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五十年ぶりの寿司――「生魚は嫌いだ」と言っていた親父の、本当の好物

作者: LackRock
掲載日:2026/10/17

 親父が転んだと聞いたのは、仕事中だった。


 骨は折れていない。けれど、一人暮らしはそろそろ厳しいかもしれない。


 そんな話をされて、俺は十数年ぶりに実家へ戻った。


「帰ったぞ」


 返事はない。


 勝手知ったる家だ。靴を脱いで上がり、居間の襖を開ける。


 親父は座椅子に座っていた。


 顔を見て、真っ先に思った。


 小せぇな。


 昔は、あんなにでかく見えたのに。


 怒鳴られりゃ腹の底まで響いたし、睨まれるだけで背筋が伸びた。ガキの頃なんて、親父の背中を見上げながら、こんなでかい男には一生勝てねえと思っていた。


 その親父が、今じゃ座椅子に半分埋もれている。


 肩は細くなり、背中もすっかり丸まっていた。


「……なんだ」


 親父がこっちを見る。


「人の顔じろじろ見やがって」


「いや」


 口だけは昔と変わらなかった。


 そのくせ、立ち上がろうとすると膝が震える。


「よっこいせ……」


「おい」


「なんだ」


「座ってろ」


「便所だ」


「また転ぶぞ」


「一回転んだだけだ」


「一回で十分なんだよ、ジジイ」


「誰がジジイだ」


「七十過ぎりゃ立派なジジイだろ」


「うるせえ」


 そう言いながら壁に手をついて歩く親父を見て、俺は何も言えなくなった。


 昔は俺のほうが、親父についていくので精一杯だった。


 結局、俺はしばらく実家に泊まることにした。


 手すりだの、介護認定だの、デイサービスだの。面倒な話はいくらでもあった。


 その合間に飯も作った。


 焼き魚や肉じゃが、煮物に味噌汁。洒落たものなんか作れない。けど、食わせるくらいならどうにでもなる。


 考えてみれば、俺が子供の頃、親父も似たようなものばかり作っていた。


 朝は飯と味噌汁。

 弁当は卵焼きにウインナー。

 夜は魚か肉、それと野菜。


 茶色い飯ばっかりだった。


 でも、量だけはやたら多かった。


「残すなよ」


「もう食えねえ」


「食え。でかくならんぞ」


 そう言われて育った。


 その結果、俺は親父より十センチ以上でかくなった。


 今さら思えば、この体の半分くらいは親父の飯でできてるのかもしれない。


 なのに、俺が飯を出すと親父の返事はだいたい同じだった。


「味、濃くねえか?」


「こんなもんだろ」


「硬くねえか?」


「歯はまだある」


「まずくねぇか?」


「食えりゃいい」


 ある晩、向かいで黙々と飯を食う親父を見ていて、ふと思った。


「なあ」


「なんだ?」


「親父、好きなものってなんだ?」


「何が」


「食いもん」


 親父が眉を寄せる。


「急になんだ」


「いや。知らねえなと思って」


「別に知らんでいい」


「なんでもいい、はなしな」


「面倒くせえなぁ」


「好きなもんくらいあんだろ」


 親父はしばらく黙っていた。


「……寿司」


「は?」


「寿司だよ」


 思わず箸が止まった。


「親父、生魚嫌いじゃなかったか?」


「誰が言った」


「おめぇだよ」


「知らね」


「言ってただろ」


 覚えている。


 俺の誕生日も、運動会も、高校に受かった日も、ちょっといいことがあった日は決まって寿司だった。


 といっても、スーパーのパック寿司だ。


 俺がマグロやエビを取ると、親父はいつも言った。


「俺ぁ、生魚あんまり好きじゃねえから、お前食えや」


 俺はそれを、そのまま信じていた。


「じゃあ、いつから食ってねえんだよ」


「さあな」


「最近は?」


「食ってねえ」


「最後に食ったのっていつだよ?」


「……おめぇの母ちゃんと行ったのが最後じゃねえか」


 俺は顔を上げた。


「母ちゃんと?」


「ああ」


「いつ?」


「結婚する前だ」


「何年前だよ」


「知らん。五十年くらい前だろ」


「五十年?」


「たぶんな」


「アホか」


「は?」


「好きなもん五十年も食わねえ奴があるか」


「別に死にゃしねぇや」


 そう言って、親父は何でもないことみたいに味噌汁をすすった。


 その夜、布団に入ってから昔のことを思い出した。


 寿司だけじゃない。


 焼肉に行けば「脂っこいもんはいらん」と肉を寄こし、鰻を買えば「半分でいい」と言った。ケーキだって「甘いもんは嫌いだ」と、ほとんど俺に食わせた。


 俺はずっと、そういう人なんだと思っていた。


 でも、違ったのかもしれない。


 俺に食わせるのが先で、自分の分なんていつも後回しだっただけなのかもしれない。


 次の日。


「明日、出かけるぞ」


「どこに」


「寿司屋」


「あぁ? 行かん。めんどくさい」


「もう予約した」


「勝手なことすんな」


「うるせえ」


「銭がもったいねえ」


「キャンセル料のほうがもったいねえよ」


「高い店なんか行く必要ねえ」


「五十年ぶりなんだろ」


 親父が黙る。


「一回くらい、黙って食え」


「偉そうになったな」


「誰に育てられたと思ってんだ」


「知らねえな」


 翌日、連れていったのは町で昔からやっている寿司屋だった。


 車を降りた親父は、店の暖簾を見上げて眉をひそめた。


「ここか?」


「ここ」


「高そうじゃねえか」


「もう来たんだから諦めろ」


「まったく……」


 ぶつぶつ言いながらも、帰ろうとはしなかった。


 カウンターに座ると、親父は妙に姿勢を正している。


「緊張してんの?」


「してねえ」


「してんじゃねえか」


「うるせえ」


 大将が笑いながら最初の一貫を置いた。


 中トロだった。


 親父はしばらく眺めてから、手でつまんだ。


 そのまま食うのかと思った。


 だが。


「ほら」


 俺の皿に置いた。


「何してんだよ」


「おめぇ、マグロ好きだったろ」


 一瞬、何も言えなかった。


 五十年ぶりだぞ。


 それでも、こいつは俺に寄こすのか。


 俺は中トロをつまみ、親父の皿に戻した。


「食えよ」


「俺はいい」


「よくねえ」


「おめぇが食え」


「今日は俺が食わせる日だ」


 親父がこっちを見る。


「……偉そうに」


「うるせぇよ。食え」


 親父は少しだけ笑った。


 それから中トロを口に入れ、ゆっくり噛んだ。


 一度、二度。


 飲み込んでから、しばらく黙っていた。


「どうだよ」


 親父が目を伏せた。


「……うまいな」


 声が、少し震えていた。


 親父は空になった皿を見たまま、ぽつりと言った。


「おめぇに寿司食わせてもらうなんてな」


 鼻で笑うみたいに息を吐いた。


「もう、死ぬまで食えねえと思ってた」


 目尻から涙が落ちた。


 俺は固まった。


 親父が泣くところなんて、見たことがなかった。


 母ちゃんが死んだ時だって、俺の前じゃ一度も泣かなかった。


「……馬鹿じゃねえの」


「うるせえ」


「まだ死ぬなよ」


「分かってるよ」


 親父は手の甲で目を拭った。


 しばらくして、俺は聞いた。


「次、何食う?」


「……エビ」


「はいはい」


「穴子もだ」


「結構食うじゃねえか」


 親父は少し笑った。


「五十年分だ」


 店を出る頃には、腹いっぱいだと言った。


「食いすぎだろ」


「おめぇが食えって言ったんだろ」


「十二貫も食えとは言ってねえよ」


「うるせえ」


 外は少し寒かった。


 昔は俺が、親父の背中を追いかけていた。置いていかれないように、必死で。


 今は、その親父の歩幅に合わせて歩く。


「また来るか」


「高ぇからいい」


「じゃあ次は回るとこな」


「それならまあ」


「なんだよ。行くんじゃねえか」


「うるせえ」


 少し歩いてから、親父がぽつりと言った。


「……うまかった」


「そうかよ」


「ああ。ごちそうさん」


 俺は何も返さず、そのまま親父の歩幅に合わせて歩いた。


挿絵(By みてみん)

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― 新着の感想 ―
这是一个非常动人的故事呢。 我深受感动!
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