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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

婚約破棄された国宝修復師は、壊れた魔導具しか直せないはずでした ─私を役立たずと追放した王家、今さら結界を直せと言われてももう遅い─

作者: あちゅ和尚
掲載日:2026/05/08

 王宮の大広間に、銀の杯が落ちる音が響いた。


 音を立てたのは、リーゼ・エルフォードではない。


 彼女の隣に立っていた若い貴族令嬢が、驚きのあまり杯を取り落としたのだ。


 それほどまでに、今夜の王太子エドガーの宣言は突然だった。


「リーゼ・エルフォード」


 金髪碧眼の王太子は、白い礼服の胸を張り、まるで舞台役者のように声を張った。


「私は今この場で、お前との婚約を破棄する」


 広間がざわめいた。


 楽団の音が止まる。


 踊っていた貴族たちが足を止める。


 視線が、一斉にリーゼへ向いた。


 リーゼは深い青のドレスを着ていた。


 母の遺した古いドレスを仕立て直したものだ。派手ではない。けれど丁寧に縫い直された襟元と袖口は、近くで見れば職人の手間がわかる。


 ただ、その価値をわかる者は王宮には少なかった。


 エドガーの隣には、淡い桃色のドレスを着た令嬢が寄り添っている。


 ミリア・ローゼン。


 近ごろ王宮で「聖女」と呼ばれている少女だった。


「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」


 リーゼは静かに尋ねた。


 泣かなかった。


 声も震えなかった。


 そのことが、エドガーの気に障ったらしい。


「理由など、今さら聞くまでもないだろう。お前には魔力がない」


「はい」


「王太子妃となる者が、魔力なしでは話にならん。王家を支え、国を守るには、ミリアのような輝かしい力こそ必要なのだ」


 ミリアが恥じらうように目を伏せた。


 彼女の周囲で淡い光が舞う。


 貴族たちが感嘆の声を漏らした。


 たしかに見栄えはいい。


 光が花びらのように散り、髪飾りの宝石をきらきらと照らしている。


 けれどリーゼは、その光を見て胸の奥が冷えるのを感じた。


 あの光は、魔力を外へ漏らしているだけだ。


 美しい。


 だが、荒い。


 古い魔導具のそばでそんな魔力を流せば、眠っていた傷が開く。


「リーゼ」


 エドガーは勝ち誇ったように言った。


「お前には王宮を去ってもらう。これまで婚約者という立場に甘え、王家宝物庫への出入りを許してきたが、それも今日までだ」


「承知いたしました」


 リーゼは即答した。


 広間が、かすかに揺れた。


 あまりに早い返事だったからだ。


 エドガーも一瞬、眉をひそめた。


「ずいぶん物分かりがいいではないか」


「婚約破棄をお望みなのでしたら、受け入れます」


 リーゼは右手の手袋を外した。


 薬指にはめられていた王家の婚約指輪を抜き、銀盆を持つ侍従へ差し出す。


「では、本日をもって、エルフォード伯爵家と王家宝物庫との魔導具修復契約も終了いたします」


 静まり返っていた広間に、今度こそ大きなどよめきが起きた。


 エドガーの顔から笑みが消える。


「何だと?」


「婚約者として王宮に出入りしていたのではなく、契約職人として国宝魔導具の保全と修復を任されておりました。婚約が破棄され、宝物庫への出入りも禁じられるのであれば、契約は継続できません」


「馬鹿な。お前が何を直していたというのだ」


「王冠の裏側に刻まれた防護陣。建国剣の鞘。大聖堂の結界鐘。王都外壁の第3、第4、第7結界石。ほかにも記録台帳に記載がございます」


「そんなもの、宮廷魔導師が見れば済む話だ」


 リーゼは答えなかった。


 それは半分正しく、半分は完全に間違っている。


 普通の魔導具なら宮廷魔導師でも見られる。


 だが王家宝物庫に納められている国宝級の魔導具は、古すぎる。


 何百年も前に作られ、何人もの持ち主を経て、何度も壊れ、何度も直されたものばかりだ。


 ただ魔力を流せば動くような品ではない。


 どこに傷があるのか。


 どの修復痕に触れてはいけないのか。


 どの魔力線が、すでに死んだ職人の癖で曲げられているのか。


 それを知らずに触れば、壊れる。


「お前は、壊れた物置の扉を直すような真似をしていただけだろう」


 エドガーが鼻で笑った。


「王家が本気を出せば、替えの職人などいくらでもいる」


「そうですか」


 リーゼは頭を下げた。


「では、これにて失礼いたします」


「待て」


「まだ何か」


「謝罪はないのか」


 リーゼは目を瞬いた。


「謝罪、ですか」


「王太子妃にふさわしくない身でありながら、これまで私の隣に立っていた。その身の程知らずを詫びるべきだろう」


 広間の空気が固まった。


 それでも誰も止めない。


 王太子に逆らう者などいない。


 リーゼは、ふと母の言葉を思い出した。


 ――リーゼ、壊れたものを見た時にね、何でも直そうとしてはいけないわ。


 ――どうしてですか、お母様。


 ――直されることを望まないものもあるからよ。


 幼い頃のリーゼには、よくわからなかった。


 でも今ならわかる。


 壊れた誇り。


 壊れた良識。


 壊れた人の心。


 それらを、彼女の小さな工具で直すことはできない。


「謝罪はいたしません」


 リーゼは静かに言った。


「私は殿下の隣に立つために、できる限りの務めを果たしてまいりました。恥じることは何もありません」


「リーゼ!」


 エドガーが声を荒げた。


 その瞬間だった。


 ごおん、と低い音が響いた。


 王宮の天井が震える。


 今度は楽器ではない。


 大聖堂の結界鐘だ。


 王都に危機が迫った時だけ鳴る、古い鐘。


 貴族たちが顔を上げた。


 続いて、ぱきん、と乾いた音がした。


 広間の正面に飾られていた建国剣の鞘に、細いひびが走った。


 リーゼは息をのんだ。


 あれは昨月、応急処置をしたばかりの傷だ。


 本格修復にはあと2日必要だった。


 だがエドガーが夜会で見栄を張るため、宝物庫から勝手に持ち出したのだ。


「何だ、今の音は」


 エドガーが苛立った声を出した。


 リーゼは建国剣を見つめた。


 鞘の奥から、古い記憶が流れ込んでくる。


 煤けた鍛冶場。


 血まみれの手。


 若い王が、倒れた兵士たちの前で剣を掲げている。


 ――守れ。


 ――この都を。


 ――もう誰も、炎の中に置き去りにしないために。


 その願いが、今、ひび割れている。


「殿下」


 リーゼは声を抑えた。


「建国剣を今すぐ宝物庫へお戻しください。あの鞘は結界鐘と連動しています。これ以上、強い魔力に触れさせてはなりません」


 ミリアが顔を上げた。


「まあ。私の魔力が悪いとおっしゃるの?」


「悪いのではありません。相性が悪いのです」


「同じことでしょう」


 ミリアは微笑んだ。


 そして、止める間もなく建国剣へ歩み寄った。


「ご安心ください、殿下。私が聖女の力で鎮めてみせます」


「ミリア、頼む」


 エドガーがうなずく。


 リーゼは思わず一歩踏み出した。


「触ってはいけません!」


 しかし遅かった。


 ミリアの白い指が、建国剣の鞘に触れる。


 まばゆい光が広がった。


 貴族たちが歓声を上げかける。


 次の瞬間、鞘のひびが一気に広がった。


 ぱき、ぱき、ぱき。


 音が連なり、装飾の宝石が床へ落ちた。


 結界鐘が、また鳴る。


 今度は悲鳴のような音だった。


 リーゼは目を閉じた。


 ああ。


 やはり、壊れた。


「……本当に、今日まででよかった」


 誰にも聞こえない声で、リーゼはつぶやいた。


 その夜、リーゼは王宮を去った。


 父であるエルフォード伯爵は、彼女を家に入れなかった。


「王太子殿下に恥をかかせた娘を、当家に置くことはできん」


 門の前で告げられた言葉に、リーゼは深く頭を下げた。


 驚きはなかった。


 父にとって彼女は、王太子妃になるための駒だった。


 その価値がなくなった以上、娘ではないのだろう。


「お母様の工具箱だけ、いただいてもよろしいでしょうか」


 父は顔をしかめた。


「好きにしろ。あんな古道具、持っていけ」


 使用人が古い木箱を持ってきた。


 角は擦り減り、金具は黒ずんでいる。


 けれどリーゼにとっては、王宮の宝石より価値のあるものだった。


 母が使っていた修復師の工具箱。


 小さな銀槌。


 魔力線を探る針。


 古い布。


 そして、母が最後まで肌身離さず持っていた、透明な石のルーペ。


 リーゼは工具箱を胸に抱いた。


 門が閉まる。


 雪が降り始めていた。


 春前の王都に降る、珍しい雪だった。


「行くところはあるのか」


 背後から声がした。


 低く、よく通る声だった。


 振り向くと、黒い外套をまとった男が立っていた。


 年は20代半ばほどだろうか。


 長身で、左頬に古い傷がある。


 夜会で何度か見かけたことがある。


 北方辺境伯、ヴァルター・グランツ。


 王都の貴族たちからは、陰で「北の狼」と呼ばれている男だ。


「グランツ辺境伯様」


「今の君に、形式ばった挨拶は必要ない」


 ヴァルターはリーゼの持つ工具箱を見た。


「君が国宝修復師のリーゼ・エルフォードか」


「国宝修復師などと名乗った覚えはありません」


「なら、俺がそう呼んでいるだけだ」


「私に何かご用でしょうか」


「ある」


 ヴァルターは懐から小さな金属片を取り出した。


 黒く焼け焦げた、歯車の一部だった。


 リーゼは息を止めた。


 ただの歯車ではない。


 表面に刻まれた魔力線が、王家宝物庫の品より古い。


「これは……どちらで」


「北方砦の古代炉から外れた部品だ」


「古代炉?」


「俺の領地は寒い。冬には家畜も人も凍える。その砦には、昔から領内へ熱を送る炉がある。だが先月から火が弱まり、3日前に完全に止まった」


 ヴァルターは短く息を吐いた。


「宮廷魔導師に見せたが、誰も直せなかった。魔力を流せば動くと言った者もいたが、試した途端に炉の一部が爆ぜた」


「当然です」


 リーゼは思わず言った。


 歯車に残る記憶が、指先から伝わってくる。


 雪。


 幼い子供。


 冷えた手を炉にかざす母親。


 石壁の中で、赤く光り続ける巨大な心臓。


 これは兵器ではない。


 王族の権威を飾る宝でもない。


 寒さから人を守るための魔導具だ。


「直せるか」


 ヴァルターが尋ねた。


 リーゼはすぐには答えなかった。


 直せる、と簡単に言うのは職人の言葉ではない。


 壊れたものには、それぞれの事情がある。


 見なければわからない。


 聞かなければわからない。


「炉を見なければ判断できません」


「なら来てくれ」


「私を雇うという意味ですか」


「そうだ」


「私は今夜、婚約破棄されたばかりの女です。王太子殿下の不興を買っています」


「知っている」


「雇えば、グランツ家にも迷惑がかかります」


「北方はもともと王都から嫌われている。今さらひとつ増えても変わらん」


 ヴァルターは淡々と言った。


「報酬は払う。住む場所も用意する。君の身の安全は俺が保証する」


「なぜそこまで」


「壊れた炉を直せるかもしれない職人を、雪の中に放り出すほど、俺の領地は豊かではない」


 リーゼはヴァルターを見上げた。


 甘い言葉ではなかった。


 慰めでもない。


 必要だから雇う。


 守る必要があるから守る。


 そのまっすぐさが、かえって胸に響いた。


「わかりました」


 リーゼは工具箱を抱き直した。


「北方砦へ参ります」


 北方は、王都よりずっと寒かった。


 馬車の窓は白く曇り、息は室内でも薄く白い。


 砦に着いた時、リーゼはまず人々の目を見た。


 疑い。


 不安。


 わずかな期待。


 王都の貴族たちのように、彼女のドレスや身分を見る者は少ない。


 彼らが見ているのは、工具箱だった。


 この女は、本当に炉を直せるのか。


 子供たちは、今夜も凍えずに眠れるのか。


 リーゼはその視線を、重いとは思わなかった。


 むしろ、ありがたかった。


 ここでは、彼女が何をできるかを見ようとしてくれている。


 古代炉は砦の地下にあった。


 巨大な円筒形の炉。


 表面には無数の魔力線が走り、何重にも補修跡が重なっている。


 近づいただけで、リーゼの指先が震えた。


 これは古い。


 王都の結界鐘と同時代、あるいはそれ以前のものだ。


「危険なら下がらせる」


 ヴァルターが言った。


「いえ。静かにしてください」


 リーゼは工具箱を開けた。


 銀槌。


 針。


 古布。


 そして透明な石のルーペ。


 ルーペを炉にかざすと、黒い金属の奥に細い光が浮かんだ。


 魔力線ではない。


 記憶の線だ。


 リーゼだけが見える、壊れた道具の声。


 ――寒い。


 ――子が泣いている。


 ――火を絶やすな。


 ――この炉は、領主のためではない。


 ――名も知らぬ家々の窓に、明かりが灯るために。


 リーゼの胸が熱くなった。


 古代炉を作った職人は、王都の誰よりも誇り高かった。


 名を残さず、功を誇らず、ただ人を生かすためにこの炉を作った。


 その願いが、今も炉の奥に残っている。


「……傷が多すぎます」


 リーゼはつぶやいた。


「直せないのか」


「いいえ」


 彼女は膝をつき、炉の下部に手を当てた。


「何度も直されてきたんです。乱暴な修理もあります。でも、どの時代の職人も、この炉を止めたくなかった」


 ヴァルターは黙って聞いていた。


「だから直します。ただし、力任せでは駄目です。この炉は命令では動きません。約束を思い出させるんです」


「約束?」


「人を凍えさせないという約束です」


 リーゼは作業を始めた。


 派手な光は出ない。


 聖女のように花びらも舞わない。


 小さな針で焦げた魔力線をほどき、古布で煤を拭い、歯車の欠けた部分に銀を流す。


 1時間。


 2時間。


 誰も声をかけなかった。


 ヴァルターも、砦の兵士たちも、ただ見守った。


 やがてリーゼは最後の針を抜いた。


「炉心へ、弱い火を」


 ヴァルターがうなずき、魔導師に命じた。


 若い魔導師が震える手で、ほんの少し魔力を流す。


 炉は沈黙していた。


 次の瞬間、低い音が地下を満たした。


 ごう、と炎が息を吹き返す。


 赤い光が炉の底から立ち上がり、壁の魔力線を走った。


 砦全体が、ほんのりと温かくなる。


 上の階から歓声が聞こえた。


「暖かい!」


「炉が戻ったぞ!」


「火だ、火が戻った!」


 兵士の1人がその場に座り込んだ。


 年配の女中が涙をぬぐう。


 若い魔導師は、ぽかんと口を開けてリーゼを見ていた。


「あなたは……魔法を使っていないのに」


「私は魔導師ではありません」


 リーゼは工具を片づけながら言った。


「修復師です」


 ヴァルターが一歩近づいた。


「礼を言う。リーゼ殿」


「報酬をいただく仕事です」


「それでも礼を言わせてくれ」


 彼は深く頭を下げた。


 辺境伯が、婚約破棄されたばかりの令嬢に。


 王都ではありえない光景だった。


 リーゼは慌てて首を振る。


「お顔をお上げください」


「君はこの砦を救った」


「炉を直しただけです」


「同じことだ」


 その言葉に、リーゼは少しだけ笑った。


 王都では、彼女が何を直しても「それだけ」と言われた。


 ここでは「同じことだ」と言ってもらえる。


 たったそれだけで、指先の冷えが溶けていく気がした。


 それから3日後。


 王都から使者が来た。


 金の刺繍が入った外套をまとい、鼻を高く上げた男だった。


 王宮儀典官のバルド。


 リーゼが宝物庫で働いていた頃、彼女を「埃まみれの令嬢」と呼んでいた男だ。


「リーゼ・エルフォード」


 バルドは砦の応接室に入るなり、命じるように言った。


「王命である。直ちに王都へ戻り、結界鐘および建国剣を修復せよ」


 リーゼは椅子に座ったまま、静かに返した。


「私は王家との契約を終了しております」


「緊急事態だ」


「契約外です」


「国の危機だぞ」


「国の危機に関わる契約を、殿下が夜会で一方的に断ち切られました」


 バルドの眉が跳ねた。


「口の利き方に気をつけろ。貴様は王太子殿下に婚約破棄された身だ」


「はい」


「ならば、せめて役に立つことで罪をそそぐべきだろう」


 リーゼの手が、膝の上で静かに止まった。


 怒りはあった。


 だが、燃え上がるような怒りではない。


 冷えた金属を磨く時のような、静かな集中だった。


「私の罪とは何でしょうか」


「殿下に恥をかかせたことだ」


「王都結界の保全記録を無視し、応急処置中の建国剣を夜会へ持ち出したのは殿下です」


「黙れ」


「聖女ミリア様が制止を聞かずに触れ、鞘のひびを広げたことも、広間にいた皆様がご覧になっています」


「黙れと言っている!」


 バルドが机を叩いた。


 扉のそばに立っていたヴァルターが、ゆっくり目を細めた。


「俺の砦で怒鳴るな」


 低い声だった。


 それだけで室内の空気が重くなる。


 バルドは一瞬たじろいだが、すぐに顔を赤くした。


「辺境伯。これは王家の問題ですぞ」


「ならば王家が正式な書面を持って来るべきだ。怒鳴り声ではなくな」


「書面ならある」


 バルドは懐から羊皮紙を出し、リーゼの前へ投げた。


 リーゼは目を通した。


 そこには、こう書かれていた。


 リーゼ・エルフォードを王都へ召喚する。


 修復作業を命じる。


 報酬は王家への忠誠を示す機会とする。


 作業中に生じた事故の責は、すべてリーゼ・エルフォードに帰する。


 リーゼは羊皮紙をそっと机に置いた。


「お断りします」


「何だと?」


「これは契約ではありません。責任の押しつけです」


「貴様、王命に逆らうつもりか」


「正式な王命であるなら、国王陛下の印章が必要です。これは王太子殿下の私印です」


 バルドの顔色が変わった。


 リーゼは続けた。


「加えて、修復師に事故の全責任を負わせる条項は不当です。対象物の現状確認、破損経緯、保全記録、過去の修復履歴、立会人、報酬、作業権限、これらが明記されていません」


「女のくせに、契約を語るか」


「職人ですので」


 バルドは怒りで唇を震わせた。


「後悔するぞ。王都結界が崩れれば、民が死ぬ」


「その民を盾にして、私に無償で責任だけ負わせようとしているのは、どなたですか」


 部屋が静まり返った。


 バルドは答えられなかった。


 リーゼは立ち上がる。


「王都の民を見捨てたいわけではありません。ですが、私を便利な道具として扱う契約には戻りません」


「では、どうしろと」


「国王陛下の正式な印章つきで、修復対象の情報をすべて開示してください。私の母、エレナ・エルフォードが過去20年にわたり王家宝物庫の修復を担っていた事実を公文書に記してください。その功績を隠したまま、娘の私だけを呼び戻すことは認めません」


「そんなこと、できるはずがない」


「では修復もできません」


 バルドはリーゼをにらみつけた。


 だがヴァルターが一歩前へ出ると、舌打ちして羊皮紙を奪い返した。


「覚えていろ」


「修復師ですので、記録は得意です」


 リーゼがそう返すと、バルドは顔を歪めて部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 ヴァルターは小さく息を吐いた。


「強いな」


「震えています」


 リーゼは自分の手を見せた。


 指先がかすかに震えている。


「それでも言った」


「言わなければ、また壊されます」


 物も。


 契約も。


 人も。


 ヴァルターはしばらく黙っていたが、やがて言った。


「王都結界が本当に崩れた場合、北方にも影響は来る」


「わかっています」


「その時、君はどうする」


 リーゼは窓の外を見た。


 雪に覆われた砦。


 その向こうに広がる領地。


 そしてさらに遠く、王都の空。


「民を救うためなら行きます」


 彼女は言った。


「でも、王家の嘘を直すためには行きません」


 その言葉からさらに5日後。


 王都の結界が、半分落ちた。


 知らせは夜明け前に届いた。


 王都北門の結界石が砕け、魔物が外壁近くまで迫ったという。


 建国剣の鞘は完全に割れ、結界鐘は鳴り続けた末に沈黙。


 聖女ミリアが祈りを捧げたが、光は広がるばかりで、結界の穴は塞がらなかった。


 宮廷魔導師が力任せに魔力を注ぎ、かえって第4結界石を焼いた。


 王都は混乱していた。


 そして今度の使者は、バルドではなかった。


 国王の弟、レオニス公爵だった。


 彼は北方砦の応接室で、リーゼに深く頭を下げた。


「リーゼ・エルフォード殿。王家を代表し、あなたに正式に依頼したい」


 机の上には、国王の印章つきの契約書が置かれていた。


 修復対象の情報開示。


 作業権限の保証。


 報酬。


 事故責任の範囲。


 立会人。


 そして、エレナ・エルフォードの名誉回復。


 リーゼは一字一句、確認した。


 母の名が、そこにあった。


 エレナ・エルフォード。


 王家宝物庫特別修復師。


 王都結界保全功労者。


 その文字を見た時、リーゼは初めて唇を噛んだ。


 母は、ずっと隠されていた。


 王家の権威のために。


 宮廷魔導師たちの面子のために。


 ただの伯爵夫人が国を支えていたなど、公にできないと。


 それでも母は直し続けた。


 人を守るために。


「条件があります」


 リーゼは言った。


「何なりと」


「王太子エドガー殿下とミリア様は、修復現場に近づけないでください」


「当然です」


「宮廷魔導師の魔力注入も、私の許可なく行わないこと」


「約束します」


「そして、王都の民に避難指示を。結界の修復中、一時的に魔力流が乱れます」


 レオニス公爵はうなずいた。


「すでに始めています」


 リーゼは契約書に署名した。


 ヴァルターが隣で見ていた。


「行くのか」


「はい」


「護衛を出す」


「ありがとうございます」


「俺も行く」


 リーゼは驚いて顔を上げた。


「辺境伯様が?」


「君は俺の領地の修復師だ。王都でまた道具扱いされるなら、雇い主として抗議する必要がある」


「私はまだ正式にグランツ家と長期契約を結んでいません」


「なら帰ったら結ぼう」


 ヴァルターは真顔で言った。


「君がよければ、だが」


 リーゼは少しだけ笑った。


「考えておきます」


 王都は、リーゼが去った夜とは別の街のようだった。


 大通りには避難する人々があふれ、空には薄いひびのような光が走っている。


 結界の傷だ。


 王宮前には騎士たちが並び、魔導師たちは青ざめた顔で立っていた。


 エドガー王太子もいた。


 頬はこけ、目の下には隈がある。


 隣のミリアは、以前のような輝きを失っていた。


 リーゼを見るなり、エドガーが駆け寄ろうとした。


「リーゼ!」


 だがヴァルターが前に出た。


「契約により、殿下は修復師へ接近できません」


「私は王太子だぞ!」


「今回の依頼主は国王陛下です。契約書をお読みください」


 エドガーは悔しげに歯を食いしばった。


 リーゼは彼を見なかった。


 今見るべきは、人ではない。


 壊れたものだ。


 王宮地下。


 王都結界の中枢室。


 そこには巨大な鐘があった。


 大聖堂にある結界鐘の本体。


 表面には深いひびが入り、鐘を支える台座の魔力線は焼け焦げている。


 建国剣の鞘、王冠、外壁結界石。


 すべてがこの鐘につながっていた。


 リーゼはルーペをかざす。


 膨大な記憶が流れ込んできた。


 建国の戦火。


 逃げ惑う人々。


 鐘を鋳る職人。


 若き王の祈り。


 無数の修復師たちの手。


 そして最後に、母の手。


 ――リーゼ。


 幼い娘の名を呼ぶ母の声。


 ――あなたがこの鐘に触れる日が来ないことを願っているわ。


 ――でも、もし触れるなら。


 ――王家のためではなく、人のために直しなさい。


 リーゼの目から涙が落ちた。


 けれど手は止めなかった。


「作業を始めます」


 彼女は言った。


「全員、私の指示以外で魔力を流さないでください」


 宮廷魔導師長が唇を結んだ。


 以前なら、彼はリーゼの指示など聞かなかっただろう。


 だが今は違う。


 彼らはもう、力だけでは直せないことを知っている。


 リーゼは鐘の前に膝をついた。


 焦げた魔力線をほどく。


 割れた鐘の縁に銀を入れる。


 王冠へつながる線を一度切り離す。


 建国剣の鞘の破片を、鐘の下部へ仮留めする。


 作業は地味だった。


 誰も歓声を上げない。


 光もない。


 ただ、針が金属をなぞる音だけが続く。


 3時間が過ぎた。


 外では魔物の咆哮が聞こえた。


 4時間が過ぎた。


 鐘のひびが、少しずつ塞がっていく。


 5時間目。


 ミリアが突然、泣き崩れた。


「私……私は、聖女なのに」


 彼女は震える声で言った。


「みんなが私ならできるって。殿下も、宮廷魔導師様も、私には選ばれた力があるって」


 リーゼは手を止めずに言った。


「力があることと、何でもできることは違います」


「あなたは、私を恨んでいるでしょう」


「はい」


 ミリアが息をのんだ。


 リーゼは静かに続けた。


「ですが今は、あなたを裁く時間ではありません。そこにいるなら、祈ってください」


「祈る?」


「王都の民が無事であるように。あなたの光は修復には向きません。でも、人を落ち着かせることはできるはずです」


 ミリアは涙で濡れた顔を上げた。


 しばらくして、彼女は立ち上がった。


 そして中枢室の外へ出ていった。


 逃げたのではない。


 避難所へ向かったのだ。


 リーゼはそれを見届けることなく、最後の線をつないだ。


「ヴァルター様」


「何だ」


「魔力を少しだけお貸しください」


「俺でいいのか」


「はい。北方の古代炉と同じです。守るために使われてきた魔力の方が、この鐘には馴染みます」


 ヴァルターは迷わず手袋を外し、リーゼの隣に膝をついた。


「どうすればいい」


「私が合図したら、この線へ。強くではなく、細く、長く」


「わかった」


 リーゼは鐘に手を当てた。


 母の工具箱から、透明な石のルーペを取り出す。


 ルーペの中に、母の記憶が映った。


 疲れた顔。


 傷だらけの指。


 それでも優しく笑う母。


 ――よく見て。


 ――物はね、壊れた時に本当の願いを見せるの。


 リーゼは小さくうなずいた。


「今です」


 ヴァルターが魔力を流す。


 細く、長く。


 まるで雪原に灯る一筋の火のように。


 鐘が震えた。


 低い音が地下を満たす。


 ごおん。


 それは悲鳴ではなかった。


 目覚めの音だった。


 鐘の音が王都へ広がる。


 空に走っていたひびが、ゆっくりと閉じていく。


 外壁の結界石に光が戻る。


 避難所の人々が空を見上げる。


 騎士たちが歓声を上げる。


 宮廷魔導師たちが膝をつく。


 王都結界は、完全ではない。


 これから何日も、何週間も、細かな修復が必要だ。


 だが、今夜、王都は落ちなかった。


 リーゼは工具を置いた。


 力が抜け、その場に倒れそうになる。


 ヴァルターが支えた。


「大丈夫か」


「少し、疲れました」


「少しには見えない」


「職人の見栄です」


 ヴァルターはかすかに笑った。


「なら、見栄を張れる場所まで運ぶ」


「歩けます」


「君は王都を救った。今日くらい運ばれておけ」


 リーゼは反論しようとした。


 だが体が言うことを聞かない。


 結局、ヴァルターに支えられて中枢室を出た。


 外では、国王が待っていた。


 老いた王は、リーゼの前で深く頭を下げた。


「リーゼ・エルフォード。そなたと、そなたの母エレナに、王家は大きな借りがある」


 周囲の貴族たちが息をのんだ。


 国王が人前で頭を下げるなど、滅多にない。


「遅すぎます」


 リーゼは言った。


 国王は顔を上げない。


「その通りだ」


「母はもう戻りません」


「その通りだ」


「私も、王家宝物庫の専属には戻りません」


 国王はゆっくり顔を上げた。


 疲れた目だった。


「それでもよい。今後は正式な契約に基づき、必要な時だけ依頼する。そなたの名も、母君の名も、公文書に記す」


 リーゼはしばらく国王を見た。


 許したわけではない。


 けれど、母の仕事がなかったことにされないなら。


 これからの修復師たちが、道具のように扱われないなら。


「承知しました」


 リーゼは答えた。


「ただし、次からは前払いでお願いします」


 沈黙が落ちた。


 そして、レオニス公爵が小さく吹き出した。


 ヴァルターも口元を押さえる。


 国王は一瞬きょとんとし、それから深くうなずいた。


「もっともだ」


 その後、王太子エドガーは王位継承順位を下げられた。


 婚約破棄の場での発言、建国剣を勝手に持ち出したこと、虚偽に近い命令書を出したこと。


 すべてが問題とされた。


 ミリアは聖女の称号を返上した。


 ただ、彼女は逃げなかった。


 避難所で光を灯し続けたことだけは、多くの民が見ていた。


 彼女は王宮を去り、治癒院で一から学び直すことになった。


 バルド儀典官は更迭された。


 宮廷魔導師長は、修復師組合の設立に協力することを命じられた。


 そしてエレナ・エルフォードの名は、王都結界保全の功労者として正式に記録された。


 リーゼは王都に残らなかった。


 王家から屋敷も爵位も提示されたが、すべて断った。


 彼女が戻ったのは、北方砦だった。


 古代炉のある、寒い土地。


 けれど今は、王都よりずっと温かい場所。


 砦の工房には、すでに彼女専用の作業台が用意されていた。


 工具を並べると、不思議と昔からそこにいたような気がした。


「本当にここでよかったのか」


 ヴァルターが工房の入口で尋ねた。


「はい」


 リーゼは古代炉から外した予備部品を磨きながら答えた。


「王都には国宝がたくさんあります。でも、ここには直せば明日誰かが助かるものがあります」


「王家より、壊れた暖房炉の方が大事か」


「時と場合によります」


「それは頼もしい」


 ヴァルターは工房へ入ってきた。


 手には1枚の契約書がある。


「長期契約書だ。報酬、作業権限、住居、護衛、すべて書いてある。もちろん事故責任の押しつけはない」


 リーゼは受け取り、目を通した。


 丁寧な契約だった。


 彼女を縛るためではなく、守るための文章だとわかる。


「問題ありません」


「それと、もう1枚ある」


 ヴァルターは少しだけ表情を硬くした。


 珍しく緊張しているようだった。


「こちらは、今すぐ返事をしなくていい」


「何の書類ですか」


「婚約の申し込みだ」


 リーゼは瞬いた。


 手元の銀槌が、ころんと机の上を転がった。


「……はい?」


「君を職人として尊敬している。人として信頼している。これから先、グランツ領を共に支えてほしいと思っている」


 ヴァルターはまっすぐリーゼを見た。


「ただし、君が望まないなら、この話はなかったことにする。長期契約には一切影響させない」


 リーゼは書類を見た。


 王太子との婚約書とは違う。


 そこには彼女の義務ばかりが並んでいるわけではなかった。


 財産権。


 工房の独立性。


 修復師としての活動継続。


 子を持つかどうかも含め、双方で協議すること。


 あまりに実務的で、あまりに誠実だった。


 リーゼは笑ってしまった。


「婚約の申し込みまで契約書なのですね」


「不快だったか」


「いいえ」


 リーゼは首を振った。


「とても安心しました」


 ヴァルターの耳が、わずかに赤くなった。


「返事は急がない」


「では、ひとつ条件があります」


「何だ」


「私は壊れた魔導具しか直せません」


「知っている」


「人の心は、簡単には直せません」


「それも知っている」


「ですから、私が時々、昔のことで傷ついても、すぐに直そうとしないでください」


 ヴァルターは静かにうなずいた。


「なら、隣にいる」


 リーゼの胸の奥で、何かがほどけた。


 直ったわけではない。


 消えたわけでもない。


 けれど、これからは壊れたまま隠さなくていい。


 それだけで、十分だった。


「お返事は、古代炉の完全修復が終わってからでもよろしいですか」


「もちろんだ」


「では、それまで仮契約ということで」


「婚約の仮契約か」


「はい」


 リーゼは真面目な顔で言った。


「修復師は、いきなり本契約を結びませんので」


 ヴァルターはついに声を出して笑った。


 工房の外では、雪が降っている。


 けれど古代炉の火は消えない。


 窓の向こうの家々には、暖かな明かりが灯っていた。


 リーゼは工具箱を開ける。


 母のルーペが、炉の光を受けてきらりと輝いた。


 もう、誰かに必要とされるために、自分を壊すのはやめた。


 これからは、彼女を大切にしてくれる場所で。


 彼女の手を必要としてくれる人たちのために。


 壊れたものを、ひとつずつ直していく。


 リーゼ・エルフォード。


 魔力なしと笑われた令嬢。


 婚約破棄された元王太子妃候補。


 そして、国を支えた最後の国宝修復師。


 彼女の新しい工房には、今日も小さな修復依頼が届く。


 王冠でも、聖剣でもない。


 子供の壊れた暖房石。


 農夫の割れた収穫鈴。


 老女が亡き夫から贈られた、音の鳴らない古い懐中時計。


 リーゼはそれらを見て、微笑む。


「大丈夫」


 彼女は針を取った。


「まだ、直せます」


短編─了

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