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交差

 

「今日はここまでにしよう。次回は模試の過去問を解くから、しっかり準備しておくように」


 塾講師の言葉に促され、机から立ち上がる。塾が終わるたびに感じる独特の疲労感が、今夜はいつも以上に重い。周囲の生徒たちは、さっさと教室を出ていくが、俺はどうにも足が動かない。


「水無月、どうした? 何か気になることでもあるのか?」


「……いや、大丈夫です」


 塾講師に声をかけられたが、適当に応じて席を立つ。大丈夫なはずがない。本来ならあの日、連絡が来るはずだった。何かが違う。本当にこのままでいいのかという不安が、心の奥底から湧き上がってくる。


 塾を出た後、夜風がひんやりと肌を刺す。焦りと不安が頭の中を支配していて、心ここにあらずという感覚だ。


「……黒羽、どうして連絡が来ないんだ?」


 心の中でそう問いかけるが、当然、答えなど返ってくるはずもない。数日が経ち、もう一度会えるかもしれないという期待は薄れ、ただ焦燥感だけが残っていた。何かを見落としているのではないか。もし、このまま連絡が来なかったらどうすればいいのか――そんな思いが頭を巡る。


 足取りが重いまま、俯いて歩き続ける。ふと顔をあげ、いつものように周囲を見渡してみると、歩道橋を挟んだ向かい側の暗がりに見覚えのある人影が立っていた。


「……黒羽?」


 心の中で呟くと、胸が一瞬で高鳴った。歩道橋を隔てて、暗がりに立つその姿――あの、数年ぶりに再会した瞬間がフラッシュバックする。


 焦りが頂点に達したその夜、俺は確かに彼女の姿を見た。


 そう思い、急いで青になった信号を渡ろうと一歩踏み出したその時、男が黒羽に話しかけ、やけに楽しそうに談笑する姿を見て踏み出そうとした一歩を引き、頭の中が真っ白になった。ただ、どうしてと心の中で何度も何度も呟いた。


 俺はその場で立ち尽くし、目の前の光景に心が沈んでいくのを感じた。あの男は黒羽の中学の同級生で、彼女と仲が良いことで有名だった。親しげに笑い合う二人の姿が、俺の心に暗い影を落とす。


「俺は何をしているんだ……」


 再び信号が青になり、周囲の雑音が耳に入ってこない。焦りが胸を締め付け、どうにかして彼女のところに駆け寄りたいのに、足が動かない。俯いたまま、心の中で「行かなきゃ」と呟くが、どうしても動けない自分が情けなくてたまらない。


「もう、行こう……」


 意を決して足を踏み出そうとした瞬間、男が黒羽に何か話しかける。その内容は聞こえないが、彼女が微笑み返す姿を見て、心が折れた。俺は俯き、再びその場を離れることにした。


「なんで、俺はこんなに弱いんだ……」


 帰り道、心の中で自分を責め続ける。自宅に着くまでの道のりは、まるで長いトンネルを歩いているような気分だった。自分の感情を整理できず、ただ不安だけが増していく。


 家のドアを開けると、母が心配そうに顔を覗かせる。


「どうしたの? 元気がないよ。」


「……何でもない」


 何でもないはずがない。しかし、言葉が出てこない。部屋に戻ると、またしても胸が苦しくなった。ふと、部屋の中の静けさが耳障りに感じる。


 何度も鳴る電話の音が、心の中の不安をさらに掻き立てる。黒羽からの着信は数回、無視するたびに心の中で焦りが募る。


「どうして、どうしてこんな時に……」


 一瞬、電話を取ろうかと思ったが、どうしても踏み出せない。怖いのだ。再び彼女の声を聞くことが、今の俺には耐えられそうにない。彼女に会いたいのに、そんな自分が情けない。


 その時、再び電話が鳴った。母が台所から顔を出し、心配そうに俺を見つめる。


「透!また、黒羽って子からの電話よ。早く出なさい?」


「……出れる気分じゃない」


「こんなにかかってきてるのに、何もしないの? さっさと電話に出なさい!」


 母の声は厳しく、俺は動くことができない。心の中で、もう少しだけ待ってくれと思うが、時間は待ってくれない。再び電話が鳴ると、母はため息をついて受話器を手に取った。


「もしもし? 水無月です」


「お母さん?」


 声を発した瞬間、俺は驚愕した。母が勝手に電話を取ったことに気づき、急いで声をかけようとしたが、母は一向に気にしない。


「あなた、話したいことがあるんじゃないの?」


 電話の向こうで黒羽が沈黙しているのが分かる。やがて、彼女が口を開いた。


「……明日、会えないかな?」


 その一言が、俺の心を直撃した。再会したい気持ちと、彼女の意図を測りかねる不安が交錯する。


「ごめん、話せる気分じゃない」


「じゃあ、少しでいいから話聞いて?」


 黒羽の声には不安が混じっているように感じた。俺は思わず、彼女の気持ちを汲み取りたいと願った。


「今日、話したいことがあったから塾が終わるまで待ってたの」


「……うん」


「信じてくれるかわからんないけど、あそこで友達に会ったのは、偶然。本当に。楽しく話してるのを見せつけようとして呼んだんじゃないの」


「……だから、明日会って話せないかな? 明日じゃなくても、都合のいい日で良いから会いたい」


 ーー会いたい。


 その言葉に、何かが動いた。心の奥で渦巻いていた焦りが少しずつ和らいでいくのを感じた。明日、会うことができれば、きっと何かが変わる。そう思いたい。


「じゃあ、明日の夜、塾が終わった後にでも……」


 電話越しの黒羽の声が、やわらかく響く。彼女との距離が少しずつ縮まっていく気がした。

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