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第4話 宝石の崩壊

その頃、遠征軍を率いる元帥プリムスも、微かな違和感を抱き始めていた。

年若いとはいえ、彼もまた幾多の戦場を潜り抜けてきた熟練の軍人であり、人肉の焼ける匂いがどんなものかは熟知している。

たとえエルフ達の身体の作りが人間と異なろうとも、用心するに越したことはなかった。


ヴィルギリウスが放った《炎神降華》の威力は確かに絶大だった。

だが、その代償とリスクもまた大きい。軽々しく連発できる代物ではない。


終わりの見えぬ行軍で疲弊しきっていた兵達の士気は、ようやく高まった。

ここは陣を築き、兵を休ませるべきだ。

そして、あの焼け跡に横たわる妖精族とおぼしき死体を検分せねばならない。


プリムスは軍笏を高々と掲げ、次の指示を発しようとした。

……だが、声が出なかった。


プリムスは叫んだ。だが結果は同じだった。

声だけではない。彼と近衛部隊、そして軍楽隊を囲む空間そのものから、一切の音が消え失せていた。


――《沈黙の術》か!


本来なら、敵の術師の詠唱を妨げたり、斥候の潜入を助けるための術だ。

だが、これほど広範囲に及ぶ規模のものは、聞いたことも見たこともない。


プリムスは即座に、こうした事態に備えて編み出された手話暗号で部下達との意思疎通を試みた。

しかし、その行動より早く――


『全軍、森に向かって突撃せよ!』


プリムスそっくりの声が、戦列を組む兵士達の頭上で弾けた。

次いで響き渡った戦太鼓と角笛の音色も、帝国軍音楽隊が鳴らすものと寸分違わぬものだった。


プリムスは誰にも届かぬ声で叫び続け、旗による指揮に切り替えようとした。


だが、その時――灰色の壁が彼の視界を塞いだ。

吹き飛ばされたはずの霧が、爆炎で舞い上がった黒煙を伴いながら、再び戻ってきたのだ。

全軍が、隣の隊すら見えないほどの濃い靄に包み込まれていく。


もし、これが平時であれば、兵の何割かはその頑強な意志で声に潜む魔力をはねのけたかもしれない。

もし、指揮官達が疲弊しきっていなければ、不自然な命令に疑いの目を向けたかもしれない。

そして、もし魔術師団が火炎術に偏らず、防御術や破魔術の使い手を備えていれば、元帥にかけられた術も解呪できたかもしれない。


だが、幾重にも仕掛けられた妖精族の策と魔法は、遠征軍の中枢をじわじわと蝕んでいた。

兵達の規律と統制は、ぬるま湯の酸に浸された鉄のように、静かに、そして着実に腐食していた。


それが今、勝ち戦の快感と、偽りの突撃命令によって、一気に弾け飛んだのだ。


「突撃!」「突撃ぃ!」「突撃ぃいい!」


偽りの指令が、幾重にも復唱され、瞬く間に全軍へと伝播していった。

帝国軍の美しく完成された、宝石のような戦列に、ついに深いヒビが入り、崩壊した。


帝都を意気揚々と出発したあの日、兵達の心には野心と希望が満ちていた。

敵を討ち取り、武勲を立てて出世する。

妖精郷の秘宝を奪い、富を築き上げる。

中には、見目麗しいと名高いエルフの女を捕らえ、妻や奴隷として持ち帰る夢を抱いた者も少なくなかった。


それがどうだ。

あの呪われた平原で、商人や娼婦達が逃げて以来、彼らには一片の楽しみすら許されなかった。

酒もなく、女もなく、賭博すら最小限に制限される日々。


抑え込まれた欲望は、人を獣へ変える。

満たされぬ飢えと渇きは、その獣を、鬼へと変貌させるのだ。


十万の大軍は、狂気に突き動かされるように森へと突進した。

柔らかな肉に鋼を突き立て、骨を軍馬の蹄鉄で踏み砕き、女の衣を引き裂く幻を胸にーー次々と森の影へと飛び込んでいく。


その光景を前に、大導師ヴィルギリウスは魔術師達に檄を飛ばした。

帝国軍にかけられた呪いを解こうと、必死に詠唱を繰り返す。

しかし、朱の槍から火を噴こうが、雷を放とうが、雪崩のように崩れ落ちるこの事態を止める術は、もはや残されていなかった。


視界を覆う霧を晴らすことすら叶わぬ己の無力を前に、ヴィルギリウスは悟る。

彼が原始的なまじないと嘲ってきた、妖精族の呪法の恐ろしさを。


白と黒が渦巻く靄は、天を突く巨人のごとく立ち塞がっていた。


軍勢の中央で、魔術師団の赤い浮島は、金属と人の津波に押し流され、琥珀の森の深い闇の中へと飲み込まれていった。


遠く離れた丘の上で、ガルウィンの弟子達は必死に戦況を探ろうとしていた。


「ガロン!目が自慢だろ!何とかならんのか!」

「そうは言うがな、この霧じゃ……おお、少し晴れた!なんてこった!うちの軍、えらいことになっとるぞ!」

「見せてみろ!」


他の二人は奪い取るように、巨漢の手から筒状の望遠鏡を受け取り、森の中の光景を覗いた瞬間、息を呑んだ。


ガルウィンは瞼を固く閉じていた。彼には何が起きているか、おおよその見当がついていた。そしてそれをこの目で見たいとは、露ほども思わなかった。


琥珀の森へ流れ込んだ十万の兵は、岩や木々に遮られて、小さな集団へと分裂していく。

千人隊は百人隊に、百人隊は小隊に……。

兵達は、次第に仲間を見失っていった。


騎兵は守るべき歩兵を置き去りにし、弓兵は槍兵を追い越し、魔術師達は無防備にローブの裾を引きずりながら遊軍の跡を追う。

戦列はもう、帝国軍の名に値しない有様だった。



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