祝福
鎮痛剤のせいで再び眠りに落ちたとき、あの電車は駅名のない無人駅に停止していた。
そこは断崖絶壁の上だ。
あの紳士が両手を広げて崖の上に立っている。
私は駆け寄って声をかけた。
「なにしてるんですか?」
紳士は顔だけで振り返り、微笑んだ。
「僕はここで迎えが来るのを待っているんです」
「迎えって、こんなところに誰が来るって言うの?」
すると、彼はまた前方を向いて背中で応えた。
「君もわかってるはずだ。君だって自らの死を望んだんだから」
「え?」
私は左腕の傷がズキズキ疼いて、そこから大量の血がドクドクと流れ出ていくのを感じた。
激しい痛みに座り込んでしまう。
「僕は彼女がいないと生きていても仕方がないんです」
「そんな・・・」
私は首を振った。走馬灯のように彼との楽しかった時間を思い出しては、胸が締め上げられる苦しさを覚え、渇きを覚えた。
「僕は彼女のいない人生なら、もう要らない」
「だめ!!」
私は痛む胸を掴みながら、懸命に叫んだ。
「そんな風に考えちゃだめ!!
あなたの人生を彼女のせいにして滅茶苦茶にしたら、彼女を悪者にしちゃうんだよ!
そんなの、本気で望んでるわけないよね?そうでしょ?」
紳士は動かないままじっと聞いているようだ。
「自分のせいで、あなたが死んだら彼女はどう思う?
大切な人が死んじゃって、絶望の中で掴んだ覚悟をあなたは全否定することになるんだよ!
なんで応援してあげないかな?
なんで愛する人の幸せを願ってあげられないかな?
あなたのしていることは間違ってる!」
私は無我夢中で叫び続けた。
「こんなの間違ってるよ!
一緒に生きていけなくたって、一度でも心から愛したなら、
その愛を貫けば良いじゃない!
そういう生き方だってできるよ!」
紳士はゆっくりと私の方に振り返った。
そしてうっとりとした表情を浮かべながら、私のところまで歩いて来ると手を引いて私を立ち上がらせた。
「君の言葉。とてもステキだと思います。その言葉をしっかりと抱いて、生きて下さい」
紳士はにっこりと満面の笑みを見せたかと思うと、全身真っ黒の黒装束に変化した。
「あなたは誰なの?」
「私は、君の心の奥に潜んでいた闇です」
そう言うと、彼は空高く飛び上がった。
彼の背中からコウモリの羽のような黒い影が広がったかと思うと、辺り一面真っ黒い帳に包まれた。
そして一条の光がまっすぐ私の真上に差し込んできた。
「あなたは何よりも素晴らしい寂しさを手にしました。
結ばれない縁でも、出会ったことに偽りはないのです。
彼はあなたの幸せを心から望んでいます。
あなたも彼の門出を祝って、応援してあげて下さい。
そうすればいつか必ずあなたにとって最高の縁が結ばれることでしょう。
幸運を」
芝居染みた声が響き渡った。
私はいつの間にか微笑んでいた。
再び病院のベッドで目覚めると、あの重たかった心が軽くなっているようだった。
お母さんがリンゴを剥いてくれて、お姉ちゃんが私の大好きなケーキを買ってきてくれて、お父さんは黙ったまま私の頭を撫でてくれた。
「命を粗末にしてごめんなさい」
そう言えた時、家族みんなが笑顔になった。
私は一人じゃない。
「ありがとう」
嵐が去って崩壊した世界が残ったけれど、私の心はすでに晴れ渡っている。
自分の新しい生き方が気に入ったせいだろう。
一緒に生きていけなくても、一度でも愛したなら、その愛を貫けば良い。
私は左腕の痛みをさすりながら、明るい空を見上げていた。
おわり