ええ、愛してます(愛してない)
両親の言う事は絶対。
婚約者の機嫌を取るのが絶対。
それが私、オーレリア・マーヴェンに与えられた絶対的なルールだった。
幼い頃はまだ自我を上手く抑えられず、両親から鞭で打たれる事がままあった。
婚約者のマヌエル・ステイプルズは私が両親を恐れている事を知っていたから、私に気に入らないところがあると必ず両親へ言いつけた。勿論私は打たれた。
そんな日々を繰り返す内、慣れてしまった私は最早恐怖すら覚えなくなり、心は死んでいった。
「婚約者らしく俺を立てろ」
ある日。マヌエルはそう言った。
婚約者らしく。この意味が分からず私が聞き返せば彼は続ける。
「婚約者ならば、俺に好意があるように接しろ。無関心そうに振る舞うなんて論外に決まっている」
彼の言葉で私は察する。
私は婚約者として求められた事を淡々と熟すだけで、マヌエルに好意を向ける素振りは一切向けた事がない。
一方、社交界ではマヌエルが私に向ける尊大な態度や私の無気力な様子から、私が召使のように扱われているのではという、マヌエルにとっては望ましくない悪い噂が横行しているのだ。
……事実のようなものではあるが。
とにかく、彼はその噂を払拭したいのだろう。
悪評が流れた原因として真っ先に私を疑う辺りが、何とも彼らしいと思った。
「具体的にはどのように?」
「愛しているとでも言いながら俺の良さを強調すればいい。「愛している」と主張しろ。あとはその腹立たしい顔を少しでも可愛らしくする方法を考えろ。道具は道具らしく俺の思い通りに動け――それ以外は必要ない」
「愛していると、笑顔で言えばよいのですね。畏まりました」
斯くして、婚約者へ愛を囁くだけの人形は完成したのである。
以降の私は作り笑いを顔に貼り付け、事あるごとにマヌエルを称賛した上で「愛しています」という言葉をくっつけた。
そんな日々を十年以上続ける内、何故かマヌエルは私が本当に自分を愛していると錯覚をするようになった。
かつて自分から命じた事など、すっかり忘れてしまったのだ。
さて、自信満々になったマヌエル。
彼は学園へ入学するや否や、様々な異性へアプローチをかけるようになった。
私の言葉を信じた結果、自分は魅力的な男性だと勘違いしたらしい。
私はというと……特に何もしなかった。
彼の機嫌を損ねてはいけないという両親からの言いつけを守る必要があるので、そもそも彼に何かを意見できる立場にはなかった。
それに、彼が誰かに好意を寄せようが、浮気しようが、どうでもよかった。
婚約関係が成立する限り、私は最低限の身の安全が保障されている。
だから基本的には見て見ぬフリを続け、公の場でマヌエルと共にいる時は彼に愛を囁き続けた。
学園の私と社交界の私、その両方の姿を知る者達に私は随分と愚鈍で憐れな娘に映った事だろう。
さて。
そんなこんなで学園での生活も一年が経とうとした頃。
「オーレリア・マーヴェン! お前に婚約破棄を宣言する!」
王宮で開かれた大きなパーティーで、私はマヌエルにそんな事を言われる。
彼の声はとても大きく通っていたので、パーティーの参加者の視線が全て私達に注がれることになった。
まさか婚約破棄を宣言されるとは思っておらず、この時ばかりは意外に思った。
けれどそれだけ。
次に私が考えた事と言えば「どうしよう」ではなく「両親に怒られるわ」だった。
長年の生活の中で、私は諦め、流される事ばかり身に付いてしまったのだ。
マヌエルは私ではない別の女性――ビヴァリー・パートリッジ子爵令嬢の体を抱きしめながら歪んだ笑みを浮かべている。
表情に乏しい私が取り乱したり、泣き喚く姿でも見たかったのだろう。
しかし私はいつも通りの笑顔でドレスの裾を持ち上げ、淑女らしく一礼をした。
「承りました、マヌエル様」
「…………そうか、やはりお前が常々言っていた愛とはその程度のものだったのか。彼女を見ろ! こんなにも私に尽くし、有り余るほどの愛を体現してくれている!」
「左様でございますか」
私の反応にマヌエルの顔が歪む。彼はビヴァリー嬢を引き合いに出し、彼女が如何に素晴らしい存在であるかを話した。
勿論私の心はそれで動いたりもしないのだが。
それが、マヌエルを余計苛立たせたのだろう。
彼は私へこんな事を言った。
「お前は俺の事など見ていなかったのだろう! 俺が喜ぶだろうと考えた言葉を適当に並べていたにすぎない」
本当にその通りだ。
しかし私には前々から彼に命じられた「愛していると笑顔で言わなければならない」という制約がある。
故に私は否定した。
「いいえ、マヌエル様。私は貴方の事を見ておりました。愛していますから」
長い時間を共にしただけあって、彼について語れることはいくつもあった。
私はそれらを淡々と並べる。
「侯爵子息というお立場でありながら同世代の優秀な方々へ劣等感を抱いているお姿を愛しております」
「その苛立ちの矛先が向けられ、罵倒を浴びせられても愛しております」
「冗談半分で池に突き落とされても、手を差し伸べられずとも愛しております」
「私をおいて、他の御令嬢をエスコートしていても愛しております」
「道具と呼ばれても愛しております」
「愛しております、マヌエル様」
「愛しております」
変わらぬ笑顔で、言葉を絶やさず彼の望む「愛している」を連ねる。
そうする度に彼の顔は歪んだ。
初めは怒り。しかし徐々にその顔は青くなり、私を気味悪がるような目つきになる。
周囲の方々とて同じだった。
「っ、何を適当な事ばかり――」
やや遅れて、彼は私の言葉を止めようと叫ぶ。
そして反射的に私を殴った。
日常的に行っている暴力の癖が動揺の末にうっかり出てしまったらしかった。
私は体勢を崩して転倒する。
周囲にはざわめきが走った。
マヌエルもしまったと気付いたのだろう。顔を強張らせた。
転んだ際に捻った足が痛んだが、このような痛みは日常茶飯事なので気にしない。
私は笑顔を作ったまますぐに立ち上がると、深々と礼をした。
「ご機嫌よう、愛するマヌエル様。どうぞお幸せに」
私は痛む足を引きずり、会場を後にした。
王宮の外廊下を歩きながら私は先の事を考える。
パーティー会場には私の両親もいたから、帰宅すれば私は未だ且つてない程の怒りを彼等から受けることになるだろう。
家が傾いている伯爵家の娘と婚姻してくれる様な者は果たしているのだろうか。
そのような事を考えていた時。
「失礼」
私の進路を塞ぐ様に回り込む男性がいた。
黒い髪に黄色の瞳を持つ麗しい見目の青年。
私やマヌエルが通う学園で彼の事を知らない者などいないだろう。
クライド・アルダーソン公爵令息。
整った容姿のほか、剣術も勉学も数々の成績を残す彼は学園中で注目の的となる存在だった。
「ご機嫌よう。クライド・アルダーソン公爵令息様」
「おっと。俺の事を知っているのか。君と話すのは初めてだと思うのだけれどね――オーレリア・マーヴェン伯爵令嬢」
「クライド様は学園でも噂の絶えないお方ですから。それよりも、私の事をご存じである方が驚きでした」
「氷の令嬢――美しい容貌に反し、感情の伴わない、凍えたような顔の女性。婚約者のマヌエル・ステイプルズ侯爵令息以外には決して笑わない女性。それが学園で耳にする君の噂だ」
聞き覚えのない噂だったのは、本人を前にそのような噂をする人物も、わざわざ私に噂を伝えて来る人もいなかったからだろう。
「何か御用でしょうか」
「大した事ではないのだけれどね。もう帰るのであれば、馬車までエスコートさせて頂けないかな」
そういうクライド様は私の足元へ視線を落とした。
どうやら彼は怪我を気遣って私を追いかけてきたようだ。
手を貸そうかと問われれば断りもしたが、あくまで自身がエスコートをしたい体で声を掛けられた以上、立場が上である彼の顔に泥を塗る訳にもいかなかった。
「お言葉に甘えて」
クライド様は手を差しだし、私はそれを受ける。
彼にエスコートをされながら私は馬車へと向かった。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
馬車へ辿り着いた私が礼を述べれば微笑みが返される。
「明日は学園へ来るかい」
「どうでしょう」
彼が何故そのような問いを投げるのか、私にはよくわからなかった。
ただ、明日登校が出来るかは本当に定かでなかった為、正直に答える。
憤慨した両親が私に与える罰によっては、人前に出られない程度の傷ができるかもしれなかったから。
「もし明日来るなら、授業後にどこか遊びに行こう」
「何故?」
「俺は綺麗なものが好きなんだ。それと……君が見せる他の顔に興味が湧いた」
クライド様はそう言いながら私の髪を一房掬い上げた。
口説かれていると思ったが、そうするメリットが彼にはない。
私の家は現在財政が大きく傾いた伯爵家。一方でクライド様は確固たる地位を持つ公爵家の嫡男。
いくら彼が婚約者を持たないとしても、私を選ぶ必要性がない。
余程の物好きだろうか、と私は一つの結論へ辿り着いた。
「それと」
彼は髪から手を離すと今度は私の二の腕に触れた。
彼の指先におしろいが付いた代わりに、それによって隠されていた傷跡がうっすらと浮かぶ。
「俺と約束を交わしたと話せば、大きな傷を作られる事はないかもしれない」
日々の暴力によって生まれた傷を私はおしろいで隠し続けて来た。
上手く隠せていると思っていたのだが、彼はどこで気付いたのだろうか。
そんな疑問を持っていると、クライド様は笑みを深めながら私から離れた。
「それでは、また明日。……良い夜になると良いね」
帰宅後、両親はやはり激怒した。
私を押さえつけて殴りつけようとしたので、「明日、公爵子息とお会いすることになったから顔は避けて欲しい」と頼めば二人の感情は驚く程落ち着いた。
私は一度も暴力を振るわれる事なく、代わりにクライド様を必ず懐柔させるようにと言いつけられた。
「大きな怪我はしなかったようだね」
放課後、わざわざ別の校舎までやって来て私を呼び出したクライド様はそう言った。
「はい、お陰様で。一つも増えていません」
私の答えに、良かったよと返したクライド様は、自分の馬車まで私を案内する。
私達は街を見て回る事になった。
「てっきりカフェやレストランでお茶でもするのかと」
「そんなもの、俺達は飽きるほどしているだろう。今更楽しめるとは思えない」
市民に扮して歩く街はいつもとは違って見えた。
そしてこれまで訪れた事の無い店や見た事の無いものも沢山あった。
街の噴水広場で行われる手品ショーは魔法を一切用いていないというのに、嘘を疑ってしまう程に巧妙な技術が用いられていた。
クライド様に「種が分かったら教えてくれ」と頼まれたので真剣に観察したのだが、結局分からずじまいであった。
普段は訪れないような安価な服屋ではクライド様が市民の中での流行を店長に聞き、いつの間にか二人は仲が良さそうに世間話に耽っていた。
それから流行の服の中から互いの服装を決めて、それに着替えた。
クライド様は屋台で並ぶ串焼きを二人分買い、その内の一つを私へ与えてくれた。
二人でベンチに腰を下ろし、一息吐く。
「俺はたまにこうやって街を歩いて回るんだけど……どうだった?」
「どう、と言われましても」
「楽しくはなかったかな」
私は暫し考えを巡らせる。
けれども、彼の問いの答えは思いつかなかった。
「すみません。私には感情がないので」
「そんなからくり人形の感想みたいな」
「あるにはあると思うのですが、抑えることに慣れてしまったので……」
「自分の心が分からない?」
私は静かに頷く。
クライド様はその横で自身の顎を撫で、夕焼けに染まった空を見上げた。
「じゃ、手品と服屋と今の時間。どれが一番鮮明に思い出せる?」
「手品、ですかね」
「じゃあ、その中で君が『好き』なのは手品を見る時間だった訳だ」
クライド様はそう言いながら私の胸を指で示す。
「ほら、きちんとあるよ。心」
「……そうですか」
「そして感情は常に上書きされるから――今この瞬間にも、『好き』が変わるかもしれない」
彼は持っていた串焼きを軽く持ち上げてから、食べ始めた。
それを真似るように私は自分の串焼きを齧る。
硬くて筋張った肉に、体にあまり良くなさそうな濃さのたれが染み込んでいる。
けれど不思議と、不快感はない。
たれの味のお陰だろう。
先程『好き』の話をしたせいか、私はこのたれの味が『好き』なのだろうと意識する。
ただ……どうにも肉が噛み切れず、いつまで経っても呑み込めない。
永遠に咀嚼し続けていると、隣で小さく笑う気配があった。
「オーレリア」
名前を呼ばれてそちらを見れば、クライド様が親指で私の口元を拭う。
「付いてる」
目を丸くした私へクライド様が自身の親指を見せる。確かにたれがついていた。
礼を述べようにも口に物が入っている状態では何も言えないので、頭を下げるにとどめる。
再び顔を上げた時。
夕焼けを背景に見える彼の笑顔が眩しいと感じた。
美しいという感想が脳裏を過ったその時。
私の顔を見たクライド様が目を丸くし、驚きを見せた。
そして私から顔を逸らした彼は小さく呟く。
「どうやら……君よりも、俺の方が君の心に気付けるようだね」
そう言った彼の耳は夕焼けに負けじと赤くなっていた。
私はクライド様に馬車で家まで送り届けられる。
門の前に降り立った私は彼へ礼を述べる。
「今日はありがとうございました。クライド様」
「クライドでいいよ」
私が目を瞬かせればクライド様は笑みを深める。
「俺も、オーレリアって呼ぶから」
「……わかりました、クライド」
「今日は楽しかったよ。また遊ぼう」
「はい」
自然と、出た言葉だった。
何故彼がそうするのか、その意図は何なのか、これで両親の言いつけが守れる――それらの感情は一切除いて漏れた返事だ。
その事に驚いている内に、クライド様は馬車へと戻っていく。
「じゃ、また明日」
「は、い」
先程反射的に出た言葉の理由を考えている内に、彼は去って行ってしまった。
***
それから私達は友と呼べる関係になった。
学園での昼休憩に会う約束を交わしたり、互いに勉強を教え合ったりしたし、休日や放課後に貴族として振る舞っている間は出来ないような遊びをたくさんした。
クライドは私に知らないことを沢山教えてくれたし、幼い頃確かに有ったはずの心を少しずつ思い出させてくれた。
今思えば、彼は敢えて私が自身の心に気付けるきっかけを与えてくれていたのだろう。
それに気付いた時から――彼を感じる度に心が大きく動くようになっていた。
彼に気に入られている間はと、両親の暴力も減った。
傷が増えればクライドは悲しむだろうから、そうならずに済むのはありがたかった。
そして、卒業を控えたある日。
「結婚しないか。俺と」
定番の場所となった広場のベンチで、クライドはふとそんな言葉を投げ掛けた。
驚きの余り目を見開き、口を微かに開く私の顔を見て彼は懐かしむように目を細めた。
「勿論最初は婚約からだけど……出来るだけ早くに」
「…………急にどうしたの」
「最近、君の可愛さに気付いた男共が多すぎて焦っている」
クライドは真顔でそんな事を言ってのける。
そして彼は私の頬を優しく撫でた。
「初めは気遣いや興味の類だったのに……君の表情が段々変わって行って、君の内面が見えるようになっていって……気付いたら君から目が離せなくなっていた。でも、君の変化に気付いたのは俺だけじゃない。……最近、パーティーや学園で君に声を掛ける輩が増えただろう」
「……確かに?」
「君は前から美しかったけど……こうして驚きを素直に見せるようになってからは一層魅力的になった。このままでは誰かが先んじて婚約を申し出るかもしれない。だから誰よりも先に言わないといけないと思ったんだ。……本当は少しずつ距離を縮めたり、アプローチしたりも、したかったんだけど」
不服そうに、そして恥ずかしそうに口を尖らせる彼の様子を見て、胸の奥からぶわっと広がる温かさを感じる。
私の家は依然として傾いている。公爵子息の彼が私と婚約するメリットはない。
――以前の私なら、そう考えていただろう。
でも今は違う。
彼が私との結婚を望んでくれる、その理由を私は知っている。
……そして私自身の気持ちも、彼と同じだった。
「…………喜んで」
「オーレリア」
ふいに視界が歪んで、涙が溢れ出した。
もう十年以上、覚えがなかった感覚だ。
クライドは驚いてから、心底愛おしそうに目を細めた。
「どうしよう、止まらない」
「いいよ、我慢しなくて」
「人って、嬉しすぎると死んでしまいそうになるのね。初めて知った」
私はクライドの腕に包まれて笑いながら涙を流した。
学園の卒業パーティー当日。
着飾った私達は勿論隣り合ってパーティーを楽しんでいた。
そこへ、一人の男が飛び込んでくる。
――マヌエルだ。
他の男性はクライドの無言の笑顔の圧に押し負けて声を掛けてこないというのに、彼だけは違った。
「オーレリア!」
「ご機嫌よう、マヌエル様」
「様なんて、他人行儀な……」
彼は引き攣った笑みを浮かべている。
私はこの顔を知っている。
誰かへ媚び諂う時の笑みだ。
マヌエルはそれを私に向けながら続ける。
「俺ともう一度婚約しよう!」
クライドは彼を鋭い目つきで睨み、何か言おうと口を開いたが、私がそれを制した。
彼の噂は耳にしていた。
私との婚約破棄後。ビヴァリー嬢と婚約しようと画策していたマヌエルはしかし、彼女の我儘や身勝手さに翻弄されることになったようだ。
更に両親からは子爵令嬢などと婚約は出来ないと言われ、社交界では伯爵令嬢から子爵令嬢へ乗り換えた物好きと笑い者にされることになった。
また淑女としての教養はしっかり身に付けていた私とは違い、ビヴァリー嬢は社交界におけるマナー違反も多く見られ、その度にマヌエルや、ステイプルズ侯爵家の顔に泥を塗って来た。
それらが積み重なった結果、マヌエルとビヴァリー嬢は疎遠になり、互いに新しい婚約者は見つけられていない……というのが現状であったはずだ。
そうして困り果てた彼は私へ泣きつきに来たのだろう。
「……マヌエル様。お気持ちは大変嬉しいのですが、私は既にクライド様と婚約関係にあります。どうかお引き取りを」
「だが……だが! 本当に愛しているのは俺の方だろう! 十年間、ずっとそう言い続けてくれたじゃないか」
寒気が走った。
以前ならば変化もなかっただろう表情筋は完全に引き攣っている。
「俺が愚かだった。だからどうか、またあの時のように愛し合える関係を……!」
私は深呼吸をして、あふれ出そうになる暴言の数々を押し込める。
そうしてマヌエルを見据えてから作り笑いを浮かべた。
「ええ。「愛しているとだけ言えばいい」と、そう言った貴方の事を愛していました」
全ての感情を殺した顔。
クライドに出会ってから消えていったその顔を、マヌエルの前に引っ提げる。
「愛してます、マヌエル様」
私は心にもない薄っぺらな言葉を吐いた。
その顔は婚約者同士であった時に私がマヌエルへ見せた唯一の顔。
婚約破棄を受ける時も崩さなかった仮面。
決して――愛する人に向けるものではない顔。
それに、マヌエルも気付いたはずだ。
婚約破棄後にすれ違った私。クライドと共にいる時の私と、自分の記憶の中の私の大きな変化に。
「あ…………」
放心するマヌエル。
それを見据えていると、私はクライドに肩を並べる。
「嘘でも皮肉でも、他の人にそんな事を言うのはやめてくれないか。嫉妬でどうにかなってしまいそうだ」
俺には? とあざとい顔で見つめる愛する人。
その様子があまりに愛らしくて、私の仮面は一気に剥がれ落ちる。
ぷっと小さく笑いを吹き出してから私は彼に寄り掛かった。
「勿論、世界で一番、貴方を愛してるわ――クライド」
満足したのか、少年のような無垢な笑顔を彼は浮かべる。
そうして私の額にキスを落としてから、彼はマヌエルを睨み付けた。
「そういう事だ。勘違いも甚だしい妄言を吐くのも――彼女の前に現れるのも許さない。……本当に気を付けてくれよ。俺はあまり権力を振りかざしたくはないし……そのせいでどこかの家門が消えるなんてところも、見たくはないからね」
マヌエルはその場に膝から崩れ落ちた。
何も言えず、顔を青ざめさせて俯いたまま震える彼を一瞥し、クライドは私にこの場を離れようと促す。
私達は互いに体を寄せ合いながら、マヌエルの元を去ったのだった。
その後、私達は無事に婚姻し、私はアルダーソン公爵家に嫁入りした。
クライドも、彼の両親であるアルダーソン夫妻も本当に私を大切にしてくれて、幸せな毎日を築いている。
今はお腹に小さな命を宿していて、この子の顔を見られる日が本当に待ち遠しいのだ。
沢山の人に望まれ、愛情を込められて生まれて来るこの子は、きっと幸せ者になるだろう。
穏やかな風が吹く中。ソファに座りながら私がそう話す。
必ずそうさせてあげよう、と、私の傍に寄り添いながらクライドが笑って答えた。
私達の幸せな時間は、これからも続いていく。
尚、私の家は大赤字で没落した。




