毯。BGMは舞台女優の歌う『リリィの面影』。黒沢は賑やかな空気に高揚しながらチケット売り場に並んだ。チケットは活動写真三回分の値段だった。演劇にしては良心的な値段だと思う。チケットはしばらくして完売したようだ。グッズ売り場にも長蛇の列。すごい人気だ。そしてフロアを見回してみると女の子たちじゃなく、スーツ姿のサラリーマンや男子学生の姿もちらほらあった。とても居心地が悪そうだ。教授もそういう人たちと一緒で、ロウマン座に足しげく通っていたのかもしれないと想像して、椎本ヨネには黙っておこうと黒沢は思った。
フロアの南側は一面がガラス張りになっていて、手前には円形のソファが並んでいた。ソファに座って女の子たちは談笑している。黒沢は最上階からの大坂の街の景色を眺めようと思って、近づいた。
「うわー、すごいなぁ」
思わず声を上げてしまうほどの景色だった。高い場所だから興奮したのかもしれない。フロアは騒がしいから黒沢の素っ頓狂な歓声は目立たなかった。椎本と亀戸と白鳥と一緒にみたい景色だと思った。同じ気持ちになってくれる誰かがいれば、もっと楽しいだろうと思う。三人は今、漏陽庵で忙しくしている。残念だ。
「うん、すごいね」
「え?」
懐かしい声。黒沢は声の方を見た。やっぱりそうだ。黒沢に縫合された魂に僅かに残る記憶の中の彼女と照合する。一緒だ。ユメだ。手すりにもたれていた。間違いない。素晴らしい偶然。黒沢はユメが近くて、心臓のブレーキがはずれそうだった。もっと近づいて、抱き締めて、キスして、顔を舐めたい。でも、ユメは黒沢のことなんて知らないし、一年前に死んだ黒猫のクロの魂が黒沢の魂に縫合されているなんてことを説明したってきっと信じてくれないと思う。だからスローテンポで近づいていきたいと思う。
黒沢は自分の顔がピンク色に染まっていないか心配だった。
「あ、あのぉ」黒沢の声は震えていた。
しかし、反応がなかった。
ユメは、とても冷めた顔で大坂の街を眺めている。黒沢の声に反応したのも、もう忘れているような感じだ。表情に力がない。気の強そうな吊り目にも角度がない。着ているものも伊勢丹のマネキンのコーディネイトのようにセンスがない。原色の使い方がなっていない。ユメらしくないと思った。黒沢に、正しくはクロにオシャレを教えてくれたのはユメだ。大坂に来て、ユメは変わってしまったのだろうかと心配になる。
とにかく、もう一度、ユメの綺麗な横顔を見ながら、深呼吸をして、話しかけてみる。
「ねぇ、あの建物はなんていうの?」黒沢の声ははっきりしていた。
「え?」ユメは反応した。困ったような目で黒沢を見ている。でも、目が合ったのだ。嬉しかった。「……えっと、どの建物?」
「ほら、あれだよ、あれ、」黒沢は拳一つ分くらいの距離まで一気に詰め寄った。「シラフュトフュルムのエッフェル塔みたいな」
「ああ、通天閣よ、知らないの?」
黒沢は首を横に振った。「僕、長崎から来たんだ」
「ふうん、そうなんだ、長崎からね、」ユメの表情は僅かに曇った。「旅行?」
「うん」
「一人で?」
「お姉ちゃんと妹と三人で、でも今は一人」
「ふうん、」ユメは気のない返事をしてから、黒沢のことを見つめていた。ユメも感じてくれたのかもしれない。ユメは笑って呟いた。「……まさかね」
「一人なの?」黒沢は聞いた。
「そうよ、……実は家出中なの、」ユメは自虐的に笑ってから黒沢に顔を接近させて、耳元で言う。「私が市長の娘で、もう全部嫌になって、死に場所を探していて、このビルを見つけて、このビルの屋上から飛び降りようと思ってエレベータに乗って、気付いたらチケットを買っていて、まぁ、死ぬ前に舞台を見るのも悪くないかななんて思いながら、大坂の街を眺めていた、なんて言ったら、信じる?」
黒沢は反応に困ったが、微笑みで返した。「そんなの信じないよ」
「あははっ、」ユメは愉快そうに笑った。「そうだよね、そんなの信じるわけないよね」
「そうだよ、なぁに、大坂ではそういうのが流行ってるの?」
「うん、大流行」
「嘘だぁ」
「……私、ユメ、」ユメは角度のある目で黒沢を見ている。「アナタは?」
「黒沢ウタマル」
ユメは目を大きくした。「……クロちゃん?」
「ん? なになに?」
「ううん、なんでもない、」ユメは首を横に振った。「偶然よね、偶然、ありえないもの」
「だから何が?」黒沢は瞳を大きくしてユメに接近する。思い出を自ら話して欲しいと思ったのだ。
「なんでもないわよ、それにしても、ウタマルって変な名前ね」
「僕、歌唄いだから」
「はいはい、冗談でしょ」
「ホントだよぉ、」黒沢は口を尖らせた。それからにっと最高のスマイルを作る。「ね、ユメちゃん、一緒に見ようよ、なんだっけ、」黒沢はチケットを確認する。「『イエロー・ベル・キャブズの厳戒態勢』」
「ふうん、センスのないタイトルね、今の私のコーディネイトみたいにダサいわね、」段々と調子が戻ってきたようだ。「うん、いいわよ、でも、私、つまらなかったらすぐに出てくから、そういう主義なの、文学も、活動写真も、レコードも、面白くなかったら犯罪だと思う性格なの」
「えー、最後まで付き合ってよぉ」黒沢はユメの手を触った。
ユメは顔を赤く染めた。「なっ!」
「ん、どうしたの?」黒沢は首を傾げる。
「なんでもない、」ユメは黒沢の手を払うように腕を組んだ。「な、なんでもないんだから、なんでもない、うん、まぁ、エンドロールまでは席を立たないであげるわ」
「やったぁ」黒沢は猫みたいにユメに甘えた。ユメの腕に絡みついた。これくらいならいいだろうと思う。
「な、なんなのよ、クロちゃんってば、いきなり、」ユメは相変わらず顔を赤くしていたが、拒みはしなかった。「……ま、別にいいんだけどさ」
そのおり、開場のブザーが鳴った。