第2話 地の利と魔の力
「……今ごろ到着か。『疾風将軍』を名乗るプリムスにしては、ずいぶんと悠長だな」
エイリスがぼやく。
帝都での壮大な出陣式の後、遠征軍が出発したのはすでに二ヶ月前。その一月後に、ガルウィンは何も告げぬまま弟子達を連れて旅に出た。
しかも、その道中で特に急ぐこともなかった。宿場町や神殿に寄り道を繰り返し、琥珀の森にたどり着いた。
だからエイリス達は、ここに来るまで何度も思ったものだ。
……戦など、とっくに始まり、終わってすらいるのではないかと。
「……隊列、よれてるな。鎧や武器も汚れが目立つ。何かあったのか?」
バルドが顔をしかめた。
遠目には完璧に見えた軍列も、近づくほどに綻びが見え始める。槍の穂先は左右に揺れ、兵達の顔には無精髭と垢がこびりつき、眼は血走り、餓えた獣のようだった。
「ひどい面構えだな。ちゃんと食ってるのかねえ……」
ガロンが悲しげに首を振る。
「……従軍商人の姿が見えん。女達の姿もない。これは、どうにも奇妙だ……」
帝国軍は、兵士だけで成り立つものではない。
食糧や武器、衣類といった生活必需品はもちろん、賭博や娼婦などの娯楽を提供する従軍商人達が、まるで一つの移動都市のように軍に随行する。それが常であった。
遠征軍を率いるプリムスは、性急な性格ではあるが無能ではない。
十万の大軍を動かすため、彼もまた、一国の軍勢に匹敵する数の商人と補給部隊を整えていた。
だが今、目の前の遠征軍には、兵士以外の影がまるで見当たらなかった。
何が起きたのか――
弟子達は答えを求めるように、師ガルウィンを仰ぎ見た。
老将軍は、哀しみを帯びた眼差しで憔悴した兵士達を見下ろし、口を開いた。
「……これが、儂の言った『地の利』と『魔の力』だ」
「兵数では劣っていても、妖精――エルフ達の方が、魔術師の数は多い。その術をもってすれば、不慣れな地で大軍を迷わせることなど、造作もない」
「そんな……」
「十万の軍勢を惑わす幻覚など、聞いたこともありません!」
エイリスがうめき、バルドが抗議の声を上げた。
だが、ガロンは顎髭を撫でながら、落ち着いた口調で言った。
「いや、それほど無茶な話でもないさ。何も全員に術をかける必要はない。
平の兵士は隊長についていくだけ。隊長は上官に従い、上官は将軍に……そして元帥のプリムスもまた、地図や案内人に頼って進んでいるはず。
つまり、幻術で惑わせるべきは、ごく限られた指揮系統だけで十分ということだ。百人もいれば足りようよ」
「付け加えるならば……」
ガルウィンが頷きつつ続ける。
「相手を迷わせる術は、何も幻覚に限らん。ここに至るまでの地形を覚えておるか?」
「だだっ広い草原ばかりでしたな。目印と言えば、丘と古い石碑、それに獣道くらい……」バルドが眉を寄せた。
「私達は、太陽と星を頼りに、この森へたどり着きました」エイリスが静かに付け加えた。
「ーーそう。まことに迷いやすい、緑の海原のような土地だ。もし、エルフ達が魔術によって地形や天候すら自在に変えられるとしたら……どうなる?」
弟子達は、丘へと続く道を振り返った。
そして背筋に、ぞっとする寒気が走った。
つい先ほどまで牧歌的に広がっていた草原が、今は魔性の巣のように思えた。
「大地を裂き、雷を落とす必要などない。丘の位置をずらし、道筋を変えるだけで、兵はたやすく迷う。空を雲で覆えば、星も太陽も隠れ、方角を知る術は失われる」
「……ですが」
エイリスが、なおも反論を試みた。
「プリムスはこの地形を知っていたはずです。星や魔術に頼らない『方位計』という器具を用意していたと聞きました」
「磁気で方角を測る道具だな」
ガルウィンは、哀れむような目で最年長の弟子を見やった。
「だが、妖精達はそのことをとうに知っている。鳥の中には磁気で渡りをする者もいる。ゆえに、磁力を操る術も彼らは心得ているのだ」
弟子達は、愕然とした表情で顔を見合わせた。
三人とも当代随一の軍師ガルウェインの下で学び、戦術の奥義を叩き込まれた者達だ。エルフのこの戦術が、いかに狡猾で効果的なのかを即座に理解した。
十万の兵力は圧倒的に見えるが、長期の行軍となれば、その数が自らに牙を剥く。
万を超える頑強な兵士達は、日々膨大な兵糧を消費する。
軍馬、そして輜重を担う牛は、それ以上に大食らいだ。
周囲の草など、たちまち食い尽くす。
牛馬を養うには、遠征軍はやむなく隊列を広げるしかなかったはずだ。
その分、秩序は乱れ、進軍はますます遅れ……迷いやすい地形が、それに拍車をかけた。
「……いったいどれほどの間、あの草原をさまよっていたんだ?」
エイリスが、遊軍の無残な有り様に目を細めながらつぶやく。
「……一月、いや、それ以上かも知れん」
バルドが赤毛の髯をつかみ、渋い顔をした。
「……帰りの食糧、残っているだろうか?」
「従軍商人の姿が見えんのは、はぐれたか……いや」
ガロンが口元を吊り上げ、皮肉っぽく笑った。
「逃げたな。負け戦になりゃ、商人どもは略奪の的だ。
奴らは鼻が利く。勝ち筋の匂いが消えた瞬間、尻に帆をかけて逃げちまったんだろうなぁ」
「臆病者どもめ……! 敵の顔も見ずに、味方を見捨てて逃げるとは!」
エイリスが吐き捨てるように言った。
「まあ、しょせん商売人に過ぎん。軍人の誇りや掟を押し付けるのは酷ってもんだ」
バルドが兄弟子の肩を軽く叩き、宥めるように言った。
「それに、逃げる際には邪魔な兵糧や荷物を置いていっただろうさ……。それがせめてもの救いだ」
ガルウェインは静かに頷き、手に握った古木の杖をゆっくりと掲げた。
やつれ果てた群集の中で、妙に身なりの整った一団を指し示した。
「さて……この状況を、輪をかけて悪化させておるのが、あれだ」
弟子達の視線が、そこへ向けられる。
「プリムスは、従軍魔術師の大半を火炎術師に置き換えた。確かに炎術の威力は凄まじい。オーク戦では、彼らを集中的に投入することで、目覚ましい戦果を挙げた。……だがな、軍における術師の役割は、攻撃魔法ばかりではないのだ」
事実、従軍魔術師の任務は多岐にわたる。
使い魔や占術を使った偵察。
指揮官を呪詛から守る護衛。
病や傷を癒すための薬の調合。
そして、こうした遠征では、道程の誘導や水、食糧の確保すら魔術師の仕事だ。
火炎術師達は、敵を薪に変える腕は確かだったが、こうした地味な補助魔法を苦手としていた。
それでも彼らは、軍の要とされ、最優先で兵糧を支給されている。
飢えと渇きに苦しむ兵士達の眼に、それがどう映るか……想像に難くない。
魔術師団と他の兵団との軋轢は、遠目にもはっきりと分かった。
赤いローブの一団は、まるで軍勢の中にぽつんと浮かぶ島のように孤立していた。
兵達の視線は鋭く、冷えきっていた。
一方で、火炎術師達の表情はどこか固く強張っていた。
道中の役立たずという汚名を、せめて戦場で返上せんと――
その焦りが、緊張という形で顔に現れていた。
「師匠の椅子を奪ったときは、憎らしいと思ったが……こうなれば、気の毒なものだ」
ガロンが苦笑いを浮かべてつぶやく。
「あんな腹ぺこの軍勢を率いる羽目になるとはな。俺なら、まっぴらごめんだ」
「……なんとか、引き返すことはできないのか」
バルドが顔をそむける。
優れた武器こそが戦の命運を分けると信じてきた。
だが今、目の前の兵達はその武器に押し潰されそうになっていた。
「このままでは……間違いなく、酷いことになる」
「プリムスに、退くという選択肢はない」
ガルウィンは、白髪の頭をわずかに横に振った。
「皇帝陛下の寵愛を受けて帝国軍元帥となったとはいえ、その地位は盤石とは程遠い。
あやつは……あまりに早く、高く昇りすぎたのだ。このまま何もせず退却したとあらば、その身は地の底まで落ちていくだろう。
勝って、前へ進む。それしかないのだ、あやつはな」
「……まだです!」
エイリスが、食いしばった歯の隙間から絞り出すように言った。
誇り高く祖国を愛する若者は、たとえ政敵が指揮を執っているとはいえ、友軍が無惨に敗れる姿には耐えられなかった。
「迷っても、餓えても……我が軍は誰一人欠けることなく、敵地に辿り着きました! 今の兵達は、まさしく背水の陣。士気はかつてなく高まっています!ここで野戦に勝てば、まだ――まだ望みはあります!」
ガルウィンは、その言葉に静かにうなずいた。
「左様。戦いはまだ始まったばかりだ。その行く末がどうなるか……最後まで、見届けよう」
そう語る老将の声には、まるですでにその“最後”を見てきたかのような、深い響きがあった。
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