五十年ぶりの寿司――「生魚は嫌いだ」と言っていた親父の、本当の好物
親父が転んだと聞いたのは、仕事中だった。
骨は折れていない。けれど、一人暮らしはそろそろ厳しいかもしれない。
そんな話をされて、俺は十数年ぶりに実家へ戻った。
「帰ったぞ」
返事はない。
勝手知ったる家だ。靴を脱いで上がり、居間の襖を開ける。
親父は座椅子に座っていた。
顔を見て、真っ先に思った。
小せぇな。
昔は、あんなにでかく見えたのに。
怒鳴られりゃ腹の底まで響いたし、睨まれるだけで背筋が伸びた。ガキの頃なんて、親父の背中を見上げながら、こんなでかい男には一生勝てねえと思っていた。
その親父が、今じゃ座椅子に半分埋もれている。
肩は細くなり、背中もすっかり丸まっていた。
「……なんだ」
親父がこっちを見る。
「人の顔じろじろ見やがって」
「いや」
口だけは昔と変わらなかった。
そのくせ、立ち上がろうとすると膝が震える。
「よっこいせ……」
「おい」
「なんだ」
「座ってろ」
「便所だ」
「また転ぶぞ」
「一回転んだだけだ」
「一回で十分なんだよ、ジジイ」
「誰がジジイだ」
「七十過ぎりゃ立派なジジイだろ」
「うるせえ」
そう言いながら壁に手をついて歩く親父を見て、俺は何も言えなくなった。
昔は俺のほうが、親父についていくので精一杯だった。
結局、俺はしばらく実家に泊まることにした。
手すりだの、介護認定だの、デイサービスだの。面倒な話はいくらでもあった。
その合間に飯も作った。
焼き魚や肉じゃが、煮物に味噌汁。洒落たものなんか作れない。けど、食わせるくらいならどうにでもなる。
考えてみれば、俺が子供の頃、親父も似たようなものばかり作っていた。
朝は飯と味噌汁。
弁当は卵焼きにウインナー。
夜は魚か肉、それと野菜。
茶色い飯ばっかりだった。
でも、量だけはやたら多かった。
「残すなよ」
「もう食えねえ」
「食え。でかくならんぞ」
そう言われて育った。
その結果、俺は親父より十センチ以上でかくなった。
今さら思えば、この体の半分くらいは親父の飯でできてるのかもしれない。
なのに、俺が飯を出すと親父の返事はだいたい同じだった。
「味、濃くねえか?」
「こんなもんだろ」
「硬くねえか?」
「歯はまだある」
「まずくねぇか?」
「食えりゃいい」
ある晩、向かいで黙々と飯を食う親父を見ていて、ふと思った。
「なあ」
「なんだ?」
「親父、好きなものってなんだ?」
「何が」
「食いもん」
親父が眉を寄せる。
「急になんだ」
「いや。知らねえなと思って」
「別に知らんでいい」
「なんでもいい、はなしな」
「面倒くせえなぁ」
「好きなもんくらいあんだろ」
親父はしばらく黙っていた。
「……寿司」
「は?」
「寿司だよ」
思わず箸が止まった。
「親父、生魚嫌いじゃなかったか?」
「誰が言った」
「おめぇだよ」
「知らね」
「言ってただろ」
覚えている。
俺の誕生日も、運動会も、高校に受かった日も、ちょっといいことがあった日は決まって寿司だった。
といっても、スーパーのパック寿司だ。
俺がマグロやエビを取ると、親父はいつも言った。
「俺ぁ、生魚あんまり好きじゃねえから、お前食えや」
俺はそれを、そのまま信じていた。
「じゃあ、いつから食ってねえんだよ」
「さあな」
「最近は?」
「食ってねえ」
「最後に食ったのっていつだよ?」
「……おめぇの母ちゃんと行ったのが最後じゃねえか」
俺は顔を上げた。
「母ちゃんと?」
「ああ」
「いつ?」
「結婚する前だ」
「何年前だよ」
「知らん。五十年くらい前だろ」
「五十年?」
「たぶんな」
「アホか」
「は?」
「好きなもん五十年も食わねえ奴があるか」
「別に死にゃしねぇや」
そう言って、親父は何でもないことみたいに味噌汁をすすった。
その夜、布団に入ってから昔のことを思い出した。
寿司だけじゃない。
焼肉に行けば「脂っこいもんはいらん」と肉を寄こし、鰻を買えば「半分でいい」と言った。ケーキだって「甘いもんは嫌いだ」と、ほとんど俺に食わせた。
俺はずっと、そういう人なんだと思っていた。
でも、違ったのかもしれない。
俺に食わせるのが先で、自分の分なんていつも後回しだっただけなのかもしれない。
次の日。
「明日、出かけるぞ」
「どこに」
「寿司屋」
「あぁ? 行かん。めんどくさい」
「もう予約した」
「勝手なことすんな」
「うるせえ」
「銭がもったいねえ」
「キャンセル料のほうがもったいねえよ」
「高い店なんか行く必要ねえ」
「五十年ぶりなんだろ」
親父が黙る。
「一回くらい、黙って食え」
「偉そうになったな」
「誰に育てられたと思ってんだ」
「知らねえな」
翌日、連れていったのは町で昔からやっている寿司屋だった。
車を降りた親父は、店の暖簾を見上げて眉をひそめた。
「ここか?」
「ここ」
「高そうじゃねえか」
「もう来たんだから諦めろ」
「まったく……」
ぶつぶつ言いながらも、帰ろうとはしなかった。
カウンターに座ると、親父は妙に姿勢を正している。
「緊張してんの?」
「してねえ」
「してんじゃねえか」
「うるせえ」
大将が笑いながら最初の一貫を置いた。
中トロだった。
親父はしばらく眺めてから、手でつまんだ。
そのまま食うのかと思った。
だが。
「ほら」
俺の皿に置いた。
「何してんだよ」
「おめぇ、マグロ好きだったろ」
一瞬、何も言えなかった。
五十年ぶりだぞ。
それでも、こいつは俺に寄こすのか。
俺は中トロをつまみ、親父の皿に戻した。
「食えよ」
「俺はいい」
「よくねえ」
「おめぇが食え」
「今日は俺が食わせる日だ」
親父がこっちを見る。
「……偉そうに」
「うるせぇよ。食え」
親父は少しだけ笑った。
それから中トロを口に入れ、ゆっくり噛んだ。
一度、二度。
飲み込んでから、しばらく黙っていた。
「どうだよ」
親父が目を伏せた。
「……うまいな」
声が、少し震えていた。
親父は空になった皿を見たまま、ぽつりと言った。
「おめぇに寿司食わせてもらうなんてな」
鼻で笑うみたいに息を吐いた。
「もう、死ぬまで食えねえと思ってた」
目尻から涙が落ちた。
俺は固まった。
親父が泣くところなんて、見たことがなかった。
母ちゃんが死んだ時だって、俺の前じゃ一度も泣かなかった。
「……馬鹿じゃねえの」
「うるせえ」
「まだ死ぬなよ」
「分かってるよ」
親父は手の甲で目を拭った。
しばらくして、俺は聞いた。
「次、何食う?」
「……エビ」
「はいはい」
「穴子もだ」
「結構食うじゃねえか」
親父は少し笑った。
「五十年分だ」
店を出る頃には、腹いっぱいだと言った。
「食いすぎだろ」
「おめぇが食えって言ったんだろ」
「十二貫も食えとは言ってねえよ」
「うるせえ」
外は少し寒かった。
昔は俺が、親父の背中を追いかけていた。置いていかれないように、必死で。
今は、その親父の歩幅に合わせて歩く。
「また来るか」
「高ぇからいい」
「じゃあ次は回るとこな」
「それならまあ」
「なんだよ。行くんじゃねえか」
「うるせえ」
少し歩いてから、親父がぽつりと言った。
「……うまかった」
「そうかよ」
「ああ。ごちそうさん」
俺は何も返さず、そのまま親父の歩幅に合わせて歩いた。




