4. 世界が色を取り戻した途端私の魂は消える
私はしゃがんで倒れている白い花にそっと手を添える。花びらは数枚ちぎれ、残った部分も土がついてよじれている。だが組織がつぶれている部分は花にも茎にもない。野に咲く花は強い。この状態でも明日には茎を起こしているだろう。多少見た目は損なわれても、またひっそり可憐な花を見せてくれるはずだ。根拠もないのに、私にはそんな確信があった。
「フフフ…。」
花がなんとかなりそうだと思って気が抜けたのか、私の口から笑い声が漏れる。そして脳裏によぎるのは、さっきまでの私の私らしからぬ行為、そして唖然と地面に転がるいじめっ子3人組の間抜けな顔。
「ハハッ、アハハハハハ!」
思い出しただけで愉快な気持ちになり、私は思い切り笑う。喧嘩をするのも、こんな風に声を出して笑うのも久しぶりだ。ひたすら医者を目指して優等生でいた間には絶対にできない行為だ。気持ちがいい。家族の愛を得たくて医者を目指したことも、家族の愛を得ることをあきらめて腐っていたことも、今は滑稽に感じる。今まで落ち込み続けた分、私はすべてを笑い飛ばした。
ひとしきり笑った後、私はあたりを見渡す。私の目に映る世界は、いつの間にか色を取り戻していた。ビルの隙間から差し込む夕日の光の赤も、アスファルトの黒も、地面の茶も、雑草の緑も、すべてがきれいに見える。
心が軽い。私を縛るものはなくなり、私を常に支配していた絶望は消えていた。私の唯一の生きる糧であった医者になるという気持ちまで吹き飛んだようだが、それすら清々しく感じる。
私は倒れた白い花をそっとなでる。
「…世界の色を思い出させてくれてありがとう、巻き込んでごめんね。」
小声でお礼を言った後、私は立ち上がる。さっきまでは先のことを考えても憂鬱になるだけだったが、今は明日からなにをしようかワクワクしてくる。医者になることしか考えられなかったのが嘘のように、やりたいことが無数に思い浮かぶ。そうだ、せっかく世界がきれいに見えるようになったんだ、高校を卒業したら旅に出るのもいいかもしれない。美しい景色をたくさん見ながら、やりたいことをじっくり考えよう。
私は新しい人生の一歩を踏み出した。
…はずだった。
三方を高い壁とビルに囲まれた空き地に、急に強い風が吹き込み、私は思わず目を閉じる。起こるはずのない強い風は隣の工事現場の高く組まれた作業用足場をありえない具合に揺らし、しっかり固定されているはずの足場は崩れ、私に降り注ぎ。
…気が付くと私は倒れていた。目に入るのは散乱する鉄パイプ、粉々に砕けた眼鏡、茎から切り離されぐちゃぐちゃに潰れた白い花、そして赤く染まっていく地面。体を動かそうとしても全く動かない。全身の感覚がない。声を出そうとしても口から出るのはかすかな音だけだった。
徐々に視界が暗くなっていく中で、私は自分が死の間際にいることがわかった。せっかく新しい人生を歩もうとした途端にどうしてこんな目にあうのか。憤慨したいとところだがもはや怒る気力もない。意識が薄れていく中、最期に色とりどりの世界を取り戻せただけまだよかったのかもしれない、なんてことをぼんやりと思う。
ゆっくり視界が闇に染まる中で、唐突にどこかに引き込まれるような感覚を覚えた瞬間、私の意識は完全になくなった。
そして私の魂は世界から消えた。残されたのは冷たくなっていく少女の亡骸。その傍らにはいつの間にか干からび、枯れた植物の残骸。