1章
<現在>
「娘さん、声を掛けてあげて。お母さん、頑張っているのよ」
女性の看護師さんが、急き立てるように言う。
人工呼吸器に繋がれた母の息は、今にも絶えそうだ。
医師と看護師が必死の処置で、母の命を繋ごうとしている。
過去の思い出が頭の中に蘇ってくる。
思い出すのは、どれも辛かったり悲しかった出来事ばかり。
それだけでは無いはずなのに。どうしてこんなのばかり思い出してしまうのか。
それほど、母との関係を後悔しているのかもしれない。
こんなことなら、自分から素直に謝っておくべきだった。
ありがとうと感謝の言葉を伝えておくべきだった。
それを伝えるのは、今しかない。
ちゃんと届くか分からないけど、伝えなければ。
「お母さん、ありがとう。
お母さんの娘で良かったよ。こんなに大きく育ててくれてありがとう」
母がこちらを向いて微笑む。とても優しく、包み込むような笑顔だった。
母の目からは、涙がこぼれていた。
私の目も涙で滲み、母の顔がぼやけてくる。
嗚咽で何も言えなくなってしまう。まだ伝えるべきことはあるのに。
無機質な電子音が、病室内に響き渡る。
医師と看護師が、沈鬱な表情で母を挟んで立ち尽くしていた。
母は静かな表情で眠っていた。
父の元へ旅立っていったのだ。
<過去>
物心ついた頃から、人の視線が気になって仕方なかった。
きっと、また陰で笑われている。そんな事を考えずにはいられなかった。
「由紀ちゃん、ご飯できたわよ。降りてらっしゃい」
階下から、年老いた母の声が聞こえる。
授業参観など、学校行事があるごとに私は奇異の目にさらされてきた。
「誰だよ、授業参観におばぁちゃんを誘ったのは」
クラスメイトの男子が面白がるように大きな声で言う。
そんな経験を何度となくしてきた。
学校に来ないでと一度言ったのだが、その時の母の顔を思い出すともう言えない。
あの顔を見るぐらいなら、私が我慢すれば良い。
周りの視線を感じる時、呪文のようにそう自分に言いきかせてきた。
そのせいか、自分の意見を人に伝えるのが苦手になってしまった。
いつも周りに同調する人間になった。
良く言えば、協調性があるということになるのか。
私という存在を、どうにかして埋没させておきたかった。
母の存在は、嫌でも目についてしまうのだから。
ことあるごとに、私は親のせいで嫌な思いをした。
小学校の家庭訪問の時もそうだった。
先生が母と対面したときの顔は、今でも忘れられない。
何度も私の顔を見て、目の前の人が母親なのかと確かめてきた。
先生の心の声が嫌というほど私には聞こえ、耳を塞ぎたかった。
「お母さんは何処にいるのですか?」
目の前の老いた女が小学生の母親だとは、誰も信じてくれないだろう。
そんなことは、言われなくても分かっていた。
それが真実なのだから仕方がない。
私にはどうしようもなかった。
どうして周りは私達家族の事を奇異の目で見るのか?
他のお父さんやお母さんより、少しばかり歳を取っているだけじゃないか。
そんな怒りを、小さい頃は持っていた。
でも、それは簡単に吹き飛んでしまうほどの些細な物だった。
周りの若々しいお父さん、お母さんを見た時涙が出そうになるほど切なかった。
その怒りは、母や父へと向かうことになった。
自分勝手なのは分かっているが、そうしない訳にはいかなかった。
全てを受け入れて、生きていく強さを今でも持ち合わせていない。
私は両親に八つ当たりすることでしか、怒りを解消できない卑怯な人間なのだ。
ただ、それに罪悪感を感じないわけでは無かった。
洗濯物を干し、腰を痛めている母。
老体に鞭を打って働き続ける父を見れば、それを感じずにはいられなかった。
どうして両親は、そんな歳になりながらも私を産んだのか?
そんなに苦しい思いをしてまで、育てようと思ったのか?
不思議で仕方なかった。
苦しめている存在でありながら、両親を憐れむ自分がいた。
両親にとって、自分がそれ程に大切な存在だとは思えなかった。
こんな醜い考えを持つような人間が、そんな存在にはなれないだろう。
私という存在は一体何なのか?
この問いは答えられないまま、頭の中にあり続けるのだった。
<現在>
母が死んでから1週間が経った。
葬儀は、私が喪主として母を見送った。
葬儀場との連絡などは、全て叔母さんがやってくれた。
高校を卒業したての私には、何1つ出来ることはなかった。
ただ呆然と、母の遺影の前で座っていることしか出来なかった。
母の死を悼んで来てくれた人は、当たり前だが老人が多かった。
次は自分の番かと、諦めた様な顔をして去って行くのだった。
私は、叔母の家に引き取られる事になった。
しばらくは、大学は休むことにした。
そうすれば良いと、叔母は言った。
悲しみは癒えることは無かった。
あれだけ関係が悪かったのに、いざ居なくなると寂しさを感じる。
意識していないと、自然と涙が出てくる。
私は、これからの人生を1人で生きていくのだ。
そう思うと、言い様のない不安が襲ってくる。
私にとって、母の存在は精神的な支えだったのだと、今頃になって気づかされる。
机の上には、沢山のノート。
母は毎日、日記を付けていたらしい。
「こんなのが出てきたよ。
あなたの事が書いてあると思う。
これをどうするのかは、あなたに任せる」
数十冊はあろうかという、日記の束。
どうやら、私が産まれた時から書いてあるみたいだ。
"1995年8月10日
小さくて可愛らしい女の子。
これからどんな子に育つのか楽しみ。
産まれて来てくれてありがとう。
大切に育てるからね。
こんな母親だけど、宜しくね。"
母の綺麗な字だった。
最後の文章は、自分の歳を気にしての事なのか。
今になっては何も分からない。
母が何を感じながら、私を育てたのかは。
<過去>
「またお母さんとでもケンカしたの?
今だに関係は平行線のままか」
里美が眉根を寄せながら言う。
口を尖らせた顔も、また可愛らしい。
「ケンカなんかしてないってば。
里美にもあるでしょ、親にイラつくことぐらい」
里美が怪しむような目で、こちらを見てくる。
「それはあるけど、由紀と一緒にしないでよ。
だって、由紀はいつもそんな感じでしょ」
確かに私は母に対して、ずっとイラついている。
里美は、それがどうしてかも分かっている。
「私は由紀の心の持ち方次第だと思ってるよ。
だって、お母さんはどうしようもないもの。
由紀が大人になるしかないんだって」
里美が言っている事は、理解している。
ただ、どうしても体が言うことを聞かないのだ。
母に対して、厳しく当たってしまう。
「もう私達高校生でしよ。
両親がどんな人かなんて誰も気にしないって。
そもそも、親が学校に来ることなんて無いでしょ」
優しく諭すように、里美が言う。
私の事を思って言ってくれている。
こんなにも私を思ってくれるのは、里美だけだ。
数少ない友達の中で、唯一親友と呼べる存在。
「大丈夫だって。
由紀なら、きっとお母さんと分かり合えるから。
そんなに片意地張らないの」
両肩をトントンと叩きながら、里美に送り出された。
家へと向かう気持ちが、少し楽になった気がする。
家には母がいる。
今日は家に着いたら、少しだけ大きな声でただいまと言ってみよう。
家の玄関に鍵は掛かっていなかった。
玄関を開けた瞬間に、母の声が聞こえてきた。
いつも出迎えてくれるのに、今日は違っていた。
どうやら、電話中のようだった。
母の声の様子が、いつもと違っていた。
あんなに優しい母の声が、この時は厳しかった。
「何を今頃になってそんな事を。
それは、都合が良すぎるんじゃありません?
由紀はウチの子です。誰にも渡しません」
家に上がろうとした時、その言葉は聞こえてきた。
怖くなって、私は無心で自分の部屋に向かった。
部屋に着くと、崩れ落ちるように座りこむ。
さっきの言葉の意味は何だったのか?
混乱はおさまらないまま、母の言葉が頭の中を駆け巡っていた。