36回目の彼
「今夜は、私は暇を頂きましょう。それでは殿下……ごきげんよう」
何度繰り返しても変わることのない別れの挨拶が聞こえる。
伝説に謳う月の精霊の姫君と同じ白金の髪、陶器のように白い肌に赤く輝くルビーの瞳。うさぎのようだと貴女は言ったけれど、初めて会った時から俺にとって、貴女はずっと月の妖精だった。
妖精のように浮世離れした、無邪気な貴女が愛しかった。
妖精のようにか弱いあなたを、あの公爵家から救いたかった。
当時の俺は幼くて、貴女を婚約者にすればそれですべてが丸く収まるのだと思っていた。
勝手に裏切られたと思って断罪したあの日、貴女は今にも泣きだしそうな顔で精一杯笑って見せてくれた。
それがあなたの、最後に残した矜持だとも気が付かずに部屋を後にした貴女の後姿を、せめてちゃんと見ておけばよかった。
まさかそれが、貴女を見た最後だなんて思うわけもなく、「なんてふてぶてしい女なんだ」と毒づいていた俺が恨めしい。あの時追いかけていれば、こんな結末を何度も繰り返すことなどなかったはずなのに。
*
「…………かっ……、殿下っ!!……クリストフィア・リブ・ランフォールド!!」
名を呼ばれ、ぱちんっという音がすぐ近くで鳴り響く。一体何が起こったというのだろう……ここはどこだと周りを見渡せば、学園の生徒会室だ。今日は確か卒業パーティの日で、俺は……?どうしてこんなに頬が痛むんだ?
「クリス!! 大丈夫か?」
「ディアナ嬢! 殿下に何を!!!?」
「そこをどいてください、……クリストフィア! 早くお姉様を追いかけて、私たちが何のためにここに戻ってきたのかを思いだして頂戴!」
「何を言ってるんだディアナ嬢! リゼット嬢はあなたに嫌がらせをしていたのでしょう? だからクリスが今婚約破棄を……」
「離しなさいマルス! 離すのです!! この男が思いだすまで、私は何度だってひっぱたいてやると約束したのです」
目の前で泣き喚いているのはディアナ・コールウッド男爵令嬢だ。そう……、彼女の異父妹で……俺の愛しい……人?
いや違う、愛しいと思った事はあるが彼女とはそれ以上の別の……戦友に似た友情を感じていた……。なんだ? この感情はいつの記憶だ?
「思いだしてクリストフィア、今ならまだ、間に合うのです! 私達がお姉様を何度見殺しにしたのか思いだして!!」
ディアナ嬢がそう言って、姉であるリゼットによく似た泣き顔を俺に向ける。
その顔を見た瞬間、頭の中に弾ける圧倒的な記憶という情報。その情報量がすさまじすぎて、俺は思わず頭を押さえて俯いた。そうだ……そうだ、思いだした。
「クリス?! おい大丈夫か?」
「お嬢さんがクリスをはたくから……」
「女性の平手打ちで立てなくなるような殿方なら、ここで一生蹲ってればいいのよ! 役立たず!!」
ディアナはそう言い放つと、勢いよく走りだそうとした。
黒い髪に姉であるリゼットと同じ瞳を持つ彼女のドレスは、その瞳の色に合わせた深紅の華やかなドレスだ。そう、俺が彼女に贈ったドレスなのだから覚えていて当然だが、今の俺にはあまりにも懐かしすぎた。
翻ったそのドレスの裾を俺は思わず掴んだ。予想外につかまれて転びそうになった彼女が鬼の形相で振り返る。
「邪魔しないで!! クリストフィア・リブ・ランフォールド!!」
「それはこっちの台詞だディアナ・コールウッド!!」
そう言って、俺は部屋を飛び出して走りだす。
この瞬間に間に合うために、俺はこの1年を36回繰り返したのだ。
懐かしい廊下をひた走る。この廊下をこうやって進むのも実に体感で36年ぶりだ。
36回巻き戻った先は、すでに手遅れになった未来のその場所だったから、学園自体が36年ぶりである。
36年前の記憶を掘り起こしながら廊下を駆ければ、懐かしい人間の後姿が見えた。
確か名前はフランシス・レイドフォール。子爵家の三男坊で彼女につけていた近衛騎士だ。次期王太子妃であり、伝説の妖精のような彼女に心酔し最後まで紳士的に接した結果、この後起こった出来事によって夢を失った若者……、いや若者はおかしいな。今の俺より彼のほうが年上だ。
「フランシス!!」
俺は大きな声で彼に声をかける。誰もいない廊下で、彼は弾かれたように振り返ると驚いた表情で俺を見つめた。亜麻色の髪の真面目な顔をした優男だと思っていたが、俺を認めた瞬間不敬にも憎しみのこもった視線を向ける。
「……殿下。どうしてここに……」
「彼女は、リゼットはどこに行った」
「まだあの方に御用があるのですか? あんな風に拒絶しただけでは飽き足らず、まだ彼女を貶めたいのですか?」
「……フランシス」
「殿下、恐れながらに申し上げますが、あの方を拒絶するならもう関わらないでさしあげてください。殿下はディアナ嬢とご結婚すればそれでいいのでしょう? もうこれ以上あの方を傷つけないで……」
「フランシス・レイドフォール!! 彼女はどこに向かった!!!」
大きな声でそう言えば、フランシスはびくりと肩を震わせた。彼女に心酔してるとは言え、彼は近衛騎士だ。王家に忠誠を誓った身である彼はとても苦々しい顔をしたものの呟くように「あちらの……エントランスから馬車に乗って、一人でお帰りになると……」という。
あぁ、その馬車だ。絶対に乗せてはいけないその馬車に、もうすでに彼女は向かっている。
時間がない。
「フランシス、貴殿はエントランスに馬を……俺の馬を連れてきてくれ」
「は?」
「頼む!! 時間がないんだ。あの馬車を止めなくてはいけない!」
呆然とするフランシスを置いて、俺はエントランスへと向かった。
記憶を取り戻したばかりの頭はまだ酷く痛む。けれどここで立ち止まればすべては水泡に帰してしまう。そんなことになってしまったら、何のためにあの35回目を乗り越えたのか……。
焦る気持ちを押さえつけてエントランスへと向かえば、彼女がいつも使っている公爵家の馬車がちょうど駆けていくのが見えた。必死に追いかけた彼女の姿は当然見当たらず、クソっという声と共に俺はエントランスの柱を殴りつけた。
諦めるわけにはいかない、俺は待機していた他所の貴族の馬車に近づくと御者に話しかけた。
「すまない、馬車を出してくれないか!?」
「は? 何を言って……って王太子殿下???!!」
「さっき出た馬車を追ってくれ、頼む。君の主人には俺から後で説明するから」
若い御者は物凄く驚きながらも、迷うように視線を動かした。しかしながら、俺の緊迫した雰囲気を感じ取ったのだろう。一つ、覚悟を決めたように御者台に乗り込んだその姿に、俺はありがとうと応えてそのまま彼の隣に潜り込んだ。
「えええ?! 殿下、馬車に乗るんじゃ??」
「いいから出してくれ! 責任は全て俺がとるから」
「……ええい! 王太子様、あとで俺の主人にちゃんと言って下さいよ!」
意を決したような顔で御者は馬車を出した。日和った走り方をするかと思ったがそんなことはなく、馬車は随分と乱暴なスピードで走りだした。喋れば舌を噛みそうな速度だが、現状はとてもありがたい。少しでも早く彼女に追いつかねば手遅れになる。
ありがたいことに前を走る馬車の姿はすぐに見えた。あの馬車は間違いなく、何度も見た全ての始まりである、公爵家の紋を掲げるあの馬車だ。
前を走る馬車はこちらのただならぬ様子に気が付いたようだ。馬が嘶いて速度を上げる。
「横につけてくれ!!! 飛び移る!」
「はぁ!!? 無茶言わないでください殿下! 死にたいんですか!!?」
「ここで彼女を救えなければ、死んでも死にきれない」
「何言ってんだあんた??? 王族ってのは馬鹿なのか!!?」
王族に向かって馬鹿とはなんだと言いたくもなるが、俺にとってはいまさらである。
あの日、彼女を救えなかった自分はただひたすらに大馬鹿者なのだ。
なんてことを考えていたら、前を走る馬車の馬がもう一度大きく嘶いた。あちらはあちらで後ろ暗い計画の最中なのだ。よく分からない馬車に追いかけられるのは本意ではあるまい。
と、こちらの馬車のすぐ脇を白い馬が駆けて行ったかと思うと、あっという間に前の馬車の前に躍り出た。馬車に何かを怒鳴りつけている声がするがよくは聞こえない。だが、やがてゆっくりと馬車の速度が落ちてきた。その頃になってようやく馬を操るのがフランシスだと気が付く。
「フランシス!!!」
「殿下、今馬車を止めます!!」
あらぶった馬車をすぐに止めることは難しく、それでもゆっくりと時間をかけて馬車はようやく止まる。フランシスは手早く馬から降りると、真っすぐに御者台に向かっていった。あちらは彼に任せて問題ないだろう。
俺は馬車の扉の前に立つと、深呼吸をひとつして息を整える。
震える手でノックすれば、中から息をのむ音が聞こえた。ゆっくりと馬車の扉を開ければ、ずっと恋焦がれてきた彼女が、怯えた瞳で俺を見つめる。
「……くりす……いえ、殿下?」
「……生きてる」
「え?」
あぁ、生きてる。
クリスと、もう呼んでもらえなくてもいい。
怯えた目で見られることだって構わない。
俺の罪を考えれば、それはあってしかるべき罰なのだ
ただ、36度失い、その度に後悔して繰り返してまで救いたかった彼女が目の前にいる。その事実に自分の瞳から涙があふれた。
「殿下?」
泣いてる俺など、彼女は初めて見たのだろう。ずっと聞きたかった彼女の声が、動揺で震えている。いや、彼女にとってはついさっき婚約を破棄した元婚約者が、泣きながら目の前に立っているのだから、恐怖からくる動揺なのかもしれない。
それでも、どうしても彼女が生きているという実感が味わいたくて、俺はゆっくりと手を伸ばした。
びくりと彼女の肩が震えたが、お構いなしに抱きしめる。
ぬくもりが、鼓動が、彼女が生きているという事実を実感として教えてくれる。
「……でんか?」
「……今だけでいい……今だけでいいから、このままでいさせてくれ……」
そう言って、腕にさらに力をこめる。
体感36年ぶりの彼女の体は、酷く小さく。それと同時に暖かかった。