第1話 帝国軍到着
風が丘を撫でる。
丘の上に立つ老人の、雪のように白い髯と髪がそよいだ。
叡知と憂いを湛えたその瞳が見下ろす先には、琥珀の森――太古の魔法と神秘、そして妖精の国が今なお息づくと伝えられる聖域が広がっていた。
「……ここで良かろう」
そう言って、老人は丘にある岩に腰を下ろす。名をガルウィン。好々爺とした外見とは裏腹に、かつて『戦場の賢者』の異名で恐れられた大将軍である。
「汝らに問おう」
振り返らぬまま、ガルウィンは低く問いかけた。
「……戦において、最も重要なことは何か?」
彼は独りではなかった。三人の弟子がその背に従い、静かに丘の頂に姿を現した。
「――人です」
細く長身のエイリスが答える。声は剣のように冷たく鋭い。
「戦いは人に始まり、人に終わります。兵士の士気と質なくして、勝利はあり得ません」
「人は老い、病み、いずれは死にます」
負けじと声を上げたのは、背は低いが頑強なバルド。鍛冶屋か石工のような体格をした男だ。
「勝つためには、鋼と、それにまつわる技術が不可欠です。優れた武器と装備があれば、一人で十人分の働きもできます!」
「いやいや、飯でしょう」
太鼓腹を撫でながら、巨漢のガロンが言った。
「腹が減っては戦はできぬ、って言うじゃないですか。……で、昼飯は何時ですかね?」
「お前、まだ食うのか!」
「さっき朝飯食ったばかりだろ! 帰りの分まで食い尽くす気か!」
年上の二人に詰め寄られ、ガロンは困ったように頭をかいた。
そんな弟子達のやり取りを、ガルウィンは目を細めて見守っていた。
エイリス、バルド、ガロンの三人は、いずれも孤児だった。
ガルウィンは戦場で失った忠実な部下達の遺児を引き取り、わが子のように慈しみ育て、自らの知識を惜しみなく授けた。
彼は、エイリスの鋭利さを、バルドの屈強さを、ガロンの豪放さを、それぞれ愛していた。
それだけに、これから起こることに、心を痛めていた。
「お前達の言うことは、いずれも正しい。士気、装備、兵站――いずれも戦いの基本だ。だが……それだけでは足らぬ」
「と、おっしゃられますと?」
弟子の中でも最も積極的なエイリスが、真っ先に問い返す。
「儂ならば、そこに『地の利』『魔の力』そして『天の運』……を加える」
まだ腑に落ちぬ顔をする弟子達を手で制し、ガルウィンは東の山肌に目を向けた。
「見よ。感じよ。そして耳を澄ませ。
お前達の問いの答えが、今――こちらへ歩いてくるぞ」
そして三人は感じた。朝の大気を震わせる、あの響きを。
十万の足とサンダル、蹄が大地を踏み鳴らす、雷鳴のような轟音を。
ただの枯れ草しかなかったはずの山肌が、突如としてまばゆく輝きだす。
まるで太古の木々に対抗するかのように、並び立つ金属の森――朝日を反射し、きらめく無数の長槍の列。
それらが、規則正しい足並みで前進してくる。
「プリムスの妖精国遠征軍……ついに到着したか」
エイリスが、苦味を含んだ声でつぶやいた。
大陸に冠たるアルマー帝国の若き皇帝が、琥珀の森に住まう妖精達に宣戦を布告したのは、半年前のことだった。
発端は、帝国が宿敵オークとの戦争に勝利したことにあった。
その戦には、ガルウィンと弟子達も従軍していた。帝国軍はオーク軍を打ち破り、大酋長の首級を挙げて戦いを終結させた。
戦勝により、帝国は南方に広がる豊かな大平原を手に入れた。すぐさま開拓団を派遣したものの、深刻な問題が発生する。
木が足りなかったのだ。
建築用の材木、冬を越すための薪、農具や武具の材料、そして調理用の燃料ーーあらゆる場面で木材が求められた。
そこで帝国は、森を司る妖精国に伐採の許可を求めた。しかし、エルフ達は森の生態系を守るためとして、その要請を拒否した。
怒った帝国は、許可も得ずに伐採部隊を森に送り込んだが、妖精族の弓兵に容易く追い返された。
これに激昂したのが、玉座に座ったばかりの若き皇帝だった。
オーク戦での勝利に酔い、自信をつけていた彼は、エルフ族にも戦を仕掛ける決断を下す。
まず帝都にいた妖精の大使を公開処刑し、さらにはエルフの血を引く混血児達を炭鉱へと送り込んだ。
元帥であったガルウィンは、何度も開戦の撤回を進言した。だが皇帝は耳を貸さず、ついには彼から軍権を剥奪する。
その権限は、オーク戦で斬新な戦術をもって功を立てた、若きプリムス将軍へと移されたのであった。
そして今、ガルウィン達の目の前で、帝国軍元帥となったプリムスが、妖精族の本拠へ向けて進軍していた。
まるで大河のように、次々と新たな部隊が姿を現し、山を下っていく。
果てしなく続く銀の帯のように伸びる、長槍兵の隊列。
その周囲を取り囲む鉄壁のごとき、軽騎兵と重騎兵達。
後方で整然と控えるのは、熟練の長弓兵と重弩兵達だ。
そして、赤いローブを翻しながら前線へ進み出るのは、この遠征のために集められたという、五百名の火炎魔術師達であった。
帝国本軍と同盟諸国の援軍を合わせた総勢は、十万。
現在の大陸はおろか、過去百年を遡っても、これほどの規模と練度を備えた軍勢は他に類を見なかっただろう。まさに壮観――だが。
ガルウィンの弟子達は、その華々しい進軍の中に、ある異変を感じ取っていた。
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