6.日常系エッセイ(過去作は検索除外しているのでこちらから)
阪神大震災ネタ本「大震災名言録」を読んで、昨今の地震にからめた様々な主張を思う。
大震災名言録という本があります。阪神・淡路大震災で起こったさまざまなことを「被災者目線な笑い話」エピソードとして集めたという問題作で、真偽のほどは色々とあやしいし不謹慎なところもあるのでちょっと人は選ぶかもなんだけど、まあ面白い本かなと。そうですね、例えばこんな感じでして。
【空港本線料金所】
ゲートを抜けて間もない地点で倒壊が起こっていたにもかかわらず、入口料金所は地震発生直後もしっかり六百円の料金を取りつづけ、通行車に、
「たいしたことなかったみたいやな」
と思わせる役割を果たした。
……と、こんなノリで、被災者や避難所、避難物資、ボランティアに炊き出しに政治と、さまざまなことを被災者目線で面白おかしく語っていると、そんな本です。
さらにいくつか、ちょっと紹介してみたいと思います。
【決意】
中央区の開業医・Yさんは揺れが収まった室内で時計を見て、
「まだ六時前か。診察に差し支えるから、こらなんとしてももう一度眠らなあかんわ」
と、決意し、無理にでも眠ろうとしつづけた。
【ボケてみせる浦島太郎】
「一月十七日、村山首相は何一つ事態がわかっとらんかった」
「国土庁の職員は、あの日定時で帰った」
など、「十七日の政府のわかってなさ」の例は数限りなくある。
しかし、震度7に直撃され、家がつぶれて閉じ込められたほどの人でさえも、しばしば事態の重大さはわかっていなかった。
十七日の昼ごろ、ある十代後半の少年が、倒壊家屋から元気に救助されるさまがテレビで生中継されたが、その少年も浦島太郎状態で、見守っていた人たちと、
「全然大丈夫や」
「おい、これテレビで全国に流れるぞ。関西人やねんからなんかボケてみせ、ボケてみせ」
「ほな、ちょっとつまづいてみよか」
などと言葉を交わし、救助した友人ともどもまったく全体の状況がわかっていないことを全国にしらしめていた。
この映像は、その日の午後、三回以上流された。しかし夜になって「今日一日をふりかえる」ダイジェストになったころには、テレビ局も含めてたいへんな事態であることが完全に認識されており「ボケてみせ」などはいっさいカットされ”つらそうな救助された人”に一変して短く紹介されていた。
生中継のときから夜のダイジェストまで全部見ていた東京在住のN君は、当然だと思ういっぽうで、その編集技術にも驚かされた。
【豪華メニュー】
「気の毒な話」が好きなマスコミには、どこにも載らなかったが、
「じつは大震災初日から二日目あたりは、ごちそうを食べた」
という人は意外に多い。
いきなり停電で、冷蔵庫にあった食品はみすみす腐らせるより急いで食べたほうがいいと、なんとか火をおこして焼いてお腹に詰めこんだ家庭が多かった。
筆者の友人の家庭では、初日の夜のメニューは
「ポークソテー、生ハム、切り身魚、水ギョウザ」
で、翌朝は、
「オムレツや目玉焼きなどたまご料理各種」
を食べられるだけ食べた。
別の友人のところも、
「牛の焼き肉レモン添え、いちご、りんご、みかん、グレープフルーツ」
と、これまた悲惨の対極にある、豪華メニューだった。
【シーフードヌードル】
大ごちそうのあとの食事内容の低下のスピードはものすごく、二日焼き肉を食べたあと、二週間ほどスナックとインスタントラーメンの生活を強いられたりした。ダイエーなどに買い出しに行っても、開店時間に少し遅れると、生鮮品は売り切れ、しかたなくカップめんを買わざるをえなくなる。残ったものをとりあえず買うためか、結局家の中には、同じ種類のカップめんが増えてしまう。
須磨区在住のOさんの家では、在庫がシーフードヌードルばかりになってしまったそうである。五日もシーフードヌードルを食べつづけると、あきるのを通り越して、舌が慣れてしまい、二月になって食糧事情のよくなったあとも、洗脳されでもしたように、突然シーフードヌードルを食べたくなり、あらためて食べてみては、
「やっぱりまずいわ」
と確認するという複雑な食心理に陥っていた。
【阪神大震災?】
阪神大震災の名称は、最初の一文字からしてウソで、少なくとも大阪が「大」震災に直面した事実はない。
実態としては「兵庫県南部大震災」が、最もノンフィクショナブルな言い方だが、「大阪にも死んだ人がおるやないか」などの「出るであろう批判の声」をあらかじめ先取りした自主的な「言葉狩り」の結果、「大は小を兼ねる」的な判断で「阪神」になったと思われる。
【神戸?】
正式名称の大ぶろしきとはうらはらに、番組名や標語、呼びかけになると、突然、
「神戸のかたがたに……」
「被災地・神戸では……」
と話を神戸に限定しすぎるきらいがあるが、家屋倒壊率、死亡率が最も高かったのは、それぞれ、芦屋市、西宮市。
神戸市東部、芦屋市、西宮市は、単なる行政区分にすぎず、地形的には何の区切りもないなだらかな平地で、被害もそっくりだったにもかかわらず、大阪から入る救援隊、消防隊、ボランティア、マスコミは全て神戸をめざして両市を素通り。被災初日から、
「こらあかんわ」
と住民を絶望させた。
……と、こんなノリでして。こんな被災者あるあるみたいな小話がいくつも、軽妙な筆致の小話で紹介されています。
この「ちょっと不謹慎だけど面白い」本、被災者を笑い者にしている訳でもないし、被災者をエンタメとして消費している訳でもない。むしろ、読みやすい「笑い話」にすることで、より多くの人に阪神・淡路大震災のことを知ってもらいたいと、そんな感じの本だと思います。だからこそ気軽に楽しむことができる、そんな本かなと。
この本の「面白さ」は何か。私は「生の人間を描くことの面白さ」だと思います。この本の中でもネタになっているのですが、こういった大規模震災には一種のフィルターがかかって、被災者もそれを見る方も、どこか「真面目な被災者を演じないといけない」みたいな圧がある。
でも、その圧というかフィルターを取り除くと、そこには日々の生活を生きる庶民の姿がある。それは社会の縮図で、綺麗なだけでなく、それこそ、今能登半島地震に関してツイッターで悪目立ちしているような「社会」も内包していたりもする。まあ、当たり前といえば当たり前の話ですが。
その「いかにもな人間らしさ」が、大規模災害の時に被災地の社会に顔をのぞかせてエピソードが生まれる。そこから感じ取れる「どこにでもいる普通の人」感が、この本の面白いところなのかなと。
個人的にはおすすめの本です。電子書籍にもなってますし、興味のある方は読んでみてもいいと思います。
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創作論で、インプットという言葉を使うことがあると思います。創作というのは自分の中から生まれるものだから、いろんなことを取り込まないといけないよねと、そんな感じの言葉かな。自身が見聞きしたこと全てがインプットで、それが自分の中でいい感じでまざりあうことでアウトプットが生まれると、そんな感じでしょうか。
良質なインプットなんて言葉もあるけど、その人によるところも大きいのだと思います。より貪欲に、より広くいろんなことを取り込もうとする人は、同じ本、同じ知識、同じ体験から、より多くの物をインプットするみたいなところもあるのかなと。
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最近はリングフィットにはまっておざなりになっているのですが、私はサイクリングが趣味で、旅行の際は自転車抱えて電車に乗ったり、東海三県を走り回ったりしています。で、まあ一日に100kmとか走ったりもするのですが。
私は愛知県は名古屋近辺に住んでいて、このあたりは濃尾平野という、日本でも有数の平野部です。関東平野とかいう意味不明に巨大な平野部を除けば日本で最大級の、なだらかな土地が広く続いている場所ですね。それでも、どこかに行こうとすると、あっさり山にぶつかって、山間を通る道を選ぶことになったりします。
で、こういう道は、平野部の道と比べると数も選択肢も限られていると。「この山を超えて向こう側に行くためにはこの道を通らないといけない」みたいなことは、意外と頻繁にあります。
平野部にすごしていると忘れがちになるのですけどね。道って、思っているほど縦横無尽に敷かれていません。そして、そういう「道が敷かれてない場所」ほど、道以外を通ることができない場所です。……それが畑が一面に広がる場所なら、「道が無ければ畑を通ればいいじゃない」とかいう感じにもなるかもしれません。が、そうでも無い限り、「道なき道を行く」なんてのは、困難の代名詞です。
実際、サイクリングだと、街と街の間の「道しかない場所」で体力が尽きると普通に死ねますからね。携帯食に飲み物は本当に命綱です。
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個人の経験、雑多な知識、これらはみんなインプットで、それを咀嚼してできた主張がアウトプット。真剣に物を書くというのはよりよいアウトプットを求めるということで、それはそのまま、よりよいインプットを求めるということにつながる。
思うに、小説だけじゃない、何を語るにもインプットは必要なのだと思います。そうしないと、通り一遍等のことしか書けなくなってしまう。より正確な一次資料もインプットになると思いますが、それだけじゃない。被災者フィルターの向こう側にある「普通の人」、サイクリングで得た「道の実感」。そういったものも重要なインプットで、咀嚼すればするほどアウトプットは良くなっていくものだと思います。
自己主張がつまらないのなら、それはインプットが不足しているから。知識が無くて、その知識を補おうともしないから。物を知らない人間の主張はつまらないし、それが批判的な論調なら、聞くに堪えられるようなものじゃない。物を調べて、書いたものを見直して。――要するに、真面目に書けばそれなりに面白い物が書けるし、そういうことをしないとつまらない物しか書けない。それはどんな文章でも一緒だと思います。
要するに、自己主張をするのならちゃんと真面目に書こうよと、そういう話です。――真面目に書けば、笑い話にだって、きっと説得力は宿りますよと。
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最後に。もう一度、大震災名言録から引用します。
【雲仙を理解したとき】
筆者が九五年二月に神戸の友人と話していて、
「東京のやつらは他人事やと思っとるぞ」
と言うと、彼は、
「いや、まあ、そらしゃあないで」
と意外に寛容。
「雲仙のときとかおれらも他人事やと思っとったから。雲仙の人らがたいへんやとわかった瞬間にはこっちに助けたげる余力ないねん。ほんで雲仙から義援金もらっとんねん」
と、笑い話にして達観していた。
神戸から雲仙に疎開した子供もいた。
ずっと愛知県に住む私は、きっと大地震のことを自分のことと受け止められていません。人間というのはそんなものだと思います。きっと東南海大地震がくるその時まで、わからないのだと思います。
けどまあ、こういうことを知っていれば、それもインプットになるわけだし、実感のなさを自覚することもできます。何より、ちょっと不謹慎だけど、いろんなことを知るのは楽しいわけで。
ゆるーく、ゆるーく、直近に震災があったのを契機にこんな本を読んでみてはいかがでしょう、不謹慎だけど楽しいし得られるものもあるよと、そんな考え方も有りかなぁなんてことを思いました、まる。