一
邑田ヨウスケは大坂帝大の東門を出てすぐにある『D』という喫茶店のカウンタに座ってオーナの船見カヨと話していた。
「先生、話が全然分からないんだけど」
船見は邑田のことを先生と呼ぶ。それは邑田が大坂帝大の工学部の教授になってから始まったことで、比較的最近のことである。邑田は歯がゆいとかいう気持ちにはならないが、違和感を覚えてしまう。小さい頃から『お兄ちゃん』と呼ばれていたから余計だ。名前をすっ飛ばして、いきなり『先生』に変わるというのは、二人で活動写真も見ずに結婚するようなものだ。何事も、過程が大事だと邑田は思う。が、それは船見には言わない。邑田は相手と同じ気持ちになって幸福を感じるという人種じゃないからだ。
Dの店内は混雑している。大坂帝大に通う二人の学生のアルバイトが船見の代わりに汗を流している。寺内と児玉。二人とも邑田の研究室の学生だ。アルバイトを紹介したのも邑田だ。二人は邑田を介して賃金の値上げを船見に迫ったが、船見は二人に流行のプロレタリア文学を読んで聞かせるだけだった。黙って馬車馬のように働けと、そういう意味らしい。船見のそういう厳しい気持ちとリスのように可愛らしい微笑みが彼女の中に共存しているのが、邑田には不思議だった。
Dの店内は邑田の知らない激しい音楽が鳴っている。フロアには五つの巨大なスピーカが設置されている。船見が言うにはサラウンドというものらしい。邑田は専門以外のことは全く分からないし、興味がない。興味がない顔をすると、船見は優しく『つまんない男』と言った。邑田には意味が分からない。
「俺には金がねぇ」邑田は船見が首を竦めているのに構わずに言った。
「……え、なに、なんなの?」船見はコップを磨く手を止めて目を細めた。「今日はお金を借りに来たの? 嫌よ、先生、昔から人の物を自分のものにして、悪気のない顔をするんだから」
「……金を借りに来たんじゃねぇ」邑田はコーヒーを啜った。猫舌なのでコーヒーは冷めてから飲む。
「教授になったんだから、お金持ちじゃないの?」
「ボーナスで本を買っちまった、『交隣堤醒』の原本だ、」得意げに言って邑田は小さく笑った。「滅茶苦茶高かった」
「またぁ、」船見は息を吐く。「専門じゃない本買ってどうすんの、もったいない」
「カヨ、シナジィっていう単語が企業で流行っているらしいんだ」
「しなじぃ?」
「ああ、蛸壺をぶっ壊すんだ、閉鎖的になりがちな研究機関同士の交流を活性化させて新しいものを作ろうっていう運動だ、だから『交隣堤醒』もこう、俺の専門にリンクして、何か、反応してくれるかもしれない」
「画餅よ、そんなの」船見は吐き出すように言った。
「ああ、」邑田は簡単に頷いた。「実は、少し後悔してる」
「もうっ、先生ってば、」船見は笑窪を作った。「……あ、で、そうそう、さっきの話よ、なんだっけ、指輪?」
「ファーファルタウでは指輪を渡すんだ、結婚するときに」
「変な風習、日本の螺鈿細工みたいなものかな、……え、待って、先生、」船見は探るように聞く。「結婚するの?」
「……いや、分からん、」邑田はまんざらでもなさそうに首を振った。「でも、考えてはいる」
「え、誰と?」
邑田は黙ってコーヒーを飲んだ。そして二秒間目を瞑った。
「……まさか、ヨネちゃん?」
邑田は黙って船見を睨んだ。「……もうこの話はなしだ」
「あははっ、ヨネちゃんみたいな美人が先生と、」船見は愉快そうに微笑んでいる。「なんていうか、想像できない、妄想は研究室の中だけにしてよ」
船見は邑田と椎本ヨネという女性の関係を知らないから笑っているのだ。
邑田は黙ってシガレロに火を点けた。
邑田と船見は長崎にいたことがある。八年前は東京に住んでいた。東京から長崎に行って、そこで半年間暮らした。邑田はまだ二十歳になったばかりで、船見は十四歳だった。長崎の街は学問が盛んだった。長崎には様々な塾があり、ドゥービュレイ系の『スクル』という塾に椎本は通っていた。彼女は船見より一歳年上の十五歳だった。その年齢で『スクル』の塾頭をしていた。邑田は様々な塾に講師として回った。『スクル』でも講義をした。椎本は邑田の専門に興味を持ったらしく、それがきっかけで邑田の椎本の関係は始まった。大坂帝大に就職してからも、邑田は度々長崎に行っていた。別に椎本に会いに行くわけじゃない。長崎の学者に呼ばれることもあったし、旅の途中の場合もあった。椎本に会わないときもあったが、会った日の方が多かった。約束もしていないのに、椎本は邑田の前に現れるからだ。椎本は無理やり邑田を自宅に泊まらせて、何かを教えるよう迫った。机を挟んだ二人の顔は日に日に近づいていった。朝目覚めたら、椎本が邑田の横で寝ていたこともある。船見はそういうことを知らない。知らなくていい。邑田だって、なんとなくいけないことだと思っているからだ。結婚すれば、解決すると思っている。踏み切れないでいたのは彼女が長崎にいるからだった。椎本は医者として長崎で活躍していた。しかし、邑田が『D』のカウンタで夜でもないのに椎本のことを考えているのは、今朝彼女から手紙が届いたからだ。「今度、来るんだ」
「え、なぁに?」船見は金を数えていた。
「だから、ヨネが来るんだ、一週間後、大坂に、だから」
そのとき、店のドアが開いた。カランコロンとベルが鳴る。邑田はそっちの方を一瞥する。山高帽子を被り、サングラスをかけた、一瞬判断を躊躇うが、女がいた。躊躇ったのが細身の黒いストライプスーツを着ていたからだ。足がスラリと長い。しかし、唇は薄く赤く潤っている。胸のふくらみも確認できる。髪は黒くて長く、後ろで一つに結んでいる。腰まで届く長さ。革靴の底は厚い。歩くと特徴的な音が鳴る。邑田はその女から目を離したが、その音は乱れないリズムで邑田に近づいてきた。
女は邑田の隣に座った。邑田は女の方を見た。そのタイミングで女はサングラスを外した。女は魅力的に微笑む。思わず息を呑むほどの美貌。計算されたものを見せられていると邑田は思った。思考が一瞬、途絶える。首を振って、女と反対の方を見た。そこにはファーファルタウの広域地図が貼ってある。しかし、気持ちが落ち着かない。
「あ、あの、もしかして、」船見の声は上ずっていた。「土方ルカ? ……あ、いえ、土方ルカさん?」
船見はそう言いながら邑田の手を触って、驚きを共有しようとしている。しかし、邑田はどうして船見がこういう反応をするのか、謎だった。「ああ、ひじかたるか?」
「ええ、」女は頷いて、人差し指を立てて唇に近づけ、声を潜めて発声する。「いかにも私が、土方ルカ」
「あっ、」船見の反応は大げさだった。両手唇に押し付けて、リスのようなコミカルな動きで邑田と船見以外が彼女の登場に気付いていないことを確かめた。店内は幸い様々な議論が白熱していた。スピーカもがなっている。だれも彼女の登場に気付いていない。「はい、すいません、でも、ああ、ビックリしたぁ……」
「誰、歌手?」邑田が船見にそう聞いたのは、土方の声がとても特徴的だったからだ。潜めてもよく通る、低音の効いた声。こういう声はあまりない。嫌いじゃないと邑田は評価する。
「違うよ、お兄ちゃん、知らないの?」船見は相当興奮しているようだ。
「ごめんね、」土方はサングラスをかけ直して、再び人差し指を立てる。「静かにしてね」
「あっ、すいません、」船見は声のトーンを極端に落とした。そして邑田に耳打ちする。「あのね、女優さん、ロウマン座の、凄い人気なんだよ、雑誌の表紙とかで見たことない?」
「知らないなぁ」邑田は専門の雑誌しか開いたことはない。
「邑田ヨウスケ教授ですね」土方は歯切れのいい口調で言った。
「ああ、いかにも」
「あの、ご注文は?」船見が聞いた。
「カフェオレを」
「素敵……、」船見はうっとりと土方を見つめた。それから張り切って言う。「はい、ええ、私が淹れます、とびっきり熱いのを、いえ、おいしいのを」
船見はカウンタの奥でコーヒーメイカを操作し始めた。寺内の邪魔を始めたとも言える。
「可愛い人ですね、」土方は感想を言って微笑み、そして邑田を見る。「邑田教授、お願いがあります」
「……えっ?」邑田はわざとらしく、意外だ、という反応をした。「お願い? 俺に? 一体なんだろうな?」
「引き受けてくださいますか?」
「……要件は?」邑田は土方を見ずに言う。
「まず引き受けるとおしゃって下さい」
「そんな、」邑田は可笑しくなった。「乱暴だ」
「きちんと対価は支払うつもりです」
「指輪」邑田は即答した。
「ああ、はい、指輪ですか?」
「うん、ダイヤの指輪がいい」
「ええ、用意しましょう、」土方はカウンタの奥の船見の背中に視線をやりながら言う。「……プレゼントですか?」
「ファーファルタウだと、ダイヤが大きければ大きいほどいいらしいんだ、大きいダイヤの魔力が結婚生活を上手くいかせるっていうあれがあって、俺、自信ないからさ、その普通の男が出来ることが出来ないかもしんねぇから、だから大きいのがいいな」
「はい、分かりました、そういう話は聞いたことありませんが、……ええ、用意しましょう、」土方の口元は笑っていた。「素敵ですね」
「もっと自由だったらいいと思うんだけどね」邑田は呟いた。
「自由?」
「いろんなことがね、」邑田は鼻を啜った。「いろんなことがもっと自由になればいいと思うよ、自由、うん、例えばさ、飛ぼうと思って飛べたらいいじゃん、あ、土方ルカさんは魔女?」
「ルカって呼んでください、」土方は頷いた。「ええ、私は魔女です、だから空を飛べます」
「魔女って自由でしょ?」
土方は首を振った。少し邑田に甘えるように仕草だった。「そんなことないです、邑田教授の方がよっぽど」
「俺はイレギュラだから、空は飛べないんだ」
「いえ、それでも」
「で、お願いってなんなの?」邑田はシガレロに火を点けた。
「劇場に来てください」
「それだけ?」
「それからです」
船見の入れた熱いカフェオレを土方が飲み終わるのを、邑田は待った。邑田は椎本のことを考えていた。結婚のことを考える。夢のような未来だと思う。似合わない未来だと思う。だからダイヤの指輪が必要だ。ないときっと、似合わないままだ。
「この店の『D』はなんの『D』なの?」色紙にサインを書きながら土方は聞いた。
「ドリームの『D』です」船見はうっとりと答えた。
「この前はダイナマイトって言った」邑田は笑って席を立った。




