第6話 魔蝗アバドン
一方、湿原に踏み込まなかった者達も、決して幸運とは言い難かった。
大樹の天蓋の下をさまよっていた兵士達は、茂みや木の葉が不気味にうごめき出すのを目にする。
最初に飛び出したのは、魔蝗アバドンの大群だった。中型犬ほどもある妖虫達が、大顎で鎧ごと肉を噛みちぎり、短剣並みの毒針を突き刺す。
木々の間には、魔犬オルトロスの群れに引きずられていく犠牲者達の悲鳴がこだまする。
小妖精の魅了に負け、塚穴や樹洞に姿を消した者らは、二度と日の目を見ることはなかった。
兵士達は死力を尽くして抗った。
だが、散り散りになった部隊では戦列を組めず、弓矢の一斉射も分厚い樹皮や葉に阻まれる。
琥珀の森は、無限とも思える怪物の波状攻撃を浴びせ続けた。
帝国軍で唯一、善戦したのは、二百名余りの魔術師団の生き残りだった。
団長ヴィルギリウスは前線に立ち、朱塗りの槍を振るい、部下達を叱咤する。
深紅の法衣はズタズタに裂けて見る影もないが、その魔力はまだ衰えていなかった。
数十の火球が魔蝗達を焼き滅ぼし、熱線が魔犬を両断する。
ごうごうと立ち上る赤炎の壁が、森の魔物達を寄せ付けなかった。
だが、その奮戦を断ち切ったのは、突如の地響きだった。
樹木の生えた岩山のような巨体を揺らしながら、大地の王ベヒーモスが姿を現したのだ。
驚愕に息を呑みながら、ヴィルギリウスはありったけの火球を放った。
炸裂する爆風が梢を揺らす。
だが、ベヒーモスの巨体の前では、それも小さな火花に過ぎなかった。
獣王の黄金の瞳に射抜かれ、火炎術師達の戦意は、ガラスのように砕け散った。
ヴィルギリウスは火の翼を広げると、戦場から逃亡した。
それが、駱駝の背を折る最後の一藁だった。
団長が飛び去るのを見て、堤防が崩れるように、残りの魔術師達も持ち場を捨てて逃げ出した。
手足から火を吹き、あるいは黒煙に紛れて、次から次へと姿を消す。
無惨に置き去りにされた一般兵の悲鳴と恨みの声を、森の闇が静かに飲み込んだ。
燃えるような肺の痛みに、エイリスはようやく気づいた。自分が、ずっと息を止めていたのだと。
遠征軍が森へ突撃してから、どれほどの時間が経ったのだろう。
数時間にも思えるし、ほんの一瞬にも感じられた。
「俺達の帝国軍が……こんなに呆気なく……」
バルドが涙を浮かべ、逞しい体を震わせていた。
ガロンは無言のまま、その肩を叩く。
エイリスの胸にも、石のように重く冷たい塊が沈んでいた。
バルドのように泣き叫べないのは、目の当たりにした現実を、どう受け止めればいいのか分からなかったからだ。
戦いにすらならなかった。
琥珀の森は、帝国最大の軍勢を苦もなく飲み込み、噛み砕き、食べ残しを吐き出した。
「……食べ残し……?」
生き残りの兵士達が、這いずるように木立の闇から逃げ出してくる。
その数は、壊滅的な敗戦を思えば信じられないほど多い。
魔蝗の大群が、追いたてるように飛び、逃げ遅れた兵を捕らえては毒針を突き刺す。
刺された兵は痛みにのたうつが、すぐに立ち上がり、走り出す。
――おかしい。
毒が弱すぎる。あの巨虫より小さな蠍ですら牛を殺す猛毒を持つというのに。無慈悲で周到な罠を重ねてきたエルフが、なぜ手加減を?
「魔蝗の毒には二種類ある」
まるで青年の心を読んだかのように、ガルウィンが口を開いた。
「一つは威嚇用だ。激しい痛みを伴うが、後遺症はなく、一晩眠れば治る。だが二つ目は――厄介だ。お前達、儂が伝染病について話したのを覚えているか?」
「はい……病の原因は瘴気や悪霊ではなく、目に見えぬ小さな生き物だと……」エイリスが答えた。
「その通り。」老賢者が頷く。「アバドンの体内には線虫という微生物が棲む。この虫が毒液や唾液を通じて宿主に移ると、一か月の潜伏期を経て急激に増殖する。感染者は高熱、悪寒、嘔吐に苛まれ、七割が死に至る」
三人の弟子は弾かれたように、敗走する兵士達を目で追った。
「なんとまあ……」ガロンが耐えきれぬとばかりに首を振る。「怪物の顎を逃れても、荒野で飢え、病で死ぬのか……」
「飢えと渇きはない。」ガルウィンが遮った。「食料も水も簡単に見つかる。野獣も襲わぬ。エルフは彼らを丁重に帝国へ送り返すのだ」
「まさか……!」巨漢が目を剥いた。
ガルウィンが身を起こす。その顔には、泣くとも笑うともつかぬ壮絶な表情が浮かんだ。
「妖精族の動植物を操る術は、微生物にまで及ぶ。線虫は宿主の中で静かに眠り、故郷に帰った瞬間に牙を剥く。人間だけを標的に感染を広げ、帝国全土に疫病を撒き散らすのだ」
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