2章
<過去>
母の言葉が頭から離れない。
あの衝撃的な言葉は、これまでの関係をさらに悪化させるものになった。
火種が大きくなるように、両親に対する疑惑も成長して行った。
私は2人の子供では無いのか?
だとすると、どうして私はここに居るのか?
なぜ、2人は私を育てているのか?
考える程、湧き上がる疑問に押しつぶされそうだった。
本当の両親は今、どこで何をしているのだろう?
都合の良い空想に、夢を膨らます自分がいる。
まだ、そうだと決まったわけではないのに。
あの言葉の意味を確認する必要があった。
だが、面と向かって話してはくれないだろう。
きっとはぐらかされて終わるに決まっている。
理由を聞けたとしても、それが本当である保証は無い。
突然芽を出した疑念は、親との間に隔たっていた壁をより強固にした。
里美が言うように、親と理解し合えることなどもう出来ないのでは無いか。
そう思うようになっていた。
電話の後、母へ誰と話をしていたのかを聞いても何も教えてはくれなかった。
何かを隠していることは明白だった。
一体、私に何を隠しているのだろう。
母の棘のある声で吐かれた言葉が、頭の中でリフレインする。
その度に、私は耳を塞ぎたくなった。
「おい、大丈夫か?
ぼーっとして。体調でも悪いのか?」
健士朗くんが、心配そうに見つめてくる。
体が急に熱くなるのを感じる。
「うぅん、大丈夫。
ちょっと考え事をしてて」
「まぁ、あまり考え込まない方が良いぞ。
一人で悩まずに相談しろよな」
プリントを私に渡すと、健士朗くんが振り返っていた体を反転させる。
相談しろというのは、自分にという事なのかな?
妄想が膨らみ、顔が少し綻ぶ。
健士朗くんとは、1年生の時も同じクラスだった。
苗字が堤と手島で、席は決まって前。
母の事を面白がる男子ばかりだったが、健士朗くんはそんな彼らを叱ってくれた。
とても正義感があって、優しい。
成績やスポーツも万能で、野球部のキャプテン。
同級生だけでなく、歳下のファンも多い。
野球部らしからぬ、透き通るような白い肌。
すっと通った鼻筋に、キリッとした目と眉。
誰もが口を揃えて、カッコイイと言う。
それで、誰にでも優しいのだ。
誰もが好きにならないはずは無かった。
かく言う私も、その中の1人だ。
釣り合わない外見なのは分かっている。
だから、付き合いたいなんておこがましいことは思わない。
きっと、健士朗くんに釣り合うのなんて里美くらいのものだろう。
「私はちょっと無理かな。
あの子と一緒に歩いてたら、どんな目で見られるか。
私の方も気後れしちゃいそうだし」
健士朗くんの事を聞くと、里美はそうやって言うのだった。
付き合える可能性があるというだけで羨ましかった。
里美は外見について鼻にかける素振りも見せないし、とても良い子だ。
それは、一番私がよく分かっている。
だけど、たまにそれに腹が立つ自分がいる。
あまりの非の打ち所のなさに、辟易してしまう。
そんな事を感じる自分の醜さに、落ち込むこともあった。
「そうか、まだ冷戦は続いてるんだ」
とても残念そうに里美が言う。
自分事のように悩んでくれているのが分かる。
母の電話の事について、相談していた。
「その言葉は気になるね。
どういう意味なんだろう」
里美が腕を組み、眉間にシワを寄せながら考え込む。
「私、お母さんの子じゃ無いのかな?」
努めて明るく言ったつもりだったが、里美は難しい顔をしたままだ。
「そんな訳無いでしょ。
まさか、本当にそんな事思っているの?」
少し怖い顔で、私を見てくる。
こんな里美を見るのは、久しぶりだった。
その気迫に、私は何も言えなかった。
「深く考え込まない方が良いよ。
きっと、何かの間違いだって。
由紀とお母さんが親子じゃないなんて。
そんなのあるわけない。
顔だってあんなにそっくりじゃん」
里美の力を持ってすら、この疑念を晴らす事は出来なかった。
私はこんな気持ちを抱えたまま、これからの人生を過ごすのだろうか。
母との関係は修復しないまま、夏休みに入ろうとしていた。
<現在>
”1996年12月10日
初めて、つかまり立ちが出来たね。
おめでとう。お母さん、本当に嬉しかった。
こんなにも小さな子が、力強く立っている。
あなたもとても嬉しそうだった。
驚きと幸せをあなたは運んでくれる。
私達にとって、天使のような存在。
その調子で元気に育ってね。”
いつしか、母の日記を読むのが習慣になっていた。
何もやる気が出ない中、これだけは出来た。
知らない母の一面に触れられるのが楽しかった。
自分への愛情の深さに、胸が熱くなった。
どうして、あんな関係になってしまったのか。
なぜ、両親と分かり合えなかったのか。
違う、分かり合おうとしなかったのだ。
こんなに後悔するとは思わなかった。
1人になってみて、家族の有り難さに気づく。
居なくなってから初めて、存在の大切さに気づく。
頭では分かっていたのに、行動に移せていなかった。
後悔しても、もう遅い。
母の声がもう一度聞きたかった。
母の体温をもう一度感じたかった。
誰もいない家の中は、寂しさで包まれていた。
<過去>
隣の席に座る小学生達の笑い声が館内に響く。
夏休みの図書館は、学生が多かった。
自習室では、宿題と格闘する小学生や中学生。
友達同士で教えあっているのが微笑ましい。
自分はあの頃、図書館で勉強したことなど無かった。
感心しながら、地方紙の内容をくまなく調べる。
発刊されたのは、自分が産まれた年。
目に付いた物を持ってきては、連れ去りという言葉が無いかを探していた。
自分は本当の両親から、連れ去られたのではないか?
そんな考えが頭を過ぎった。
だとすれば、新聞で報道されているだろう。
だけど、そんな事件は起きていなかった。
むなしさが一気に襲ってくる。
一体、私は何をしているのか。
本当に誘拐されていたとして、それがどうしたというのか。
現実を受け止め切れない中で、ふと出てきた可能性に縋り付こうとしている。
本当の両親に出会えたとして、それで私の人生が変わるのか。
私は今の状況を嘆いているだけなのではないか。
うまくいかない人生を両親のせいにしているだけじゃないか。
勉強をしている小学生の女の子達が無邪気に笑いあう。
あんな風に笑ったのはいつだろう。
いつから笑えなくなったのだろう。
いつまで自分は、こんなに苦しまなくてはいけないのか?
静まり返った自習室が、余計に心の声を大きくした。
「おかえりなさい。早かったのね」
家に帰ると、母が玄関まで出迎えてくれた。
笑顔にどこかぎこちなさを感じるのは気のせいか。
「うん、人が多くて勉強出来そうになかったから」
小さな声で素っ気なく答え、階段を上っていく。
「もうすぐお昼だけど、何か食べたいのある?」
首を左右に振って、自分の部屋の中に入る。
家にいると、息苦しさを感じる。
母と言葉を交わすだけで、疲れてしまう。
互いに気を使い、さっきみたいによそよそしくなってしまう。
あの電話から、こんな状態が続いている。
父に助けを求めようにも、家に帰るのは決まって遅く、話をする暇もない。
母もだけど、父はそれに輪をかけて静かだ。
父に怒られた記憶がまるで無い。
我が子に関心がないのか、それが普通なのか。
父は市役所で働きあげ、再雇用されている。
公務員を絵に書いた様な人だった。
子育ては、母に任せきりだった。
学校に来たことなんて1度もない。
母はそれについて、文句をいうでもなく、黙ってそれを受け入れていた。
母がどう思っているのかは分からない。
母と父はお見合いで知り合ったという。
一度、母にどうして父を選んだのか聞いてみた。
寡黙で真面目そうな人だったから。
そう母は言っていた。
自分は父の様な人を選ぶだろうか?
きっと、選ばないだろう。
もっと明るくて、沢山話してくれる人が良い。
健士朗くんみたいに。
夏休みは始まったばかりなのに、心は晴れなかった。
向けようの無い怒りが、心に溜まり続けていた。
<現在>
叔母が墓に花束を手向ける。
線香の煙が、空へ向かって立ち昇っていく。
そんな様子を、後ろから見ていた。
母の納骨が終わり、これで一段落がついた。
そろそろ学校にも行った方が良いと思う。
このままでは、留年してしまう。
学費は両親が遺してくれたお金で賄うと、叔母は言ってくれたが、それをあてには出来ない。
きっと多くの額は残っていないだろう。
叔母には2人の中学生の息子がいる。
これからお金も掛かってくる。
そんな中で、厄介者が転がりこんできたのだ。
叔母に迷惑は掛けられない。
納骨の後、叔母を含む兄弟たちと一緒に食事をすることになった。
母には妹である叔母と、兄と弟が一人ずついた。
話には聞いていたが、叔母以外に会うのは初めてだった。
母と叔母は似ていると思ったが、他の二人は兄弟と言われなかったら分からない。
一同が座敷に集まり、寿司桶を囲んで話をしていた。
叔父の二人は酒好きらしく、顔も赤らみ上機嫌になっていた。
叔母の態度から、二人をよく思っていないのが分かった。
いつもの笑顔が消え、目は吊り上がっている。
叔父達も久しぶりに会うのか、身の上話に花を咲かせていた。
「最近の景気はどうなんだ?俺のところは調子が良いぞ」
叔父は二人とも、小さな会社を経営していると聞いていた。
お金の話ばかりで嫌になるのだと、叔母から散々聞かされていた。
場をわきまえない二人の話に、叔母の夫も恐縮していた。
叔母の夫は、堅実に公務員として働いている。
そのことを馬鹿にするような叔父達の言動が、そこかしこに見られた。
人の良い叔母の夫は、それを笑いながら聞いている。
叔母があんな顔になるのも、無理はないだろう。
同じ兄弟でも、こんなにも違うのかと不思議に思った。
母と二人の共通点は、まるで見当たらなかった。
「あいつは人が良過ぎるんだよな。いつも自分ばかり貧乏くじを引いて」
母のことを兄が鼻で笑いながら言う。弟も口角を上げながら、熱燗を飲み干す。
「本当そうだよ。しまいには、他人の子供を育てたいだなんて。
あそこまで馬鹿だとは思わなかったよ」
吐き捨てるように弟が言う。
「ちょっと、何を言っているの。あんた達、酔い過ぎよ」
叔母が二人を睨んでいる。こんな怖い顔を見るのは初めてだった。
「なんだ、まだ伝えてなかったのか。てっきり知ってるもんだと・・・」
「だから、不用意なことを言わないでって」
叔母の大きな声が座敷内に響き、しんと静まりかえる。
私が叔母の方を見ると、すっと視線を外し座敷を出ていった。
叔父達を見ても、知らないふりをして酒をまた煽り始める。
他人の子供っていうのは、私のこと?