三途の川の船頭さん
深夜、とある家。布団に横たわる男が、枕元の携帯電話に手を伸ばした。まるでカタツムリの歩みのように、ゆっくりと。
彼は自分の寿命が尽きるのを悟っていた。指先が震え、冷え切っている。呼吸は浅く、胸の奥がじんわりと痛む。だからこそ、最後の力を振り絞り、電話をかけようとしているのだ。
コール音が響き、相手に繋がると、彼はか細い声で言った。
「……あ、もしもし、三途の川渡しの船頭さんでっか?」
「おう、そうやけど、どなたさん?」
「ぼちぼち死にそうなんで、船の予約をお願いしたいんですわ」
「はあ? 予約やと? いやいや、うちはそういうのやっとらんねん。死人は毎日ぎょうさん来るし、基本順番待ちや。あっ、こらそこ! 揉めんな! 落ちるやろがい! あーあ、ほんまに落ちおったわ。……で、あんた、そもそもこの番号どこで知ったんや? まさかネットに晒されとるんとちゃうやろなあ。ほんま、業の深い世の中やで」
「人づてに聞きましてな。ほんで、どないしてもお願いしたいんですわ」
「順番守りなはれ。船があかんでも、橋もあるしな。金銀七宝の豪勢な橋やぞお。見物やで。中には『持ち帰ろ』言うて爪で削っとるアホもおるくらいや」
「いやー、橋なあ……」
「ん? ああ、さてはあんた善人やないな? あの橋を渡れるんは善人だけや。律儀に電話してきおったから勘違いしたわ。ほんなら自力で渡るしかあらへんで」
「そら、川を歩いて渡れってことでっしゃろ? 体力がないんや。今もこの電話が重ぉて、重ぉて……」
「同情買おうたって無駄や。死人は大概、ヨボヨボのボロボロやからな。溺れんようせいぜい頑張りなはれ。罪が軽ければ、浅瀬で済むで。膝下くらいや」
「せやけど、重罪人は深いとこ行かなあかんのやろ?」
「そや。流れが速うて、どでかい波が押し寄せるんや。おまけに岩や大蛇が流れてきて、罪人らが次々に悲鳴上げて潰されていくんやで。石積みしとるガキどもが、それ見てきゃっきゃ笑っとるわ」
「ひえええ……あの、なんとかなりまへんか? 渡し賃、多めに支払いますんで」
「多め言うても、こっちも物価上がっとるからなあ……。そもそも、おたく何した人なん?」
「いやあ、ちょーっと増税したんですわ。うち、総理大臣やりまして」
「あー、あんたは船乗っても、他の客に蹴落とされるわ」