4章
<過去>
「あなたがこの家に来たのは19年前の夏。
まだ、あなたが赤ん坊だった頃のこと。
あなたは、私達夫婦に引き取られた。
あなたは、元々施設に預けられていたの」
母の話に現実味が持てなかった。
母はまるで、他人事の様に話す。
そうでもしないと、話すことが出来ないみたいに。
「あなたは施設の裏口に置き去りにされてた。
だから、本当の両親がどんな人なのか分からない。
施設側も、どうしたら良いか分からなかった。
そんなことは初めてだったから。
ただ、そのまま施設で育てることは出来ない。
既に定員が一杯で、そんな余裕は無かったみたい」
母から聞く話は、到底理解出来なかった。
自分の事だとはいえ、実感が持てない。
「それで、どうしてお母さん達が私を育てることになったの?」
母はこちらを見て頷く。
「私は子供が出来ない体だったの。
子宮ガンに若くして罹り、手術で子宮を摘出してしまっていたから。
私もお父さんも、もう子供を育てる事を諦めてた。
お互いに子供を望んでいたけど、その機を境に子供の話を避けるようになった。
二人の生活をお互いに楽しんでいた。
そんな中、お父さんから養子縁組の話をされたの。
こんな制度があるんだって。
やっぱり、この人は子供が欲しいんだって思った。
自分で子供を育ててみたいんだって。
私に断わる理由なんて無かった。
お父さんの夢を壊したのは、私だから。
元より、子供を育てたい気持ちは私にもあったから。
私達は本当に幸運だったと思う。
申請もすんなり通って、貴方がやって来てくれた。
ただ一つ気がかりだったのは、年齢のこと。
その事は、事務局の方からも言われていた。
強い気持ちを持って、育てて貰いたいって。
それが出来なければ、子供は元よりあなた達夫婦も不幸になってしまうからって。
私達はそんな事で迷うことは無かった。
決心は固まっていた。
周りからどんな目で見られようが、この子を育てると。
私達の手で、この子を幸せにしようと」
初めは小さかった声にも、次第に力がこもる。
顔にも強い意志が表れていた。
この世界を真っ直ぐに突き進んでいく意志が。
「本当なら、もっと早くに話すべきだった。
でも、中々話す決心がつかなくて。怖かったの。
あなたがこの事を知ったら、家を出ていくんじゃないかって。
それだけは、避けたかった。
あなたが大学へ入るまでは、一緒にいたかったから」
頭が混乱し、どう話せば良いか分からない。
予想していたとはいえ、気持ちに整理がつかない。
今目の前にいる人とは血が繋がっていない。
そのことを、寂しく感じる自分がいる。
「本当だね。もっと早く教えて欲しかった。
そしたら、こんなに苦しまなくて済んだのに」
お母さんが寂しそうな顔になる。
「ごめんね。
ずっと隠しておくつもりは無かった。
まさか、こんな形になってしまうなんてね」
「あの電話は誰からだったの?」
「施設からの電話だった。
本当の両親が、あなたに会いたがっているって。
私はそんな事受け入れられなかった。
そんな勝手な事、あって良いと思う?
こんなにも長い間、あなたを放っておいて。
そんなの許されるはずがないって。
子供に大きな傷を背負わせておいて、そんな身勝手なことがありますか」
鼻息を荒くしながら母が言う。
こんなにも母は怒れるのだと思った。
私にすら、怒ったことは無いのに。
「本当に私の両親なの?」
「どうやら本当みたい。
あなたの小さかった頃の写真を持っていたって」
吐き捨てるように母が言う。
「由紀ちゃんはそれでも会ってみたいと思う?
本当の両親に」
真っ直ぐな視線で私を見てくる。
どう答えるべきなのか分からない。
会ってみたい気持ちもあるけど、同じぐらい不安もある。
自分を捨てた人間に対して、一体どんな事を話せば良いのだろう?
出会った時、相手が浮かべる表情はどんなだろう?
19年という歳月が生み出した溝が、とても深いものに思えた。
一歩踏み間違えば、その谷底に落ちていってしまう。
そんな感覚に囚われていた。
「正直、分からない。
急な事で、気持ちの整理がつかないよ。
お母さんが本当のお母さんじゃないなんて。
その上、本当の両親が会いたいだなんて」
お母さんが何度も頷く。
「そうだよね。
いきなりこんなこと言われても混乱するよね。
今すぐじゃなくて良いから、由紀ちゃんの気持ちを聞かせてくれないかな。
これから、どうして行きたいのかを。
もちろん、由紀ちゃんの気持ちを私達は尊重する。
本当の両親に会いたいなら、それを止めはしない。
だけどこれだけは、覚えておいて欲しい。
私達は由紀ちゃんを本当の娘だと思っていることを」
あれだけ長かった夏休みが終わろうとしている。
こんなにも憂鬱な気持ちで、休みを過ごすことになるとは思わなかった。
母の質問に、未だに答えを出せていない。
何が正解なのか分からない。
母との関係は、深い溝が出来ていたとはいえ、完全に切れたわけでは無かった。
またどこかで、関係を修復出来れば良いと思っていた。
本当の母親では無くても、このままの状態は嫌だ。
ここまで育ててくれたのは、紛れもない父と母だ。
その事実が変わることは無い。
この絆は、簡単に切れることは無いはずだ。
里美とは違うのだから。
あのメールから、返信は来ないままだった。
もう、里美と話すことは無いだろう。
休み明け、どんな顔をして会えば良いのか。
今までの事が無かったように出来るだろうか?
ただでさえ頭が混乱しているのに、そんな事を考える余裕なんてないはずなのに。
自分の置かれた状況に嫌気がさす。
今は、本当の両親に会うかを考える事に集中しよう。
この前の様子から、母は会って欲しくないのだろう。
それが普通の感覚だろう。
今頃になって会いたいだなんて、都合が良すぎる。
ただ、なぜ私を捨てたのか?
その理由を知りたい気持ちはある。
自分の親がどんな人なのかも。
知って何かが変わる事はないかもしれない。
それは、ただの興味本位でしか無い。
本当の両親に会いたいと言ったら、母と父はどんな顔をするだろう?
悲しそうな顔をする二人の姿が容易に浮かんでくる。
どうすれば良いんだろう?
相談出来る相手もいないので、自分で答えを出すしか無い。
この決断で、今後の人生が決まる予感がする。
だから、後悔だけはしないようにしないと。
あの日以来、一日が圧縮した様に短く感じる。
止まっていた時計が、急に時を刻みだしたみたいに。
階下から、包丁がまな板を叩く音が聞こえる。
台所から、味噌の香りがしてくる。
母が夕飯の支度をしているのだ。
母が私の存在に気づかずに、具材を切っていく。
その後姿が、とても愛おしく思えた。
「お母さん、話があるんだけど」
母の包丁を持つ手の動きが止まる。
ゆっくりと振り返り、私を見てくる。
「決めたんだ。
本当の両親に会うかどうか」
母は息を飲んだ後、首を縦に降る。
鍋に掛けていた火を止め、テーブルに座る。
「分かった。由紀ちゃんの話を聞かせて」
私は黙って、母の向かいに座る。
真剣な顔で、母が私を見つめている。
心を落ち着かせるため、大きく息を吐く。
私の出した答えを、母は分かってくれるだろうか。