出会いは唐突に
早朝、日の出と共に街は動き出す。まず街の中央市場から焼餅の焼ける香ばしい匂いが辺りに漂うのが最初だ。甘い匂いがする、今日の焼餅は麦にデーツを混ぜたもののようだ。
焼餅屋の主人が昨日から上機嫌だったのは、このためだったのだろう。昨晩は遅くまで酒場から陽気な歌と焼餅屋を称える声が、詰め所の中にまで聞こえていた。大方、気をよくした主人が皆に酒でも振る舞ったというところか。
しかし、これは是が非でも食べなくてはなるまい。前回デーツ入りが売りに出ていたのは、いつだったか・・・。逃したら、また当分の間、芋餅の食事になってしまう。偶には違った物を食べたくなるのが人間ってものだ。芋も嫌いではないが、うん・・・そこは僕だって人間、腹の虫も賛同したのか、あまりの大きさに恥ずかしくなるぐらいの音で了承を知らせてくる。一人の持ち場良かった、誰かに聞かれていたら瞬く間に不名誉な渾名が付けられていた事だろう。
住民も焼餅の匂いにつられたのか、表に出てきて、おはよう、今日も良い天気だ、昨日はどうも、と顔なじみ達と挨拶を交わす。朝餉を片手に鍬を担いで畑に向かう仏頂面のゴードおじさん、朝市の特売に急ぎ太った足を懸命に動かすミンディおばさん。へそ曲がりのエッグばあさんは今日も何かにご機嫌斜めの様子。酒場の看板姉妹、双子のサーラとジニーは、愛犬のベンバーを連れて、街の西側のある井戸に水汲みと洗濯に向かっている。双子が並んでいると、洗濯物の籠を抱えていても絵になるから、これまた不思議である。
住民が思い思いに動き始めた所に、街の鐘楼から朝の訪れを知らせる鐘がなる。朝市の始まりと、門番の交代を告げる音だ。
まもなくして、眠たげに眼を擦りながらやってきた同僚のヨーキーに報告と引継を済ませて、自分も朝食を求めて市場へと急ぐ。変わらない朝の風景。途中、中央市場の方から、女性の一際大きな怒声が響き渡ったが、・・・まあ、これもいつもの朝の風景である。
焼餅屋に到着した時は、丁度女将さんによるご主人への鉄拳制裁が済んだ所だった。今日の罪状はやはり昨晩の無断散財だろう。思わず苦笑いを浮かべながら、額を抑えて蹲っている主人の下へ向かう。よかった、まだデーツ入りは売り切れていない様だ。
「おはようございます、モークさん。今日もまた、一段と派手に怒られていましたね。」
「おお、ニーノか・・・。警備ご苦労さん。まったく母ちゃんも、あんなに怒るこたぁねえのになぁ・・・。おーいちちち・・・、瘤になっちまった。酒は男の嗜みだってのに、なあニーノ、おめーさんもわかるだろ?」
焼餅屋の主人モークは、妻からの鉄拳による制裁が未だに納得いかないのか、恨めしそうに横目にしながら、小声で同意を求めてくる。とは言われても、酒のことなど飲んだことのない自分には解るはずもなく、会話が聞こえていたのであろう、モークの背後から光る女将、ヘサラさんの鋭い眼光に気圧され、笑って誤魔化すしかなかった。
「何言ってんだい、父ちゃん。ニーノを巻き込むんじゃないよ!朝から恥ずかしい所を見せちまったねえ、ごめんよニーノ。で、今日は何にする?」
「おはようございます、ヘサラさん。デーツ入りを半切でお願いします。」
「ハーフ?あんた育ち盛りなんだ、もっと喰わなきゃダメじゃないか。そんなんじゃ、勢がでないってもんだよ。」
「あははは・・・。防衛団も、最近成果がなくて火の車ですからね。節約です。」
「まったく、あの馬鹿団長ときたら。こんな子にまで気を使わせるなんて。ようし、わかった、今日はあたしの奢りだ、好きな物持って行きな!」
「そんな、悪いです。お代はちゃんと支払います。」
「子供がそんな遠慮してたら、逆に可愛げがないってもんだよ、ニーノ。あんた達子供は腹一杯食べて、腹一杯大きくなってくれればいいんさね。―なんだい、何か文句あるのかい、父ちゃん?こんなもん、アンタが昨日街の衆に大盤振る舞いした酒代に比べたら可愛いもんさ。―ようし、文句がないなら、窯に集中しな。焦がしたら承知しないよ!―さてデーツ入りだったかい、ようし二つ包んであげようかねぇ。」
「ですが・・・。」
「さあ、さあ、遠慮は無しだ。持って行きな。」
「・・・はい、ありがとうございます。ありがたく頂きますね!」
「頑張るんだよ、ニーノ。おばちゃん、応援してるからね!」
ヘサラさんから受け取った包みは、焼きたての焼餅以外の暖かさにも満ちており、深く頭を下げてから、帰路に就く。うれしさで思わず笑みがこぼれ、今日は良い日になりそうだ。と心から思った。
程なくして、焼餅の入った袋を抱えて嬉しそうに走っていく少年の背が、路地に消えていったのを見届けたヘサラは一つため息をつく。
「どうした母ちゃん、ため息なんか付いて。そんなこったら、ちゃんと代金貰っておけばよかったじゃねーか。」
「馬鹿をお言いでないよ、そんな事じゃないさ。・・・ねえ、アンタ。あの子、今幾つになったっけね?」
「うん?ニーノの事かい?確か、今年で十四か十五じゃないか?」
「そうだよねえ・・・。十四・十五って言ったら、まだおっとさんおっかさんの元で過ごしている歳だろう?幾ら孤児だって言ったって、そんな歳の子が大人に混じって、今日死ぬかも知れない防衛団やってるなんて、不憫でねぇ・・・。何でこんな世の中になっちまったのかなって思ってさ。」
「そんなもん、大陸の連中のせいに決まってらぁ。低界が赤く染まったのも、草木が枯れ果てたのも、みーんなあいつらが起こした戦のせいだ。ニーノのおっとさんおっかさんだって、そのせいで死んじまったようなもんさ。けどよ母ちゃん。あいつを不憫に思うのは良いがよ、あいつだってもう一人の男として生きているんだ。だったら思うところがあっても、男として見守ってやるのが、大人(オイラ達)の務めじゃねーかい?」
「そう・・、そうさね。アンタも偶には良いこと言うじゃないか。」
「『偶には』は余計だい。そら、次焼き上がったぜ。ほらほら母ちゃん、妙な事考えてノロノロしてちゃあ、俺達が坊主に笑われちまうぜ?」
「あっはっはっ、確かに、確かにその通りだね。それじゃ、あたしらもあの子に負けないぐらいバリバリ働こうじゃないか。いらっしゃい、いらっしゃい、焼きたてだよ!ユン婆さん、お一つどうだい?今日はデーツ入りの焼餅もあるよ!」
軽快な客引きの声。隣の麦粥屋の主人も負けじと声を上げ始め、向かいの揚芋屋もそれに続く。始まる連鎖。始まる賑わい。そこには何時もと変わらない、朝の風景があった。
中央市場から東に抜け、路地に入る。女将さんの活気ある呼び込みの声が、まだ微かに聞こえる。今度、何か焼餅のお礼を持って行くとしましょう。最近、薪の値段が上がっているから、郊外に出たとき、使えそうなものを探してみるとしようか。・・・うん、それが良い、きっと喜んでくれるでしょう。ああ、それにしてもはやく食べたいですね、ふんわりもちもちの食感に甘い味が口いっぱいに広がるのを想像しただけで、涎が出てきてしまいます。そうだ、今日は良い日ですからお茶と一緒に頂くとしましょう、偶には贅沢したって、神様は見逃してくれるはずです、はい。
次の角を曲がればもうすぐ我が家、自然と足の動きが軽くなる、が焼餅の事に夢中で足下に注意を向けていなかったらしい、角を曲がった先にあった“何か”に躓いて豪快に転倒する。
「あいたたた・・・。ハッ、焼餅!焼餅は!?・・・良かった無事ですね。全く、なんでしょうかこんな曲がり角に・・・。危ないですねぇ。」
身を起こしながら、自分の足を掬った何かを確認する。否、それは“何か”ではなく、“誰か”であった。そこには歳は自分と同じぐらいの少年が俯せで蹲っており、自分はそれに躓いた様だった。
少年の顔には見覚えが無く、身なりもここらでは見たことのない服装で、一目でこの街の住人でない事は理解出来た。では、この少年は一体・・・。
「と、とにかく救助しなくては・・・。君、大丈夫ですか!どこか痛いのですか!?」
少年を抱え起こし仰向けにすると、体の下敷きになっていたのであろう、不思議な棒状のものが険しい顔をした少年の手から滑り落ち、地面にぶつかるとカチャリと金属音が聞こえた。
「これは、一体・・・?切れ込みが入っていますが・・・?」
棒の先端、ボロボロの布が巻かれ持ち手の様になっている部分を持ち上げると、するりと切り込みから先が抜け落ち、中身が顕わになる。
「これは・・・、すごい・・・。」
中身は白銀に輝く、それでいて澄んだ空気を纏う金属であった。片側は斧の先端の様に研がれているが、普段芝を刈る際に使っているそれとは比べものにならない程、研ぎ澄まされ精錬されており、思わず見惚れてしまう、そんな美しさを兼ね備えていた。布に隠れて気づかなかったが、持ち手の部分にも、今まで見たこともない程の豪華な細工が施されており、真紅に輝く石が埋め込まれていた。
芸術品に疎い自分でも解るほど、明らかに大金が付く一級品だろう、そんなものをこんな所で少年が、しかも倒れている人物が持っているなんて、謎は深まる一方であった。
「・・・・・ら・・・・。」
少年から微かに声が聞こえる。芸術品に見惚れていたせいで、少年の事をすっかり忘れていた。いけないいけない、まずはこちらの介抱が先です。
「ら、何ですか?しっかり!しっかりしてください!」
声を掛けるも少年は、以前険しい顔のまま。もしや、何かの病気で倒れたのだろうか、そうであったら急ぎ医師の手配をせねばなるまい。だが、常駐の医師の居ないこの街では、月に一度程度の商隊に同行する医師を頼るか、馬車で十日ほど先の隣街まで行くしかない。商隊はつい五日前にこの街を立ったばかりだ、急いで馬を走らせたとしても、二人では追いつくのも難しい。
(困りましたね・・・。教会に行けば、薬は幾つか常備されていますから、それで間に合えば良いのですが・・・。)
そう考えを巡らせていると、少年が声を振り絞って口を開いた。
「・・・は・・ら・・・・へっ・・た。」
はい?今、何と?途切れ途切れでしたが、『腹減った。』と聞こえましたが・・・。
はっはっは、そんなまさか、まさかです。聞き間違い、そう聞き間違いに違いません!必至に否定しようと努力するものの、それを察したのか少年の腹の虫が大きなブーイングで阻止してくる。
頭が痛い・・・、つまりあれですか。急病とかではなく、ただの『行き倒れ』だった、と。そういうことですか・・・?
思わず空を見上げて訪ねてしまう。
「あの、神様?今日って良い日・・・ですよね?」
結局、放っておく訳にも行かず、自宅に運び込んだ行き倒れ少年の名前は、どうやらチシマキイチというらしい。
服装もさることながら、名前もここらでは聞かない風体で、年齢は自分と同じく十四。頭の先からつま先まで、怪しさの塊の様な少年だったが、空腹との事だったので、水と焼餅を差し出すとあっという間に平らげた。
「いやー、死ぬかと思った。ぼそぼそで味のしないパンだったけど、助かったよ。」
失礼な、こんなに美味しいものを前に『味のしない』とは、味覚が可笑しいのではないだろうか、この男・・・。買い置きの芋でも焼いて渡せば良かった、勿体ない。
思わず睨み付けそうになるが、咳払いで誤魔化す。危ない危ない。
「初めて食べたけど、なんていうパンだったんだい?」
「パンというものは解りませんが、これは焼餅というものです、デーツ入りの。ええ、と。それでチシマキイチさん?でしたっけ。」
自分も焼餅を少しずつちぎって口に入れながら聞く。うん、やはりふわふわしてて甘さが広がり、とても美味しい。女将さん感謝します。そしてこの男には二度と喰わせてやるものか。
「キイチで良いよ、ニーノさん。チシマは苗字だ。」
「苗字?苗字とは、何です?」
「何って・・・、うーん・・・そうだなぁ。その人個人の名前ではなくて、その人がいるその家の名前?みたいな?外人さんには、なんて言えば良いんだろうなぁ・・・。」
「ああ、なるほど。家名ですね、解りました。家名のある方という事は、都から来られたのでしょう。道理で、ここらでは馴染みのない服装をなさっているのですね。見たところフードもありませんし。都では、その様な黒服が最近の流行なのです?」
「そうそう東京。流行っていうか、学生服なんだから学生はみんな着てるぜ、普通。学ランかブレザーかって違いはあるけどさ。」
トウキョウ。聞いたことのない地名だが、そういう場所があるのだろう。
「すごい、キイチさんは学生さんでしたか。となれば、ますます名のある家の方なのでしょう。羨ましい限りです。」
「いやぁ、そんな大した家じゃないけどなー。まあ、でも剣術道場やってるから地元じゃちょっと有名かな。ニーノさんは、学校行ってないのか?」
「ええ、僕は・・・。色々事情がありまして・・・。」
「事情、かあ・・・。まあ、人はそれぞれだってじーちゃんも言ってたから聞かないけど、義務教育ってやつなんだし、行かないと損だぜ。友達出来ないし。」
「ギム?キョ?・・・しかし、そんな学生さんが何故この街に?」
「そうそう、それがサッパリでさー。火事にあって逃げてたのは覚えているんだけど、その後は気付いたらここから暫く歩いた場所に居たんだよね。どこかの家で電話を借りようと夜通し歩き回って漸くこの街を見つけたんだけど、流石に腹減りすぎて・・・。」
「それであそこに倒れていた、と。」
なるほど、大体事態が掴めてきた。キイチさんは恐らく何らかの事故、それもここまで移動してきた覚えがないということであれば、恐らくポータル系の事故による強制転移に巻き込まれたと考えるのが妥当のだろう。
電話というのも、聞いたことがある。大陸にある連絡手段の一つで、遠く離れた所に音声を送れる技術だったか。それを探して外からここまで辿り着いた、という事か。
外人というのは恐らく低界の住民を差す言葉なのだろう。・・・うん?外から来た?
「失礼、先ほど街の外から来た様な事を仰っていましたが、門は通られたのです?」
「通ったよ。この家の近くに、大きな門があるでしょ?それ。」
「・・・通った際、誰かに何か言われませんでしたか?」
「いやー、特には?暗かったし、誰も居なかったと思うよ。それがどうかした?」
「い、いえいえ。こちらの話です。」
この家から近い門と言えば、昨夜、守衛をしていた南門ではなく東門か。確か昨日の担当は、フレディとジョンソンの二人組でしたか。・・・ナッシュさんに報告、ですねこれは。
「とにかく、夜通し歩いたのであればお疲れでしょう。狭いですが、うちで一休みしてから、ご案内しますので我々の本部の方へ行きましょう。それほどの事故であれば、きっと情報が入ってきているはずでしょうから、調べればご家族への連絡も取れるかと思いますよ。」
「ありがとう。いつの間にかもうこんな時間みたいだし、俺もヘトヘトで・・・。」
「二階に上がった角の部屋に、寝台がありますのでそちらをお使い下さい。」
「ニーノさんは?もしかしてこのソファーとか?だったら俺が・・・。」
キイチは何か悪い想像に至ったのか、困った子犬の様な表情を浮かべながらおずおずと聞いてきた。それがどうにもおかしくて、小さく吹き出してしまう。
「ふふっ、ご心配なく、僕は別室を使います。この家、元は小さな寄宿舎で、個室の数だけ作り付けの寝台があるので、誰かが泊まりに来られるのは慣れているのですよ。部屋に窓が無いので、ランプはこちらをお持ち下さい。寝具は寝台の上に重ねてありますので、そちらをどうぞ。」
「わかった、ありがとう。じゃあ、先に休ませて貰うよ。」
「はい、おやすみなさい。」
おやすみ、という短い挨拶と共に、キイチは二階へ上がっていった。
それにしても、そんな民間人が強制転移させられる様な大事故、あったでしょうか・・・。あったとしたら、今日の朝一で号外が出回っていてもおかしくないだろうに・・・。焼餅を食べるのに使った食器を洗いながら考えるが、解答は一向に沸かない。
(餅滓の様に、ちょっと濯ぐだけで綺麗になる事態であれば良いのですが・・・。)
考えても仕方がないと諦め、二階の自室にあがり、そのまま使い慣れた自分の寝台に倒れ込む。
客人の手前、気を張っていたが、夜通しの勤務明け。流石にもう・・・眠・・い・・・・。
目が覚めたのは、正午を告げる鐘の音によってであった。
数時間ではあったが熟睡出来たおかげだろう、多少体に気怠さは残るも、意識はハッキリとする。
そのまま眠りこけたせいで団服に付いたシワを伸ばしながら、早朝の出来事を思い直す。
(焼餅を貰って、行き倒れに遭遇して、ああそうでした、あの芸術品について聞くのを忘れていましたね・・・。あれは一体何だったのでしょうか。後で本部に行く道中聞いてみるとしましょう。)
そう考えながら、タンスの中に押し込まれていた白いフード付きの外套を引っ張り出し、自室を後にする。
キイチに貸した角の部屋の前に辿り着き軽くノックをすると、返事が返ってきたので、一呼吸置いてからドアを開ける。
既に起きていたのか、キイチは寝台に腰掛けていた。否、起きていたのではなく眠ってはいなかった、が正しかった。寝具には一切使われた形跡が無く、幾ら気丈に振る舞っていたとしても、不安で眠るどころではなかったのだろう。冷静に考えたら、見ず知らずの土地で、数十分前に知り合った見ず知らずの者の家で眠るなど、自分だって恐ろしくて出来やしない。キイチの事を考えたら、睡眠を勧めるのではなく、すぐ本部へ行って誰かに託すべきだったのだろうか・・・。ああ全く、考えの至らない数時間前の自分が恨めしい。
それでも尚、平静を装ってる目の前の少年に調子を合わせ、訪ねるしかなかった。
「如何ですか?ね・・・休めましたか?」
「うん、どうもありがとう。ばっちりだ。」
「・・・それは良かった。では本部の方へ参りましょうか。食事は・・・、すみません何時も食材を買い置きしていないので、途中屋台で何か買いましょう。それでよろしいですか?」
キイチが頷くのを確認し、揃って一階へと下り、玄関で片手に持っていたフード付きの外套をキイチに差し出す。
「街の中央市場で買い物をして本部に行くので、十五分ほど歩きます。道中こちらをお使い下さい。」
「これは?」
「日が強いですからね。日よけ用の外套です。」
勿論それだけが理由ではない。ここではキイチの服装は良くも悪くも目立ってしまう為、それを隠すというのもある。
特に今は正午、皆が昼食を取りに中央市場へ集まってきている時間帯。そんな所に、大陸から来た人間を晒したら、餓えた野犬が餌に群がるかの如く、おしゃべりが大好きなおばさま方に囲まれ、十五分なんかじゃ移動時間は利かなくなるだろう。その為の防護策でもある。
「路地を出る前までは日陰ですので構いませんが、路地を抜けるときからはフードを被って下さいね。」
「わかった。」という返事を聞き、玄関の扉を開け、家を後にする。中央に抜ける歩き慣れた路地なのに、誰かと並んで歩くというのが新鮮で、何だかむず痒い。
「そ、そうだ、聞いておきたかったのですが、キイチさん。その手にしている棒の様なものは一体何なのです?」
「ああ、これ?うちに代々伝わる刀で、ええっと何だったっけなぁ・・・。大業物、湾れ・・刃?“葛籠四季”っていう名前だったかな。長いから『シキ』って呼んでる。“うちの家宝”ってやつ。」
「かたな?おーわざ・・?つづ・・?ごめんなさい、何が何だか。」
「ごめん、ごめん。外人さんには解らないか。刀っていうのはソード、ソードで解るかな?長い包丁みたいなやつ。」
「ええ、それは解ります。大昔の戦争で使われていたという、鉄を伸ばして作った切る事を目的とした武器、でしたっけ?」
「そうそれ、それの親戚みたいなものかな、刀っていうのは。で、大業物っていうのはその中のランクで、湾れ刃っていうのは模様の形。ほら、見てご覧、刃が波打ってる様に見えるでしょう?」
キイチが腰に下げた棒、刀をスルリと抜き見せてくれる。確かに先ほどは解らなかったが、刀身に水が風により波打つかの様な模様が見て取れた。まるで今すぐに動き出しそうな躍動感、見れば見るほど引き込まれる芸術品である。しかし、いいのだろうか、家宝をそんな簡単に他人に見せて。
「刃の模様は他にも幾つかあって、湾れ刃はそのうちの一つなんだけど、これが真っ直ぐになってるのが直刃っていってさ、そっちの方が好きなんだ、俺。ちなみに、この入れ物が鞘。普通は削った二つの木材をくっつけて作るんだけど、一本の丸太の中心を削りだした珍しいものらしいよ。ほら、継ぎ目が全く見られないだろう?」
「確かに・・・。しかし、そんな重要そうなこと、見ず知らずの僕に教えてしまっていいのですか?もしかしたら僕、お宝目当ての盗人かもしれませんよ?」
「大丈夫、ニーノさんならそんなわけないって、信じてる。俺は信じるって決めたんだ。」
勘だけどさ、と屈託のない笑顔と共に、透き通った目で見つめてくる。困らせてやろうとしたこちらが恥ずかしくなってしまう。
「あはは、照れてしまいますね。・・・その持ち手の部分に施されている装飾にも、何か名前があるのですか?」
「この持つところは柄で、その先のは鍔。元々この『シキ』自体が、大昔うちのご先祖様が大昔この刀で家よりでかい化け犬を退治したっていう伝説があってね、普通鍔には円い輪が付いてるんだけど、『シキ』の鍔はその時の化け犬を表してるんだってさ、だからこんなトゲトゲしてるんだって。赤い部分は、化け犬と戦ってるときに抜き取った目玉がこの赤い石になったらしいけど、嘘くさいよな。そんなでかい犬の目が、石になった途端こんな小さくなる訳がないだろって。“千島の犬神伝説”って言うんだけど、聞いたことない?」
「いいえ、すみません。その様な事件があったこと自体、初耳です。」
「そっかぁ・・・。まあ、八百年以上前の話だっていうから、それもしかたないか。地元じゃ結構有名なんだけどな。」
・・・八百年?今八百年年と言ったか?おかしい、物体剣が利用されていたのは凡そ二百年前の事。そんなに古くから刀というものがあったのなら、二百年前の物体剣を記録として保管しているライブラリであれば、一つぐらい刀に関する記録を目にしていても不思議ではないはずなのに・・・。ライブラリに登録されない程古くに既に廃れた遺物、と考えれば、ライブラリの方は納得がいくが、そうであれば、何故そんな遺物をこの男が持っているのか、という疑問は深まる。
こちらに転移してきた火事の一件と言い、妙な引っかかりを感じさせられる。
「ただ、この刀へんてこでさ。幾ら刃を研いでも“切れない”んだよ、なーんにも。普通刀って、素人が使っても果物ぐらいなら切れちゃうし、達人が使うと鉄も切ってしまうのに、この『シキ』だけは誰が使っても、何も切れないんだよね。干してる布団に布団叩きを叩き付けたときみたいに、跳ね返ってくるだけ。果物どころか、靴下のほつれた糸だって切れやしないんだ。こんにゃく以外は何でも切れる刀、なんてのは漫画の話だから笑えるんだ、現実じゃ全く笑えない。奇妙奇天烈摩訶不思議、逆に気味が悪いってもんさ。」
「確かに不思議ですね。見たところ、刃は今まで見てきたどの刃物よりも、鋭いように感じましたが・・・。」
自分が芝を刈るのに使っているのは、キイチの持つ刀とは違い、小ぶりの手斧で、刃もこぼれつつあるものだが、それでも何度か振り込めば切る事は可能。物が違うというのを加味しても、この鋭さで何も切れない、と言うのは俄に信じがたい話であった。
それに本来、剣というのは斬る事を目的に開発された道具。何も切れない剣など存在理由からして違和感の塊である。もっとも、一番奇妙なのは刀より貴方ですけどね、キイチさん。
「あー、信じてないな、ニーノさん!」
考えていたことが表情に出てしまっていたのか、キイチが怪訝そうな顔になる。
「いえいえ、そんな事は・・・。」
信じてないのは刀の話ではなく貴方の事です、とはさすがに言えず、咄嗟に否定して濁そうとしたが、それが余計キイチの不審を買ったのだろう、怪訝な顔が更に険しくなる。最早しかめ面だ。
「ようし、見せてやる!いいかい、見逃さないでくれよ?」
どうしても信じさせたいのだろう。キイチは鞘に納めた刀を左手で持ち直し、右手を柄に添え、表が大通りに面した家屋の壁に立てかけられていた古びた廃材に向かって腰を落とす。
「だ、大丈夫ですよ、キイチさん!試さな―」
―瞬間、世界が制止する。それは一瞬だったのだろう。制止も間に合わぬ、刹那の出来事。抜き放たれた煌めきは、音を置き去り、空を裂き振るわせる。見る者を魅了し、引き込み、そして恐れを抱かせるそれは、まるで魔法のよう。圧倒的な存在感で見る者を圧倒し、征服し、畏怖させる失われた古の法。空気はまるで冷却したかのように冴え渡り、思わず鳥肌が立つ。たった一瞬の出来事のはずが、まるで数時間の様に感じられた。
「―ほらね。」
体勢を戻し、刀を鞘に収めながら、何故か自慢げに振り向いたキイチの言葉で我に返る。同時に、己の体温を自覚し、途端に脂汗が吹き出てくる。今のは一体・・・、一体何者なんだ、この人!?
「見ての通り、切れてないでしょ?」
確かに刃が通過してたように見えた廃材には切れ込みどころか、傷一つ付いていない。しかし、軽い音キイチが刀を鞘に収めきったのと同時にそれは起こる。
ピシッと言う何かがひび割れる音と共に、廃材が立てかけられていた壁が斜めにずれ始める。
「「え゛?」」
二人同時に同じセリフを発し、顔を見合わせる。亀裂と崩壊の音は瞬く間に大きくなり、数秒で全体に広がる。大通りの側でも異変に気付いたのだろう、人々の叫び声が聞こえる。
「ちょ、ちょ、ちょっとキイチさん!?切れてます!壊れてます!崩れてますけどぉぉぉ!!?」
「あ、れー・・・ぇ?え?え!?え゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛!!?」
どうにかしろとキイチの肩を力任せに揺するも、帰ってきたのは素っ頓狂な叫びだけ。
まずいまずいまずい、非情にまずい!見つかったらどう言い訳をしたってお終いだ。良くて投獄、悪くて追放。こんな得体の知れない男と仲良く罪人人生なんて、そんなの絶対にお断りである。かくなる上は―。
「よし、ダッシュです!逃げましょう!キイチさん!ほらフード被って!さあ!」
反応なぞお構いなし、キイチの腕を引っ張り、脱兎の如く走り出す。背後でキイチが何か言った様だが、そんなのはもう知らない。
わかった、わかってしまった。今日は良い日なんかじゃない。逆だ。厄日だ。しかも上げてから落とす、最悪な部類の。
「おお、神よ。何故、私にこんな試練を。」
思わず口に出して叫んでしまう。―もう、泣きたい。






